1-③

 獣の体が轟音と共に床に叩き落されたのは刹那の間だった。


 くぅと弱々しく鼻を鳴らす獣は、私の膝元でがくがくと震えている。その鳴き声があまりにも憐れで、私は思わず獣の背に手を伸ばした。硬い毛を撫でながらも、私はその輝きから目をそらすことができない。


「――なぜ笑った?」


 黄金色がきろりとこちらを見る。ああ、これは、瞳だ。黄金色の瞳だ。


 金の瞳を持つものが問いかける。凛と澄んだ音は少し低いけれど女の声のようだ。それは確かな威厳をもった、人ならざるものの声。


 答えられずに沈黙していると、金眼がすうっと細められた。


「女よ。おれはお前に問うている。疾く答えよ」


 平坦ではあるが苛立ちの滲む響きに、私よりも先に獣がびくりと震えた。硬い毛を撫でる手に汗が滲む。


「山の神様に、この身が捧げられることを……よろこんでいたからです」

「ほう?」


 人ならざるものは右目だけをくっと見開いた。続きの言葉を待っているのだと理解して、私は言葉を続けようと口を開く。


「麓の村は今、作物が育たないほどの日照りに見舞われております。川は涸れ、老人の中には飢え死にするものも出ました。私は村の代表として雨を乞うべく、山神様にこの身を捧げに参ったのです」


 からからに乾いた喉が痛い。今にもせき込みそうだった。ひりつく感覚に笑いそうになる。ああ、私は生きているのだ、と。


「あなたは、名嘉山なきやまの神様でしょうか……? でしたら、どうか。どうか村をお救いください」


 金眼がゆっくりと細くなって消えていく。「ははあ」と低い声が独特な笑い声をあげた。


「くだらん」


 冷たい声。人を心底見下したような、そのくせどこか憤るような声。それが耳に届いた刹那、私は背筋が凍りついたような心地になった。初夏だというのに震えがとまらない。私は無意識のうちに冷たくなった手を獣の背に擦りつけてぬくもりを探した。


 ずるりと衣擦れの音が聞こえる。それは少しずつこちらに近づいてくる。声の主が動いているのだ。こちらに向かってくるのだ。早鐘をうつ心臓を抑えようと、私は獣を撫でている方と別の手を持ち上げた。


 胸元を握りしめた刹那、目の前で一対の金色が輝いた。ひゅっと自分の息をのむ音が聞こえる。


 いま、声の主が、人ならざるものが、目と鼻の先にいる。


「女よ、お前にはこの身が何に見える?」


 とろけるような、甘やかな声が言葉を紡ぐ。


 ひたりと冷たいものが頬に触れる。甘いこうのような匂いがする。獣のような匂いもする。むせ返るようなそれに、頭がぐるぐると回って倒れそうだった。


「も、申し訳……ございません。暗くて、お姿が、よく……」


 私はやっとの思いで震える声を絞り出す。


「ははあ。人とは面倒なものだな」


 嘲笑うような声と共に、がたんと音を立てて社の扉がひとりでに開いた。青白い月明りが狭い社の中に差し込む。


 月が照らし出したその姿は、一見ざんばら髪をゆるく結い上げた女のように見えた。しかし、明らかに人にはないものが、その額から突き出ていた。あれは、角だ。


「鬼……?」


 上に向かってぴんとはねた長いまつげの縁取る金色がじとりとこちらを見た。その瞳にわずかにかかる前髪を三つに分けるようにして、彼女の額からは二本の角が生えている。角はつるりと青白い肌の色をしており、尖端に向かうにつれて淡い桜色に色づいていた。


 初めて見る異形の姿は、私に恐怖と同時に歓喜に似た感情を与えた。黄金色の瞳を持つ鬼女は、どうしようもないほど美しかったのだ。


「しかり。おれは鬼よ」


 頬に触れている冷たいものがゆっくりと皮膚を撫でていく。それは鬼の手だった。細長い指は血のように赤く尖った爪に彩られている。きっと、この爪は私の体など容易く切り裂いてしまうのだろう。恐ろしいと思いながらも、私はそのかんばせをただ見つめることしかできない。


 鬼はしばらく私を見つめて、ふんと面白くなさそうに鼻を鳴らした。金眼が逸らされて、頬に触れていた冷たい体温が離れていく。首を絞めるような緊張感から解放されたことに安堵しながらも、私はそれをどこか名残惜しく感じていた。


「ただの鬼に雨を降らせる力があると思うか? 暴力と略奪しかできぬ鬼に、何ができようか」


 いやらしく笑って鬼は言う。見下したような冷たい嘲笑だ。


「そも、おれが雨を降らす力を持っていたとして、だ。なぜこのおれが人なんぞのために雨を降らす? なぜ人ごときが捧げられただけで、その願いを叶えねばならん? おれは初めから人など欲していないというのに」


 鬼は狭い社の中をぐるぐると歩きながら言った。一歩踏み出すたびにぎしりと木の床が軋む。


 膝元に伏していた獣が足を引きずるようにして傍らに体を寄せてきた。くぅんと鳴いて鼻先を腿に擦りつけてくるのは怯えているからだろう。獣の硬い毛を撫でながら、私は鬼の姿を目で追った。


 軽い足取りで踊るように鬼は進む。しかし、一歩、また一歩と進むたびに床の軋む音はひどくなっていく。それはまるで音そのものに圧があるようだった。ぎしり、ぎしりと床板が悲鳴を上げるのに合わせて、こちらの背骨まで軋んでしまうように思った。


「実にくだらん! 人とは身勝手で愚かなものだ!」


 鬼は咆哮するように言うのと同時に、だぁんと床を大きく踏みしめる。それに合わせて私と獣の体は宙に浮かんだのだろうかと錯覚してしまうほど震え上がった。びりびりと空気が揺れるせいで息ができない。なんとか息がしたくて、私はうずくまりながら口を大きく開けて空気を求めた。涙で滲む視界の端に、獣も同じように口を開けているのが映る。中途半端に開いた口の端からだらりと舌が垂れていた。その赤に、またくらくらと目が回る。


「さて、女よ」


 社が静けさを取り戻した頃、鬼はいっそ穏やかな声で私を呼んだ。酸欠に喘いでいた私は、それでもと必死に声のした方へ顔を向ける。開け放たれたままの扉の前で鬼はこちらに背を向けていた。青白い月明りを受けてほの暗く浮かび上がる鬼の姿は、華やかな着物の柄も相まってやはり美しい。


 ざんばら髪を揺らして鬼は私を一瞥する。


 うずくまったまま動くことができない無様な姿を見て、鬼は金眼をすっと細めた。ずりずりと衣擦れの音をたてて、鬼がこちらにやってくる。目の前に置かれた裸足の爪先に、鬼とは足の先まで美しいものなのかと嘆息した。


「ここはおれのねぐらだ。その犬と共に、疾く失せろ」


 穏やかな声と共に爪先がゆっくりと後ろに引かれる。ひゅっと風のとおる音がしたかと思えば、私の体は社の正面にある大樹の根本に打ちつけられていた。


「アッ……」


 息がつまる感覚。腹と背中が燃えているのかと思うほど熱い。視界がちかちかと明滅した。そこでやっと、私は鬼に蹴り飛ばされたのだと理解できた。腹を抱え込むようにしてうずくまると、くぅと耳元で獣の鳴く声が聞こえる。獣は私を追って社の外に出てきたようだ。


 遠くなる意識の中、私は黄金色が社の奥に消えていくのを見ていた。

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