#4:娘と息子
母子島キャンプ場、子島テントサイトは島中央の森を切り開いて建てられた広場のような場所だった。木製の枠で囲われ、整地された平らな土のスペースがいくつも用意させている。中央はキャンプファイアー用の広場になっていて、焼け焦げた地面の周りに木製のベンチが円形に並べられている。
相変わらず、空は雲に覆われて暗い。晴れていれば木漏れ日が差し込みいい雰囲気だっただろうと思われる反面、暑くないのであれば曇りでも構わないという気がしてくる。
「お、来たね」
テントサイト中央では、先ほどの景清が何事かをしていた。それをひとりの少年が手伝っているという構図だ。
「何をしているんですか?」
率直に柳が聞いた。
「キャンプファイアーの準備だよ。明るいうちに薪を組んでおこうと思ってね」
「キャンプファイアー?」
オウム返しするが、これは柳がキャンプファイアーを知らないほど野外活動に疎いからではない。
「キャンプファイアーって……明日の夜のプログラムのような」
疑問を口にしたのは柳の後ろに隠れている棗である。柳は単に「初日からするものなのか?」くらいの疑義だったが、ちゃんとイベントの行程を把握しているらしい棗はその予定変更を不思議に思っていた。
「そうなんだけど……」
景清が空を見上げる。
「雨が降りそうだからね。天気予報だと今日の夜遅くから明日の午後いっぱいまで降るという話だ。それでいろいろ当初の予定を変更しようということになって」
「そういうことだ」
そこでようやく、景清の隣にいた、薪を置いていた少年が顔を上げる。丸坊主で褐色肌の、いかにも野外活動慣れした快活そうな少年だった。
「よお、はじめまして。俺は業平正平ってんだ」
軍手を外し、手を差し出してくる。なれなれしいやつだなと思いながらも、柳はその手を握り返した。
「尾道のボーイスカウトに所属してる。今日は他の連中と一緒に来たんだ」
「スカウト……ああ、善治さんの」
「隊長に会ったのか」
「隊長?」
ボーイスカウトでは所属するグループを隊と表し、その最上位の指導者を隊長と呼んでいる。そうした事情を知らない柳は少し不可思議に思ったが、そんなもんだろうと考え深くは追及しなかった。
「俺らのところからは三人来てて、あと南ってのが初顔だな。まあ南の兄貴は一緒のボーイスカウトだったから、知らない仲じゃないんだけど」
「なるほど」
南……北斎とその娘がボーイスカウトとどういう関係なのか判然としなかったが、これで明確になった。北斎の娘自身はスカウトではないが、兄がスカウトでそのつながりがあったようだ。
(だとするといまいち分からないのはスカウト――善治さんと奈央さんの関係だよな。キャンプ場の経営者だから知ってたというだけだと、今回のキャンプに呼べるほど親密な関係というイメージは抱きにくいし……)
「で、他の人たちは? というか……」
ぐるりと周囲を見渡す。柳が疑問に思ったのは、テントサイトにはどこにもテントが設営されていないことだった。これから設営するのかとも考えたが、しかし他の子どもたちもいないのは妙だった。
「テントは?」
「それなんだが、テントを立てるのはやめた」
正平が簡潔に答える。
「雨が降るだろ? 一応こっちの子島側にもロッジがあるから、今回のキャンプはテントじゃなくてそっちを使うことにしたんだ」
「キャンプなのにか?」
「大雨が降るらしいぜ? そんな中テントを使いたいなら好きにしてくれて構わないけどな」
「ボーイスカウトってのは、雨天決行でなんでもやるようなところだと思っていたが違うんだな」
「今回はな。スカウトの正式な活動ならともかく、今回は遊びのキャンプだ。それに楽できるところは楽するのも、スカウトの大事な能力なんだよ」
実際、柳とてテントでの野営にこだわりがあるわけではない。全体の方針としてそう決まっているのならそれに従うにしくはなし、だ。
「ロッジはそっちの小道を入って進んだ先だ」
正平が指で示したのは、広い屋根の炊事場の横から伸びている道である。
「分かった」
棗を連れ、柳はその場を離れる。ロッドケースを背負いなおし、森の中の道を進んでいった。子島は意外と森が深くなっており、道も舗装されていない。今はいいが、雨が降るとぬかるんで歩くのも大変そうだなと柳は嘆息した。
すぐに目的のロッジは見えてくる。テントサイトから少し離れたところにまた森を切り開いて広場が作られており、円形に建物が並んでいる。ログハウス風のロッジが三棟、それよりは簡素な造りの、おそらく管理人などが詰めるための管理棟がひとつ、あとは大きいが倉庫らしい建物や、煙突のある建物が見える。
ロッジの前で、一組の男女がなにやら話しているのが見える。柳は棗を引っ張って、そっちの方へ近づいていった。
「ん? ひょっとしてあんたが昼から来るっていう愛知からの探偵か?」
先に反応したのは男子の方だった。柔らかく長い髪を風になびかせた、どことなく軟派そうな少年である。
「ああ。そんなところだ」
「探偵ねえ。なんでまたそんな物騒なもんが来るんだか」
呑気な少年の言葉に、隣の少女がため息をつく。
「それは……いや、いい。あんたには言っても仕方ないでしょ」
その少女は丸顔のぽっちゃりとした子どもだった。ただそういう恰幅の良さに反し、穏やかな印象というのはあまりない。眼鏡の奥の瞳は怜悧に輝いていた。
「あたしは南西瓜。あなたは?」
「俺は雪宮柳だ。こっちが妹の棗」
自己紹介をしながら、柳はぽっちゃりとした少女――西瓜を見た。なるほどあの大柄な北斎の娘というだけあって、体系が似ている。温厚そうな北斎と違って、どことなく波に削られた岩肌のような冷たさのある子だったが。
「俺は六波羅健な。よろしく!」
隣で少年も自己紹介する。
「西瓜と健か……。ん? さっき正平に会ったとき、ボーイスカウトは三人って聞いてたけど?」
柳が思い返す。
「西瓜は違うんだったよな」
「ええ。兄がボーイスカウトだったからこいつらも知った顔ではあるんだけども」
「残りひとりはどこか」
「あー? あいつか……」
健が頭を掻く。
「出不精なんだよ。今ロッジにいる。あまり気にしないでやってくれ」
「出不精のスカウトってなんだよ……」
「いいから。それより荷物重いだろ? さっさとロッジに運ぼうぜ。こっちが男子の泊まるところで、その隣が女子のな。一棟は余り……って、そういう説明も荷物置いてからでいいな」
「そうだな……」
出不精のもうひとりは気になるところではあったが、今突っ込んでも仕方がない。荷物を置きにロッジに入れば嫌でも顔を合わせるだろうと考え深くは聞かないことにした。
「じゃあ、女子はこっちだから。棗ちゃん、だっけ? 行こうか」
「……う、うん」
少しびくつきながらも、自分の荷物を持って棗は西瓜についていく。
「あいつ、愛想がないって言うかとっつきにくいからな」
その後ろ姿を見送りながら、健がぼやく。
「お前の妹ちゃんもブルってないか?」
「いや、あれはそうでもないな」
意外そうに柳は、棗の後姿を見ていた。
「棗はかなり人見知りが激しいが、初対面であのくらいで済んでるならいい方だ。西瓜は厳しそうな気配の割に、実はけっこう優しいんじゃないか?」
「そうかあ? 俺いっつも突っつかれてる気がするけど」
そんな馬鹿話はともかく、荷物を持って柳もロッジに入る。木製のフローリングが柔らかい雰囲気を出している。むき出しの梁もいいアクセントだ。
部屋はリビングダイニングぶち抜きの大きな一部屋という間取りである。簡易的なキッチンが見えるほか、あとは広々とした
その部屋の片隅で、ひとりの少年が携帯ゲーム機を触っていた。小柄でやせこけた、暗い様子の少年だ。その線の細さにどことなく見覚えがあった。
「ほら、昼からのやつが来たぞ。挨拶しろよ」
「…………どうも」
ぼそりと呟き、一応ゲームを触るのは止めた。
「濃尾遼太郎です」
「濃尾……ああ」
すぐに理解した。彼はスカウト指導者の濃尾善治の息子なのだろう。指導者の息子がキャンプ中にすらゲームを触る様子でどうするんだと思わないでもない柳だったが、父親のアウトドア好きが息子に伝わるとは限らない。その辺は父親の影響で素直に探偵を目指している柳でも理解できる機微なのだった。
「まったく。ゲームなんていつでもできるだろうに。なんでこんな島まで来てやってんだか……」
健がため息をつく。
「いいさ。こいつが遼太郎。隊長の息子なんだがこの通りでな。ゲームばっかしている。でも仕事は最低限やるから大目に見てくれ」
「別に俺は構わないぞ」
スカウトでもないし、今回だけの客なので柳は実際どうでもいいと思っていた。
「これで今回の参加者とは全員会ったな……」
頭の中で思い返す。参加者は柳と妹の棗、母の林檎を除けば……。
キャンプ場管理人の浜岡奈央。
同じく管理人の大内景清。
ボーイスカウト指導者の濃尾善治。
その息子遼太郎。
スカウトのひとり業平正平。
同じくスカウトの六波羅健。
兄がスカウトだったというつながりの南西瓜。
その父親の南北斎。
そして突然現れた、善治の紹介でやってきた探偵猫目石瓦礫。
「……あ」
数え終わって、ひとり忘れているのを思い出す。
「猫目石欠片っているか?」
「おお、いるぞ……。母島で休んでる」
健が答える。だがその情報は古い。どうやら彼は欠片が子島側に向かったことを知らないらしい。
「その母島で聞いたんだ。そいつがこっちの島に渡ったって。そういえば見てないな」
「ふーん? 俺も見てないぞ?」
ではロッジには来ていないのだろうか。キャンプファイアーの準備をしていた景清と正平は見ていたのだろうか。聞いておくべきだったなと柳は思い返す。
「そのうちこっちに来るんじゃないか?」
「…………」
一応、依頼で動いている身の柳としては全員がいざ集合となる前に一通り全員と接触しておきたいところだった。しかし子島側の人間も見ていないとなると、欠片はどこにいるのだろうか。
ひとまず、荷物を置いた柳は健とともに外へ出た。ロッジの外へ出ると、強い風がふたりの顔を叩きつけるように吹いた。
思わず目を細める。次に目を開いたとき、地面をホチキス留めの紙束が転がっていくのが見えた。
「おっと」
健が反応する。
「今回のキャンプの行程表。あんなところに置きっぱなしだった。飛ばされちまう」
言って、彼がそれを取りに行こうとした時だった。
健の動きが止まる。
「…………」
柳は彼のそんな不審な動きを、しかし見てはいないし気づいてもいなかった。
なぜなら。
柳もまた紙束が飛んだ方へ視線を向けていて。
紙が、何者かの足に引っかかったのが見えたからだ。
その、何者か、というのは……。
「…………」
「え……」
白いホッケーマスクの、怪人。
「な、なんだとっ!」
さすがの柳も大声を上げて、驚くしかなかった。
「うおっ、なんだあ?」
怪人を見たのは今回、柳だけではなかったようだ。健もその姿を視認したのか、大仰に声を上げた。
「誰だ? 肝試しには時間が早いぞ?」
「いやそうじゃない!」
とぼけたような健の言い草を指摘しつつ、柳は気を取り直す。あまりの唐突な出現に動揺したが、すぐに体勢を立て直す。
人に見つかったのが問題だったらしく、件の怪人はすぐに踵を返すと森の中に消えてしまう。
「待て!」
柳はすぐに後を追った。健はその場に留まり、状況を傍観することしかできない。
「ん?」
「どうした?」
森に入る直前、小道の方からキャンプファイアーの設営を終えたらしい景清と正平もやってくる。ちょうど入れ違いになったらしく、彼らは怪人を見ていないのか血相を変えて森へ入っていく柳を不審そうに見送るだけだった。
(あの怪人め!)
草と木の根に足を取られながらも、遠くなっていく背中をしかし確実に追いながら柳は心の中で毒づく。
(やはり妙だ。誰かが悪戯で化けているという様子じゃない! なにかある。ここでやつを放置しているとマズイという予感がある!)
だが。
「おっと!」
さすがに慣れない森での追跡には、限界があった。
木の根に躓き、転びそうになる。なんとか姿勢は保ったが、つい視線が足元へ移ってしまう。そして再び顔を上げた時には、怪人の姿を見失っていた。
「くそっ!」
悪態をついて、ひとまずその場で呼吸を整える。
「なんなんだあいつは……。いったい誰が……」
ホッケーマスクの怪人など、それこそ『13日の金曜日』ではあるまいに。キャンプ場に現れる殺人鬼など低級ホラー映画でも最近はやらないようなネタだ。
(そういえば……)
今更のように、思い出す。
(父さんが言っていたな……。現実を三文芝居の舞台みたいに変えてしまう、そんな運命の持ち主。猫目石瓦礫……これはやつが現れたからか? あの探偵が現れたから、こんなことに?)
金田一少年や江戸川コナンが都合よく事件に巻き込まれすぎだという笑い話はよく聞くものだ。柳の父は、猫目石瓦礫もその類の人間だと言いたいのだろうか。
「馬鹿な……さすがにあり得ない」
柳は首を振る。
「そこにいるだけで事件を誘発するような存在がいるものか。でも、なあ……」
実はあまり、バカにできる話でもないのだ。
「父さんの周りじゃあまり聞かないけど……。地域によっては探偵が事件を引き寄せるって言って探偵活動に反対する陰謀論者がいるとも言うし……」
いや、だがそこで猫目石瓦礫が事件を呼び寄せるのだという結論に立てば、それこそ陰謀論者と同じ穴の狢である。しかしまるで紫郎は、そうであるかのような忠告を柳にしている。これが彼にとっては解せない。
(いずれにせよ……。猫目石の出現については一度父さんに連絡した方がいいな。怪人の件と合わせて。とはいえまだ悪質な悪戯の可能性も高いし、今日一日くらいは様子を見て、明日に連絡を入れるくらいでいいだろう)
行動指針を決め、柳は戻ることにした。
ところが、子島は外から見たときに抱いた大きさのイメージよりも広く、また森も深かったようだ。元来た道を戻っているつもりだったが、柳はどうにも、森から出られないような気がしていた。
「おかしいな……。方向は合っているはずなんだが」
森というのは、実際方向を見失いやすい。まっすぐ進んでいると当人は思っていても、実は木々を避けている間に方向が少しずつずれて、違うところへ進んでいるということがよくあるのだ。ゆえに道のない森を突っ切ることは基本的にしない。もしどうしても森を抜ける必要がある場合、コンパスを用意し、少し移動するたびにこまめに方角を確認する必要がある。
無論、いくら柳の想定より深かったと言っても、所詮は瀬戸内海に浮かぶ小島の森である。迷って一生出られないということはない。ただ柳が想定していた方向からはややずれて、森を抜けたと思ったら、その先は海岸の岩崖だった。
「こんなところに出たのか……。波の音がするのは変だと思ったんだが」
奈央の言っていた通り、子島の周囲は岩礁に囲まれていた。小さい船でも近づくのは難しいし、船着き場の整備もできないだろう。まるで刑事ドラマの最後で犯人と刑事が対峙する場所のように、白波の打ち付ける峻厳な場所だった。
見たところ、森からこの海岸へ伸びる道は用意されていないようだった。無論、こんなところへ来ても何も面白くないし危ないから、わざわざ道を整備しようなどとは思わないだろう。
寂しい場所だ。これまで、三年前の事件の残滓など何も感じさせなかったキャンプ場だったが、ここに来た途端、そういう過去の惨劇を思い起こしてしまう。さして、過去の事件を思い起こさせるような何かがあるわけではないのに。
「崖の下は……何もないな」
何の気なしに、崖際に近づいて下をのぞき込む。波に洗われて切り立った岩場以外、何も見えない。
がさりと。
そのとき。
波の音に混じって、何者かがうごめく音が聞こえた。柳は例の怪人が現れたものと思って、咄嗟にそちらを見た。
だが、そこには誰もいない。
風で草木が揺れただけだったのだろうか。そう考えて視線を戻そうとした柳だったが、すぐに、気づく。
崖傍の大きな木の下に、誰かが倒れているのに。
「…………」
そっと、柳は近づいた。
直前に過去の事件のことを思い返していたこともあり、変な予感や想像を働かせてしまっていた。倒れていたのですわ人死にかと身構えたが、そんなことはなく、その人物はただ木陰で横になっているだけだった。
「な…………」
その人物を見たとき、柳の心には何か得体のしれない衝撃が走った。
それは、ひとりの少女だった。
年は柳と同じくらい。背丈も同じくらいだろうから、女子としてはやや背が高いということだろう。ボブカットともおかっぱとも形容せず、尼削ぎと表すのがしっくりくる短く肩のあたりで切りそろえられた黒髪はつややかで、よく手入れがされている。
着ているものはシンプルなTシャツと七分丈カーゴパンツ、それからポケットがたくさんついたサバイバルベストで、どこの量販店にも売っていそうなものだった。柳は身なりからその者の身分を知る方法を訓練されているが、これではそういう経済状況の子どもなのか、それとも今回のキャンプに合わせて汚れてもいい格好を用意したのか分からない。
ただ。
服から覗く、あまり日に焼けていない白い腕や足、首筋は陶器のように滑らかだった。それでいて細いが弱々しい印象はなく、むしろ革製の鞭のようなしなやかさと強情さを感じさせる。
まるで人形のような、と言ってしまうとあまりにも陳腐だ。だがそう表現するのがここでは一番簡潔で早いと柳は思う。和装でもすればそれこそ様になる日本人形。それが何者かの気まぐれで、どこにでもあるようなごく普通の恰好をして山に捨て置かれたような、そんな状態。
だが、人形のようなと評したものの彼女に生気のなさや冷たさは感じない。むしろ熱を感じる。生きていることの熱、生命が躍動するゆえに生まれる熱気のようなものが、彼女に充満している。
「…………」
柳が感じた衝撃の正体は、言葉にはなかなか表せないものだった。じんわりと寝汗を掻く白い喉元を見ていると、心臓が高鳴って目を反らしてしまう。
(なんだこいつは……いや)
既にこの少女の正体にはたどり着いていた。登場人物一覧を改めてめくりなおす必要すらない。これまでの物語において言及され、かつ登場が予期され、そして未だ姿を見せていない少女と言えばひとりしかいない。
猫目石欠片だ。
(親とは全然似てないな。あの猫目石の子どもだから、もっと芋臭いというか野暮ったいのを想像していたが。母親似なのか?)
どうしようか迷った。欠片は確か、船酔いを起こして休んでいたはずだ。外の空気を吸いに出て、ここで一眠りしているという様子のようだ。いい加減起こして他のメンバーと合流させるべきか、それともまだ休ませておくか。
(別に面倒を見る必要もないが……。とはいえ、今は例の怪人が不安だ。念のため起こしておいた方が……)
そう思い、手を伸ばした。
すると。
「………………!」
ぱっと。
その少女は目を覚ます。
まるで歴戦の兵士が寝込みを襲われないよう常に警戒していたかのような流れる動きで、伸ばされていた柳の手をつかむ。
「うおっ!」
「…………」
そのままぐいっ、と。
柳の肩に手を当て、脚を腰に絡める。そして滑らかな動きで柳を地面へ転がし、お互いの位置を入れ替えた。
少女が柳の上にのしかかり、覆いかぶさる構図になる。
そして。
顔が近い。
お互いの吐息の熱を頬に感じるほどの距離に、近づいていた。
「…………ん?」
そこで。
少女はようやく意識を覚醒させたかのように、目をぱちくりと動かす。
驚くべきことに、ここまでの防衛行動は半ば無意識での動きのようだった。
「誰?」
「…………っ!」
「えっと……。スカウトのメンバーにはいなかった顔だなあ。あとわたしが見てないのってバックレたっていう田中太郎さんだけだよね。でも年齢的に違うし」
グラスに入れた氷を転がすような清冽な声色。
「あーうん。なんだっけ。何か忘れてるなあ。そうそう、師匠が昼からもう一組来るって言ってたような気がする。君がそれ?」
「……」
柳がさっきから言葉に詰まっているのは、少女に眼前まで近寄られているから、ではない。少なくとも当人はそう考えている。なにせ少女は柳の肩を抑えていた手を喉に回し、押し当てて呼吸ができないようにしていたからだ。
「おっと、ごめんごめん」
そのことにようやく彼女自身が気づいたのか、慌てたように立ち上がり距離を取る。
「げほっ……。なんなんだお前は」
「それはご挨拶。女の子の寝込みを襲う紳士の風上にも置けない人は絞め殺されても文句言えないと思うよ?」
「襲ってはないだろ。起こそうとしただけで」
「えーほんとかなー?」
柳の内心を見透かすように、その少女はニヤニヤと笑った。柳はそこで、あらためて彼女の瞳を見た。
まるで生きることすべての輝きを星にしていっぱいに詰め込んだような、そんな瞳。
きれいだ。
咄嗟にそんなことを思ってしまう。
単に見目がいいというだけでなく、在り方がどこか美しいと思ってしまう。まだ会って数十秒で、彼女の生き様も在り方も知らないくせにそう感じてしまうような玲瓏さが、彼女を包んでいた。
それと同時に、なんとなくだが猫目石の娘だという事実にも信憑性が出てきた。
人を見透かすような態度は、その現れ方はむしろ真逆ではあるのだが、間違いなく父親に似ている。
「まあいいや。君が昼から来るって言ってた、雪宮柳くんだよね?」
そう言って、少女は手を差し伸べる。
「わたしは猫目石欠片。よろしくっ!」
これが。
二人の出会いだった。
この島での事件、すべての歯車はこの瞬間、動き出す。
錆ついて止まった三年前の事件のものも。
今まさに万力を込めて動かそうとされている只今の事件のものも。
すべて。
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