第58話 将棋から仏教まで
僕の趣味の一つとして、将棋があります。将棋というのは、相手がいないと指すことが出来ないゲームです。僕が20代の頃は、職場に将棋が好きな人がたくさんいました。部署の中で将棋大会を開催してくれたりと、将棋を楽しむのに環境が整っていました。
ところが、歳を取り環境が変わり、将棋を指す機会がグッと減りました。息子たちに将棋を教えながら、細々とは楽しんではいましたが、夢中になるほどではありませんでした。
今年の初め、スマホで将棋をしました。インターネットを介しての対人戦です。アプリは将棋ウォーズです。目の前に人が居るわけではないのに、非常に緊張したのを憶えています。心がヒリヒリする感覚に、何か目覚めるものを感じました。
――初段を目指そう。
何となくそう決めて、毎日将棋を指しています。一日に最低1局。多くても3局くらい。1局が終わると、必ずぴよ将棋先生に棋譜解析してもらいます。ぴよ将棋先生とは、ソフトのことです。つまりAIです。一手一手、どの様に指せばよいのかご教示して頂けます。大変お世話になっています。
それでも、なかなか強くなれません。勝ったり負けたりしながら、やっと4級です。1級や2級の方に勝つことはあっても、時々です。安定して勝つことが出来なければ、級を上げることは難しい。そんな中、初めて初段の方に勝つことが出来ました。初めてのことです。これは、嬉しい。
――ブレイクスルーの時か!
ちょっと有頂天になっています。
将棋の勉強に、YouTubeも利用しています。最も参考にしているチャンネルは、プロ棋士である藤森哲也さんの将棋放浪記です。将棋ウォーズの10分切れ負け将棋を、解説をしながら指すのです。その解説がとても的確で、何を狙っているのかが素人の僕でも分かるのです。最長で20分の勝負だから、番組としての尺も丁度良い。晩酌しながら観戦することが多いです。
そんなYouTube将棋の番組で、また面白いものを見つけました。番組の開設者は女流棋士である山口恵梨子さんですが、特別講師として藤井猛九段が将棋を解説しています。藤井猛九段は、対居飛車穴熊の戦法である「藤井システム」の考案者として有名です。世代的には、羽生世代になり、僕とも同世代になります。
将棋を解説する人は沢山いると思いますが、戦略とか展開とか、専門的で非常に難しいものが多い。そうした中、藤井先生は、独自に分かり易く初心者講座として解説されていました。
普段何気なく指している手に、どういう意味があるのか。
それぞれの駒に、どの様な役割があるのか。
この局面では、何を狙っていけばよいのか。
そもそも、将棋とは何か。
そうした将棋の奥にある根本的な理屈について、言語化を試みていました。そうした理論・理屈、僕の大好物です。
何度も話していることですが、僕は聖徳太子について調べています。将来的には、聖徳太子を主人公にした小説を書き上げたいと考えています。ですが、聖徳太子に心酔しているわけではありません。関心はありますが、それは題材として関心があるだけです。僕がもっとも関心を寄せているのは、仏教です。
聖徳太子は、日本に仏教が広まる切っ掛けを作った人物です。当時の日本は、縄文時代、弥生時代を経て、シャーマン的な神道の骨格が出来上がっておりました。そうした日本において、外来の仏教という教えは、取扱要注意の危険思想です。蘇我氏と物部氏との間で、仏教をめぐり戦争まで起こしています。
歴史の教科書では、当時の出来事は紹介されています。しかし、問題の根本である仏教の考え方については紹介出来ていません。いや、歴史に限らず、仏教の考え方について深く掘り下げた解説って少ないと思うのです。
西遊記では三蔵法師が仏典を求めてガンダーラに向かいます。話の中心は、冒険活劇です。肝心の仏典については、「なんか凄いみたい」って位置づけだと思います。
現代においても、歴史的価値があるお寺や仏像は、国宝として保護されています。しかし、仏教そのものの教えについては、分かり易く解説されていません。何故だと思いますか?
神秘的で難解で超越した存在。その様に位置付けた方が、宗教として運営がし易くなるからです。信者は理解しなくても良いのです。ただ信じて、黙って付いてくれば良いのです。かなりの暴論ですが、僕はその様に感じています。
ただ、仏教が難解なことは事実です。一口に説明できません。だから、分かり易く解説するために、聖徳太子に協力してもらって、仏教の理屈について言語化してみたいのです。
偉そうなことを言っていますが、僕も途上です。理解できているわけではありません。ただ、仏教が持つ、大きな特徴は掴んでいるつもりです。
多くの宗教は、神様に手を合わせて安穏を祈ります。対して、仏教は、神様に祈りません。そもそも神様という概念がありません。神様仏様と、ひとまとめにされることがありますが、仏様は神様ではありません。仏とは悟った人という意味です。人間です。また、菩薩という言葉がありますが、これも人間です。人を救うために努力する人のことを菩薩というのです。
長い歴史の中で、仏教は歪められ、本質の部分が現代では欠落していると思います。祈りにしてもそうです。その意味が失われています。仏様や菩薩に、自身の安穏を祈っても功徳はありません。お釈迦さんは、そんな事は言っていません。あなたも仏になりなさい、とは言っています。仏教における祈りとは、誓いや決意に近い。
今日は、少し踏み込んだことを語ってしまいました。中には、気分を害された方もいたかもしれません。では。
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