1-②

 社の中は埃っぽく、枯草と獣のにおいがした。きっと動物のねぐらになっているのだろう。


 私は社の隅に腰掛けて天井を眺めた。天井には鳥がついばんだような小さな穴がいくつも空いている。薄暗い社の中に陽光が差し込むようすは、まるで星空のようだった。


 三人は帰ってしまっただろうか。いましがた閉じたばかりの扉をちらりと見る。隙間から覗いてみようかと思って、私は首を振った。覗いたところで、どうなるというのだろう。開いて、まだあの人たちがいたとして、私は一体どうするというのだろう。


「お父さん……お母さん……ごめんなさい」


 謝りながら目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、村の外れに置き去りにされていた私を拾い、育ててくれた両親の姿。


 子どものいなかった養父母は、何も持っていなかった孤児みなしごに澄子という名前をくれた。惜しむことなく愛情を注いでくれた。引き取ってすぐに二人は子宝に恵まれたけれど、実の子どもが産まれた後も私に対する愛情は変わらなかった。


 両親への恩返しを意識し始めたのは、十五歳になったくらいだろうか。私の容姿は美しいと称されるものらしく、村人たちみんなが村で一番の器量よしだとほめてくれた。この容姿に対する評判は作物を卸している町まで届き、町で一番大きな商家から跡取り息子との婚約を申し出されるほどだった。小さな村において、娘の評判は両親への評価に置き換えられることを知り、私は自分の容姿が役に立つものなのだと自覚した。


 それが、こんな形で両親を悲しませることになるなんて、思いもしなかったけれど。


 本当であれば、生贄には血のつながらない妹がなるはずだった。老人たちが生贄になる少女を決めたとき、私は商家の息子と婚約した後だったからだ。


「ごめんね、涼子りょうこ……」


 私が生贄になったと知ったとき、妹は泣いていた。美しい瞳に憎悪を燃やして泣いていた。


 ――あんたは全部、私から奪ってくんだ。美しくて、優しい澄子。いつだって、父さんが、母さんが、みんなが誉めそやすのは姉さんばかり。ねえ、私がどんな気持ちだったかわかる?


 普段であれば几帳面に結い上げている髪を振り乱し、妹は涙をぼろぼろと零しながら私に詰め寄った。


 ――やっと、こんな思いから解放されると思ったのに! どうしてわかってくれないのよ……!


 妹が私の身代わりに生贄になることを知り、私はすぐに老人たちに抗議した。婚約したからと言って、生贄の候補から除外されるのはおかしい。雨乞いのために村で一番美しい娘を捧げるというのなら、誰もが納得する人物を選ぶべきだ。神秘の力を乞うのならば、人は誠実さを見せなければならないのではないか、と。


 老人たちが町一番の商家との繋がりを失うことを恐れて、妹を生贄に選んだのだろうということはわかっていた。私の意思を汲み、苦い顔をする老人たちを説得してくれたのは父だった。生贄になりたいと両親に伝えたとき、母はひどく取り乱していた。しかし、父は私に「本当にいいのか?」とだけ聞き、それに頷いた私を見ると「そうか」とだけ言って寂しそうに頷き返してくれたのだ。


 娘を天秤にかけられた両親の気持ちを、私がはかり知ることはできない。生まれてからずっと姉と比べられた挙句、姉の代わりに死ねと言われた妹の気持ちだってそうだ。


 私が最後に見た妹の姿は、唇を噛みしめてこちらを睨んでくる姿。憎悪を燃やしながらも、その瞳は美しかった。笑えばきっと、私なんかよりもずっときれいに微笑むのだろう。そんな子が、こんな姉がいるためにいつもしかめ面をしていたなんて。


 ――あんたなんか、死んだって許さない。


 そう唸るように言った妹の憎しみを、私はただ受け止めることしかできなかった。


「ごめんね、涼子。……ごめんね」


 泣いて謝って許されるのならば、どんなに良かっただろうか。私は妹の憎悪を抱きながらここで死んで、妹は私への憎悪をこれからもずっと燃やし続けるのだろう。


 結局、私は逃げただけだ。


  ◆


 きしりと木の床が軋んで目が覚める。いつの間にか眠っていたらしい。周囲は真っ暗だった。どうやら眠っている間に日が暮れたようだ。


 音のした方を見ると、暗闇の中で光る一対の瞳がこちらを見ていた。全貌は暗くてわからないが、獣が入ってきたのだと直感する。


 緑色の瞳が細められる。獣はぐるると唸りながら、こちらを睨んでいる。この社は、この獣のねぐらだったのだ。


「ここはあなたの家なのね」


 人の言葉に獣が答える筈もなく、獣はただ低く唸るばかり。どくどくと早鐘を打つ心臓を抑え、私はなるべく静かに身を起こした。


 恐ろしい。けれど、これでいいとも思う。


「じゃあ、あなたが山の神様?」


 尋ねながら、私は薄く笑っていた。この獣が山の神だろうとなんだろうと、最早どうでもいい。私は目を閉じてゆっくりと天を仰ぐ。獣に向かって喉を晒すように、ここに喰らいつくのだと教えるように。ざり、と獣が後ろ足を引く音が聞こえる。私は獣の瞳が喉に狙いを定めるところを想像した。


 目を閉じたまま祈る。どうか、この獣の腑をとおして、山の神にこの身が捧げられますように。どうか、父が、母が、妹が、村人たちが救われますように。


 どうか――


 最後の祈りを前に、私はただ微笑んだ。これで解放される。うれしくて泣きそうだった。きっと、こんなにも、安らかな気持ちになったのは初めてだろう。


 咆哮。それから、タンと床を蹴る音。


 最期に私を殺してくる獣の姿が見たい。目を開けた刹那、私はこちらに襲い掛かってくる獣の影の後ろに、輝く二つの星を見た。暗闇の中で一等強く輝く、その鮮烈なまでの黄金色。田に揺れる稲穂よりも、青い空に輝く月よりも鮮やかな金色に目を見張る。


「なんて……きれい」


 小さな呟いた声に、金色が揺らいだ。

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