1-④

 目覚めた私が最初に見たのは、はっはと荒く息をつく獣の鼻先だった。瞬きをすると、獣は元気よく鳴いて頬を舐めてくる。生臭い息が顔にかかり、私は思わず苦笑した。


 山犬から逃げるように体を起こした刹那、背中を強い痛みが襲う。低く呻きながらうずくまると、体中からぱらぱらと乾いた稲わらが滑り落ちていった。よく見れば、足元までわらがかけられている。初夏でも冷える夜の山で凍えずにすんだのはこのおかげだろう。


 チチと鳥たちの鳴き声を聞きながら痛みが引いていくのを待つ。すっかり朝になってしまったようだ。痛みが引いてきたのを見計らって体を起こし、周囲を見回す。昨日と変わらず社は静謐な空気をまとってそこにあった。唯一違うのは、その扉が硬く閉ざされていることくらいだ。


 あの鬼は、あそこにいるのだろうか。暗闇の中で輝く冷たい金眼。その輝きが脳裏に浮かんだ途端、引いたはずの背中と腹の痛みが蘇る。ずきずきと熱を孕んだ痛みがまた湧き上がってくる。


 ぼんやりと腹をさすっていると、ひときわ大きな声で獣が鳴いた。我に返ってそちらを見つめる。獣はその大きな口に咥えたわらを私にぐいぐいと押しつけようとしているところだった。優しい稲わらの匂いに緊張の糸が緩んでいく。


「あなたがこれを持ってきてくれたの?」


 わらを受け取りながら問いかけると、獣は尻尾をぱたんと振ってひとつ鳴く。頷く代わりらしい。賢い子だ。私は獣の頭を撫でつつ、その姿をまじまじと見つめた。


 昨晩は暗かったせいでよくわからなかったけれど、どうやら獣の正体は犬のようだ。しかし、村で飼っていた犬よりも少し体が大きい気がする。体だけではない。横に裂けた大きな口と吊り上がった目は、やはり犬とは少し違う印象を受ける。同じところと言えば、ぴんとたった三角の耳ぐらいだろう。もしかしてこれが山犬というものだろうか。以前、町でよく会う猟師から、山犬の話を聞いたことがあった。この獣の姿は、猟師が語っていたその姿とよく似ていた。


「ありがとう。賢いのね」


 もう一度頭を撫でてやれば、山犬はうれしそうにまた鳴いて私の頬を舐めてきた。いつの間に懐かれてしまったのだろう。今の山犬からは、昨夜のような狂暴なようすは見られなかった。ただ、押し倒さんばかりの勢いはやはり少しだけ怖い。抵抗しようと腕を伸ばした刹那、またしても背中に激痛が走る。


「うっ……」


 思わず眉を寄せて呻くと、山犬は途端に勢いをなくして体を離してくれた。本当に賢い子だ。


 楽な姿勢を探してわらの上に横たわる。やはり痛みはそう簡単に消えてくれないようだ。しかし、優しい匂いに包まれながら目を閉じて深呼吸をしていると、いくらか楽になってきた。ふうと深く息を吐くと、山犬が顔に鼻先を寄せてくる気配を感じる。心配してくれているのだろうか。


「大丈夫よ。心配しないで」


 山犬に対して投げた言葉の意味に気づき、私は自嘲まじりのため息をついた。痛む体は生きている証だ。本当であれば、昨夜のうちに死んでいなければならない自分が、こうして今日を迎えている。あの美しい鬼に刻まれた痛みに悶えながら、大丈夫だなどと言っているなんて。


 もぞもぞとわらが動くのに目を開けると、背中に温かな体温を感じた。山犬が私の背中に寄り添うようにして横たわっているらしい。


「そばにいてくれるの?」


 通じないとわかっていても、問いかけずにはいられなかった。ちょうどよく山犬が鼻を鳴らすものだから、私は滲む視界を誤魔化すようにまた目を閉じる。


「……うれしい」


 ありがとうと囁くように呟きながら、私はまた眠りに落ちていった。


  ◆


 警戒するような山犬の鳴き声で目が覚める。ぐるると唸る声に飛び起きて、また背中の痛みに眉を寄せた。しかし、我慢できない程の痛みではない。先ほど感じた痛みよりはかなりましになっている。


 山犬はある一点を睨みつけていた。じりと引かれる後ろ足には僅かばかりの怯えが滲んでいる。その瞳は社を睨んでいた。恐る恐るそちらを見ると、社の正面につくられた木の階段に、あの鬼が座っていた。


 彼女の鋭利な美しさは陽光の下だとしても変わらない。ただ、月明りの下で爛々と輝いていた金色の瞳だけは、その剣呑な色を僅かばかり穏やかに滲ませていた。派手な柄の着物からにゅっと伸びた白い足を組み、頬杖をついて鬼はこちらを静かに見つめている。


「……おはよう、ございます」


 沈黙に耐えかねて声をかけると、鬼は一瞬だけ片眉を上げた。再び訪れる沈黙。どうしていいかわからず、私は眉を下げて微笑んでみる。鬼はそんな私に声をかけるわけでもなく、ふんと鼻を鳴らして社の中に入ってしまった。


 社の中に消えていく鬼の姿。暗闇に溶けるようにして消えた鬼を隠すように、社の扉がばたんと音をたてて閉まる。


「そういえば、帰れって言われたんだっけ……」


 ぽつりと呟くと、山犬はくぅんと鳴いて足に鼻先を押しつけてくる。それを笑って受けながら、私はこの先のことを思案した。


 生きて村に帰れば、きっと父母は喜んでくれるだろう。けれど、それはできない。私のこの身は、すでに雨乞いの生贄として山の神に捧げられたのだから。雨が降らないまま帰ったとなれば、生贄の役目から逃げたのだと家族ともに村人たちから後ろ指をさされて生きていくことになる。最悪村人たちの怒りを買って、家族全員が殺されてしまうだろう。


 村を出るときの村人たちの目を思い出す。あの目は確かに救いを求める目だった。村のために犠牲となる私を憐れむ目よりも、こんな小娘に対して村を救ってくれと、犠牲になってくれと願う目の方が圧倒的に多かった。


 ぞくりと肌が粟立つ。心配そうにこちらを見てくる山犬を、私はそっと抱きしめた。


 優しかった村人たちは日照りによって確実に追い込まれていた。きっと、私が村のために死んだというただそれだけで救われている人もいるはずだ。そんな中に、のこのこと生きて帰るなんてできるわけがない。例え、よく帰ったと受け入れられたとしても、私はもうあの村で安穏を得られないだろう。


「安穏……か」


 生きて帰ることができないのならば死ねばいい。自分の役目は死ぬことだ。死んで、山神の贄となって、村に雨をもたらす。どうせ、このまま飲まず食わずでいれば死ぬのだから。


 まだ少しだけ痛む体を鼓舞して、私はゆっくりと立ち上がった。


「何もしないで死ぬよりは……ね」


 私は着ていた打掛を脱ぐと、思い切り左右に引っ張った。上等な布で作られたそれはなかなか破れず、私は足元に落ちていた木の枝を折ってそれに突き立てる。鋭利になった枝の先はあっけなく白い布を破いてくれた。


「よし、できた」


 破いた布を手に、私は石造りの鳥居をごしごしと拭いてみた。力を込めて何度か拭えば、みるみるうちに苔に覆われていた石が白い色を取り戻していく。その代わり、白い布は真っ黒になってしまった。これはやりがいがありそうだ。私は知らないうちに笑っていた。


 今は雑草やくもの巣にまみれて粗末に見えるが、この社は本来ならば美しいものだったに違いない。荒れ果ててもなお、これだけ静謐な空気を纏うのだから。どうせ死ぬのなら、命が尽きるまでこの社を手入れしよう。たとえ、ここを住処にする鬼が望まなくても。


「家がきれいなことは、きっとうれしいことだもの」


 ね、と微笑むと、山犬は元気よく吠えて返事をしてくれた。

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