地球最期に繧ソ繝斐が繧ォを
下村りょう
地球最期に繧ソ繝斐が繧ォを
――アンタレスによく似ている。
誰に聞かれるまでもなく、人気のない道の真ん中でそう呟いた。
朝7時半、眠い目をこすりながらスマホのアラームを止める。二度寝をしようとした僕の目に、「休講」の二文字が飛び込んできた。ショボショボとする目にあくびで潤いを与えながら見てみると、どうやらそれは大学から配信されたメールのようで、本文を開いてみると「地球滅亡の一週間前となりましたので、本日より休講と致します。」とだけ書かれていた。
わけもわからずにメールをまじまじと見ていると、スリッパの音を廊下にバタバタと響かせながら、母が僕の部屋に乗り込んできた。
「どうしたん?」
母は餅を喉に詰まらせたような顔で部屋のテレビを点けると、一心不乱に画面を指す。いつもなら最近のトレンドを放送している時間のはずなのに、今日はスーツを着た外国人の男性が嗚咽まみれの英語で何かを喋っている。男性の右上に目をやると「地球滅亡まであと一週間、NASA長官が語る」という見出しが表示されている。
「なんでや。なんでや」
「地球が滅亡するとかずっと前から言われとったやろ。落ち着きや」
母を落ち着かせようにも、取り乱しているのか興奮しているのかよくわからない表情で「なんでや」を繰り返している。
赤色巨星となった太陽の重力に、太陽系の惑星たちは千年以上前から引き寄せられている。水星はずっと前に飲み込まれてしまった。
地球はそうなる前に隣の金星と衝突する。そんな話はもうずいぶん前からネット上ではほぼ確実な陰謀論だと囁かれていた。ネットに疎い母はどうやらそのことを知らなかったらしい。
ツイッターを開けば「#地球最期の告白」で今まで行ってきた大なり小なりの悪事を自慢げに表明している人が続出している。みんな遠足の前の子どものようにはしゃいでいる。
今日は七月一日、月曜日。時間はまだ早い。休講だというのなら、最期に観光でもしてみようか。
午前九時、なんばに到着する。お目当ては勿論タピオカだ。主に女子高校生に人気のタピオカを、地球が滅亡するならこの機会に一度は飲んでみたい。マップと照らし合わせながら、甘くておいしいと評判の店にたどり着く。地球最期にタピオカを飲みに来る人間は他にもいると思っていたけれど、通りがけにいつも見かける長蛇の列はない――と思っていたらどうやら今日は休業らしい。ちゃんと調べてから来るべきだった。
賑わっていると思っていた天下の台所は静まり返っている。店はコンビニでさえ休業で、人影はおろか猫の子一匹見当たらない。みんな、最期は家族と過ごしているのだろうか。
ふと上空を見上げる。赤色巨星と化してしまった太陽、それよりも大きく見える金星は、高校の授業で見た太陽に近い色で地球を睨みつけていた。
その変わり果てた姿を誰もが「醜い」と言った。でも、本当にそうだろうか。
赤は暖色系の中で一際目立つ色だ。情熱的で、何より僕たちの中にも流れている。生きる活力を連想させる色なのだ。
————そうだ、さそり座だ。
さそり座の中で赤く輝く一等星、アンタレス。間近で輝く変わり果てた金星は、アンタレスによく似ている。だからこそ僕はそれを恐ろしくも美しく感じることができたのだ。
観光がしたいと宣っておきながら、空腹感には抗えず午後一時を回った頃には帰宅する。静まりかえった玄関口で「ただいま」と叫んでみるが、母親のいつもの怒号は全く聞こえない。地球最期に祖父母に会いに行ったのかもしれない。
換気がされておらず蒸し蒸しとした室内は、入るだけで汗が滲み出てくる。クーラーの電源を入れて、涼しくなり始めた頃にキッチンのコンロ台の上に大きな鍋が置かれているのを発見した。僕が帰ってくるのを見越して母が作り置きをしていってくれたようだ。鍋の中身は夏の代名詞・カレー。
冷蔵庫に入っていた冷やご飯を温めて、その上にカレーをかける。隠し味にチョコレートとデスソースを入れた、母特製のカレーだ。パッと聞いただけでは絶望的な組み合わせなのに、いざ口にしてみると絶妙に美味しいと父と僕の間でもっぱらの評判だった。
うん。今日も美味しい。
美味しいけれど、なにかが違う。
いつものカレーは中に入っている具材たちが硬かった。父がそれを好んでいたからだ。僕も幼い頃から食べていたから気にはならなかった。なのに今日のカレーときたら、それらがドロドロに溶けている。ご飯も同様に、離乳食のように柔らかかった。これではカレー味の流動食と変わらない。
おかしい。見た目はごく普通のカレーなのだ。人参や玉ねぎは、輪郭がはっきりと見えている。ご飯だって、皿に盛ったときはなんの変哲もなかった。それなのに、口の中に入れる前に魔法でドロドロに溶かされているような……。
気づいたときにはもう手遅れだった。
母が、父が、友達が、同じゼミの生徒が、教授が、講義で見かける人が、部屋の中に、流れ込んでくる。
おかしい。おかしい。この部屋はリビングを合わせても十六畳ほどしかないはずだ。それなのに百人などゆうに超えても部屋の中は窮屈にならない。入る人に合わせて、部屋の大きさが変化している。外で輝く赤色の巨星のように、広がっていく。
「なんでや。なんでや」皆それぞれ口にする。指を差す。石を投げる。泣き喚く。それでも部屋に入ってくる人の数が減ることはなかった。そして、入ってきた人もまた「なんでや。なんでや」と口にする。
終わらない。終わらない。終わらない。
声は止まない。むしろ脳の奥深くに入り込んで満たしていく。これでは癌と同じだ。頭が痛くて割れそうだ。
「僕がなにをしたっていうんだ!」
ハッと目が醒める。悪い夢を見てうなされていたようだ。気持ちの悪い汗が全身を舐るように這っていた。
そうだ。今のは夢だ。
地球はとうの昔に死んでしまったのだから。
赤色巨星となった太陽に抗えなかった太陽系の星たちは、やがて肥大化した恒星に呑まれてしまった。その中で地球と金星だけは衝突という形で星の人生を終わらせた。
地球が滅ぶ一週間前、国際連合は地球人で戸籍を持つものを対象に、その中でたった一人だけに生きる権利を与えることにした。それも抽選で。
生き残る代わりに、地球上のありとあらゆる動植物やウイルスの遺伝情報と共にロケットに積まれ、まだ生命の存在が確認されない惑星に降り立ち、遺伝情報を基にその惑星に動植物たちを再び繁栄させなければいけない。科学者たちの言葉は難しくて理解できなかったが、パンスペルミア説というものを応用したぶっつけ本番の実験に参加させられるらしかった。その実験は何年で終わるかかが不透明だし、そもそも始められるのかすら怪しかった。
金持ちたちはこぞって何億、何兆の金を積んだが、国際連合はそれを無視して、全世界に生中継を行うことで公正さを示しつつパソコンを使って抽選を行った。その結果選ばれたのが僕だった。
それからの一週間は大変だった。知らない人からは当然の如く罵倒を浴びせられたし、家に火炎瓶を放り込まれたり、でっぷりと太ったおじさんに札束でひっぱたかれたこともあった。SNSではみんなが思い思いの生活をしているのに、僕だけは外に出ることも叶わなかった。
警察に訴えても「どうせ君は生き残るんだから我慢してやれよ」とあしらわられる始末だった。父と母は泣いていた。誰もがみんな「なんでや。なんでや」と言っていた。続く言葉は聞かなくても理解ができた。「なんでお前だけ」「なんで私は選ばれなかった」
僕が地球を見捨てる瞬間、見送っていた人のほとんどが泣いていた。
地球を出てしばらくは地球側から指示などが入ってきたが、1月ほど経つと通信はパタリと途絶えてしまった。窓からは地球が見えなくなっていたが、もうみんないなくなってしまったのだと察した。
食料の山から宇宙食を取り出す。カレーだ。夢で見たドロドロのカレーと同じ食感だった。美味しくもない。
こんなことなら辞退すればよかった。地球で家族とテレビを観ながら死にたかった。具材の硬い母のカレーが食べたかった、どこかへ旅行をしたかった。独りは嫌だ。僕は両親を泣かせる為に、全人類に恨まれるために、あのどうしようもなく汚れていてそれでいて美しかった青い星を見捨ててしまった。
そう考えてしまうと涙が止まらなかった。やり残したことを思い浮かべては暗涙に咽ぶ。
夢の中で見た、あれが飲みたい。
「地球最期にタピオカが飲みたい」
地球最期に繧ソ繝斐が繧ォを 下村りょう @Higuchi_Chikage
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