第172話 前方後円墳ー再考
以前に「シンボリックな前方後円墳」という題名で記事を起こしたことがあります。3世紀中期ごろに奈良県桜井市に箸墓古墳が建造されました。全長278メートルという巨大な前方後円墳です。それまでの古墳は円墳や方墳が当たり前だった中、まるで円墳と方墳が合体したような新しい形状の墳墓です。この箸墓古墳が、前方後円墳の始まりと考えられています。これ以降、日本全国に5000基もの前方古円墳が建設されました。現在においては、この前方後円墳が建造された版図が大和王権の領域だったと考えられています。
並行して色々な本を読んでいる中、志村忠夫著「古代日本の超技術」で、前方後円墳に関して面白い考察がありました。方墳が前で円墳が後だと言い出したのは、幕末に生まれた蒲生君平が著した「山陵志」によります。丸い墳墓に被葬者が眠る石棺があるので、方墳側を拝殿に見立てました。ところが、志村氏はこれに異を唱えます。多くの前方後円墳にはくびれた部分に造り出しがあります。平面のテラスのようになっていて、ここが祭殿だと考えました。つまり、今まで側面だと考えられていた部分が正面になるのです。
堺市にある大仙陵古墳に行ったときに、近くの堺市博物館に足を運びました。そこで新しい発見をします。明治期に台風によって世界最長の墳墓である大仙陵古墳の方墳部が崩壊しました。その時に、石室が露見したのです。祭壇と考えられていた方墳部にも被葬者が埋納されていました。つまり墳墓だったのです。そもそも、大仙陵古墳の方墳部は円墳部よりも高く土が盛り上げられており祭壇と考えるには難しい形状でした。円墳部にも方墳部にも被葬者が埋納されている。この事実を考えると、志村氏の「側面が実は正面だった説」は、かなり濃厚になります。
そんな話を、僕よりも歴史に詳しい友達に話をすると、面白い考察を述べてくれました。円墳と方墳が合体したのは、多種多様な豪族を連合させるためだったというのです。そういえば、方墳は日本海側の出雲を中心にして多く分布していました。日本神話には、大国主神による国譲りの話があります。ということは、出雲系の方墳が大和において円墳と合体したことで前方後円墳が誕生した……と考えるのはとても自然なことです。
以前に「崇峻天皇の宗教改革」という記事のなかで箸墓伝説をご紹介しました。巫女であった倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、出雲系の神である大物主神に嫁ぎます。しかし、大物主神の真の姿が白き蛇であったことに驚いてしまいました。恥じた倭迹迹日百襲姫命は、陰部に箸が刺さったことで死んでしまいます。この逸話、何か変じゃないですか。
グーグルで検索をしていると、「邪馬台国は出雲に存在していた!」というサイトに面白い考察がありました。前方後円墳で方墳だと考えられている部分は、本当は尖がった三角すいだというのです。円墳部は女性の陰部で、方墳部だと考えられていた部分は三角すいで男根の象徴だというのです。つまり、前方後円墳は、男女の接合を表現している……。
突飛な発想ですが、箸墓伝説に照らし合わせるとどこか現実味を感じてしまいます。ましてや、箸墓古墳は前方後円墳の始まりの墳墓でした。面白い、面白過ぎる。このような考察が本当かどうかは別にしても、出雲系の方墳と大和系の円墳が合体して前方後円墳が誕生したと考えるのは、とても自然な類推になります。であるならば、前方後円墳には前も後ろもなく「側面が実は正面だった」と語る志村氏の意見もやはり無視できません。
志村氏は、さらに面白い考察をしていました。古墳の建設に水田稲作を関連付けています。僕は「周壕」という記事の中で、前方後円墳を囲んでいる池と稲作の関連について述べたことがありました。その時は、神聖な大王の墳墓をため池と考えることに抵抗を感じました。しかし、志村氏は、前方後円墳の築造と水田開発はセットで考えるべきだと論じています。僕も志村氏の意見に大きく影響を受けました。
これまた以前の記事で「神武東征――なぜ飛鳥だったのか」を起こしたことがあります。大和王権が大きく発展したのは、水田稲作の技術を日本に伝播させたからだと結論付けました。水田稲作を安定して運営するためには灌漑用水の整備は必須です。ため池を作るためには土を掘らなければなりません。掘った土をどこにやるのか。古墳として盛り上げられたのです。
古墳の建設は、一石三鳥の事業でした。大王の墳墓としての機能、水田の灌漑用水としての設備、大和王権の権威の象徴。このように考えていくと、短期間で前方古円墳が建造されていったことも頷けます。ただ、少し疑問がありあます。日本中に5000基もある前方後円墳ですが、方墳部にはどれも被葬者が埋納されているのでしょうか?
今までは、前方後円墳ごとに一人の被葬者が埋納されていると考えられてきました。ところが、円墳と方墳に一人づつ被葬者がいると考えると、現代人が理解していない風習なり習慣があったのかもしれません。聖徳太子の場合では、母親と嫁さんと三人仲良く合葬されています。他にもそのような例がありました。つまり、一緒に墓に入りたいというニーズがあったということです。前方後円墳が、愛し合う二人を埋納するための形式として発展していたとしたら、それはかなりロマンチックなことに思えます。古墳時代の大王系の人々は、死してもなお、永遠の愛を求めていたのかもしれません。
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