第五拾六話 ー羽キャット・マコト その弐ー
――母や兄弟と幾度も遊んだ森の入り口からは、ずいぶん奥まで逃げ込んでしまったらしい。
見た事もない景色に、前方から薄っすら少しずつ霧まで漂い始めてきた。
自分でもビックリするぐらい長い距離を飛行して来たようだ。両肩が突っ張る感じに重く、脈動して痛い。
彼はうっ
だんだん深く立ち込めてゆく霧の中、両側を暗い木々の影が被さってくる様に立ち並んで見える。ここは谷間のような地形になっているのかも知れない。
谷をふさぐ形で横たわる幹の上で、しばらくジッと耳を澄ませてみるが、彼の小さな耳は追っ手の気配も、その他の物音ひとつも捕らえない。
ようやく少し安心したせいか、ズキンズキンと鈍い肩の痛みに合わせて、猛烈な眠気がやって来た。
箱座りに体表面積をまとめ直し、一声こぼした。
『――みぃ(おかあさん)』
さっきまで柔らかな母のお腹に、深く身体を埋めていた筈。
おもわず出た呟きに目蓋が一層重たくなる。
もしかしたら、これは夢の出来事なのかもしれない。
目が覚めればいつもと変わらず、母の腕に包まれて、痛む背中を舐め上げられているのかも……。
(ぼうやっ、逃げてっ)
母親の叫びを耳に残しながら、ゴツゴツと冷たい倒木の上へ体を丸めた仔猫は、深くなってゆく霧に包まれ、真っ白な眠りに落ちていった。
――柔らかに身体を包む毛皮の暖かさに目が覚めた。お母さんが抱いてくれている。やっぱりアレは夢だったんだ。
そう思って、さらに母の毛並みへ身を捩じらせるが、母の匂いではない。
「お? 起きたか」
聞きなれない男の声に、今度こそはっきりと目が覚めて、あわてて顔を持ち上げた。
「朝まで待ってて起きなかったら、食っちまおうと思ってたが、命拾いしたな」
ぼさぼさの黒髪に黒い瞳の若い男が、仔猫を包む灰色ウサギの外套を胡坐に覗き込み、彫りの深い鼻柱へ皺を寄せてニカリと牙を光らせた。
「……腹、減ってるか?」
『ナギ』と名乗った牙男は、いっけん体の大きな獣人族にも見えたが、ケモノのような耳は持たず、顔の両側に先のとがった耳が有って、短い角が額の左右から突き出していた。
これが『魔族』の特徴だと仔猫が知るのは、だいぶ先の話しである。
ナギは不思議な
「そうか、お前『羽キャット』だな?」
子猫が逃げてきた
『み(羽キャット)?』
子猫にとっては初耳の言葉だった。
「お前のように羽が生えた、空を飛ぶことが出来るネコの事だ。『おっ母』は翼も無いし、空も飛ばなかったろ?」
『み(うん)』
「だろ? そうか……羽キャット……ねぇ」
『み(なに)?』
「……たぶんお前は『売られる』所だったんだな」
『み?』
「まったく……いまだに『招き猫の幸運』なんておとぎ話が信じられているのか……ヨミにも困ったもんだ」
『み?』
「すまねぇ……お前が『おっ母』と別れ離れになっちまったのは、俺の息子が関係しているのかもしれねぇ……」
そう言って膝の上の仔猫の頭をひと撫ですると、ペコリとナギは頭を下げた。
「この通りだ……お前は俺が、母親の元へ送って行ってやるから、勘弁してくれ……」
『み~ぃ(おかあさん)!』
「ああ、今日はもう遅い。明日、送るよ……この近くの獣人部落なら、たぶんあそこだろうが……随分と飛んできたな? 国境を越えてるじゃねぇか」
ナギは苦笑いだ。
「まぁ、へいきだろ……夕方前には、連れて行ってやれるさ」
『みぃ(ありがとう)!』
「腹はふくれたか? もう食わねぇなら、朝までここで寝てな……大丈夫だ、食ったりなんかしねぇからヨ」
『……みぃ(ありがとう)』
「どう、いたしまして」
もう一度頭に手が乗せられると、仔猫は気持ちよさそうに目を細め、ナギの膝上へ丸くなった。
『みゃぅ、みゃうっ(おかあさん、トト)!』
「……なんてこった……」
夕暮れ前に仔猫の生れた獣人部落へたどり着いたナギは、ようやく消し止められたばかりだろう、立ち残った柱から所どころ煙を燻らす焼け跡に佇んでいた。
「……お前……この家で、間違いねぇのか?」
『みゃぉぅっ(おかあさん)』
「おいっ! この家は何だ! どうなった!」
焼け
獣人の男は、魔族のナギの姿に一瞬ビクリと犬耳を立てたが、危害を加える様子でも無さそうなので、恐るおそると説明した。
「――あ、ああ。今朝方早く、盗賊に襲われたらしい……家の者がどうなったかは判らねぇが、建物中かき回されて、最後に火を付けられたみたいだ」
「……盗賊……」
ナギは胸に震え鳴き続ける仔猫を抱いて、焼け跡のすぐ脇に耕された畑を見る。
細く育った作物が倒れた柵の中、複数の盗賊の足跡や馬の蹄跡で、ぐちゃぐちゃに蹴散らかされていた。
「……猫は? ネコは、どうなった?」
ナギは男に、再び訊く。
「この家では、ネコの親子を飼っていた筈だ!」
「わ、判らねぇよ!」
掴みかからんばかりの勢いに、獣人の男は耳を伏せ、シッポを巻く。
「い、家の
そう言うと、だッと走って村の方へ逃げて行ってしまった。
「魔族のお侍さん……あんた、この家のモンと知り合いか?」
男の背を見送るナギに、犬耳獣人の初老が横から近づき話し掛けてきた。
「昨日の昼頃までは、立派な服着たエルフさんが大勢、兵隊を引き連れて来てたんだが、そいつらが帰って行った途端コレだよ……何か知ってるのかい?」
低い視線からジッとナギを見上げている。
「いや、俺は知り合いという訳じゃない」
ナギは首を振り、見下ろす。
「そうかい……二、三日前は『カネヅルが出来た』なんて、上機嫌で飲みまくっていたが……本当に大金でも手に入れちまったのか、と思ってね?」
そう言って初老も溜息と共に首を振った。
「そうでもなけりゃ、こんな貧乏家、襲われたりゃしないよ……」
「……大金、か……」
「……オヤジはともかく、娘がイイ子でさぁ……無事だったらイイんだけどねぇ……」
『みゃぉ~ぅ(おかあさん)』
ナギの腕の中、仔猫は母を呼び続けていた。
獣人部落の近くの河原にかまどを焚き、ナギは昨夜のように仔猫を膝に話しかけていた。
「――お前の『おっ母』が今どうしているのか、チョッと俺にも分からない……」
『……』
「……盗賊に襲われた時に、兄弟たちを連れて逃げたのか……逃げられず、盗賊たちに捕まっちまったのか……」
『みぃ……』
子猫は悲し気に、背を撫でられながら鳴く。
「……だが、もう一つの可能性の方が強いんじゃないか……と、俺は思う」
ナギは、仔猫の瞳をジッと見つめ話した。
「……大金を手に入れた獣人の一家が、お前の家族を連れて、サッサと何処かへ逃げてしまっているって事だ」
『み?』
「……盗賊たちは家の中をかき回してから火を付けた。なにかを探していたに違いない」
――パチン! と、かまどがはぜる。
「あそこの一家が大金を手に入れたと云う噂を聞いて、盗賊たちは襲いに来たが、家の中に誰もいなかったから探したんだ……昨夜のうちに逃げていたのなら、お前の『おっ母』も一緒に連れて行った可能性は高い」
『みっ(おかあさん)!』
そこまで話し、ナギは「ふ~っ」とひとつ、溜め息をついた。
見上げる仔猫の耳へ指を移し、優しく
「……ここから先は、少し、取り引きの話しだ。お前が選んでくれていい」
『み(とりひき)?』
「……お前は母親や、兄弟の行方を知りたいだろうが、もう、みんな死んでいるかもしれない。それでも一目会いたいと思うか?」
『……みゃぅ(よく、わからない)……』
「家族の行方を、捜す手立ては有る……だが、それを行なう為には、お前は俺と『契約』を結ばなければならない」
『み(けいやく)』
「俺が『家族に会うな』と言えば、お前は決して母親や兄弟たちへ近付くことが出来なくなる。二度と家族に会えなくなったとしても、無事を確かめたいと思うか?」
『……みぃ(おかあさん)……』
「俺は『お前を母親の元へ送り届ける』と、約束してしまった……だが、今すぐと云う訳にはいかなくなった。普通に探すとなると、時間が掛かるだろう」
『……みぃ』
「俺と契約すれば今すぐ母親の元へ連れて行ってやれる。死んでいようが、生きて何処かで隠れていようが、それこそ今この場所から飛んで行ってやる……どうだ?」
『……みぃ(おねがいします)』
「……契約……成立だ」
ナギは仔猫を片手で胸に抱いて立ち上がり、もう片方の指を足元へ差し下ろす。
「……ひらけ……」
地面へ現れた魔法陣が輝き、ふたりをその光の中へかき消した。
――後にはただ闇の河原に、かまどだけが
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます