第8話 総長室と「フンス!」と不倫男の気持ち
善美に誘われてはじめて訪れた総長室は、本校舎のド真ん中…理事長室の隣にあった。
ただ入ってみれば、意外と狭く、調度品も部屋のど真ん中に設えられたデカい机と、それをはさむように置かれた椅子だけ…という、理事長よりエラい「総長」なる人物が他人と会う場所としては、よく言えばシンプル、悪く言えばエラく殺風景な場所だった。
善美は入り口付近に、かなり緊張の面持ちで佇立している。おそらくこの部屋の重みを知っているが故のものであろう。
対する熊子は、何の予備知識もない気楽さから、イスを無造作に引き、座ろうとした…そのとき、善美の鋭い声が一閃。
「ちょっと野上さん!こうした貴賓の部屋で、客がホスト役より先に座っちゃダメでしょ!あなたの家は、どんなしつけをしているの!!!!」
「しつけ…って…ああ、そういやあヤクザ映画で、子分が親分より先に座っちゃーいけんとか、そんなんは見たことありますけど、そういうヤツですか???」
邪気のない熊子の表情に、言葉のない善美。
「…まあ、ヤクザ映画云々は知らないけど…そういう理解ならそれでいいけど…とにかく、お姉さまがいらっしゃるまで、アンタ座っちゃダメ!わかった???」
「へい!」
ややあって、総長室のドアが音もなく開いた。
弥生はいつもの姫カットロングヘアーをなびかせ、さっそうと入室。道場でお団子ヘアで阿修羅のごとく暴れたあの殺気はどこへ?というくらいの豹変ぶりに、熊子は瞠目せざるを得なかった。
善美の深々としたお辞儀に左手をわずかに掲げて答礼した弥生は、ほんとうに自然な動きで、入り口から遠い方の椅子にスっと腰掛ける。そこには「上座」という場所に座りなれた人間にしかない、不思議なオーラが漂っていた。
「浅野さん、ごくろうさま。野上さんも、突然お呼び立てしてごめんなさい。」
鈴を鳴らしたような涼しげな声色は健在。
お座りになって、との弥生の誘いに、熊子はようやく、弥生と机をはさんでトイメンの場所に座ることができた。
「野上さん、柔道の練習なんて、はじめてご覧になられたでしょう?
殺伐としたものでしたでしょうから、ずいぶん驚かれたのではなくって?」
にこやかな表情で下問する弥生。
「いーやー…うちは男家系で、シバいたりシバかれたりは普通ですけエ…うちゃあ、柔道の技は知らんですが、殴ったり投げたり取っ組み合ったりなんちゅうのは、格闘技の練習なら普通じゃと思っちょりますよ。」
意外な回答に、弥生はキョトンとした表情に変わる。
「へー…。野上さんって、ああいった光景を見て、引いたりしませんの?
とくにワタクシ、相手の方にかなり厳しく攻めをしましたのに、驚いたりされませんでしたの?」
ヤーソー女学院はもともと、由緒正しきお嬢様学校。弥生の疑問は、当然のものである。
「いーえー。うちの父親は格闘技じゃー何じゃーいうのが好きで、ようテレビ桟敷に付き合わされちょりましたけえ、ある程度は見知っちょりましたが…金光先輩の柔道は、今まで見た柔道のどこの何とも、違っちょりましたねえ。」
よどみない回答に、弥生の涼しげな目元が光を放った。
「野上さんが見た私の乱取りは、ラストの1本でしたよね?」
「へえ。左様であります。」
「野上さんはあの戦いで、どういったところにお気づきになられたの?」
う~ん…熊子は左斜め上45度に、10秒程度視線を向ける。
「素人の寝言くらいの感想でええんならお話しますが…ええんですか?」
「忌憚なく!お話になられて!」
弥生の上体が熊子のほうに、ズズっと傾いた。
「最初に金光先輩の足運びですが…柔道ってすり足移動が基本ですいね?
でも先輩は、なんかバスケのターンみたいな動きで、あれに相手が完全に翻弄されちょりましたよね…。まあ、足をスリスリしよりゃあ旋回半径がデカくなりますけー、柔道のすり足なんて、実戦的じゃーない動きとは思うちょりましたが。
それにしても、あねーなピボットターンで、あれほど旋回半径が短うなるとは知らんかったですねー。」
熊子の発言に、弥生の切れ長の目がクワっ!と開く。
「!!!!! ほかに?ほかに?どんなところにお気づきになられたの????」
「え、しょうもない感想しか言うちょらんのですが…まだしゃべってええんですか?」
「もっちろんよ!もちろん!」
上体をトイメンの熊子の方に更に大きく傾け、次の解説を待っている弥生の姿は、アタマのいい大型犬が難しいムーブをしたあと、飼い主に「褒めて褒めて!そしてご褒美のエサちょうだい!」という表情を向ける、アレに似ていた。
「…金光先輩、あの大柄な先輩をブチ投げたときですが…」
「なに?なに?(フンスフンス!!!!!!)」
「うちの耳が腐っちょらんかったら…相手さんを叩きつけた音とは別に、『ズトン!』ちゅう音が聞こえたんですよ。」
「うん、うん!!!!」
弥生の、「ほめてほめて!」フェイスがますます増していく。
「…あの状況…まあ、素人の勝手な見立てですし、どねーなテクニックを使うちゃったんかわからんですが…
先輩は相手の腕を、自分の腕でシバいちゃーなかったですか?
しかも、かなり強うに…」
ちなみに「シバいちゃーなかったですか」とは、山口方言で「殴ったんじゃないですか(または叩いたんじゃないですか)?」という意味。
これを聞いた弥生の「フンスフンス!」が、3秒ほど止まった。
ややあって、ほぼ真一文字の角度を保っていた弥生の口元が、上方向にピクピクっと移動していき…やがて、クールビューティーの表情をかなぐりすてた弥生が、満面の笑みをたたえて熊子に抱き着いていた。
「…やはり、やはり野上さんは、ワタクシが見込んだ通りの方ですわ!
アナタはワタクシの運命の人!もう、放しませんわ!」
「ちょ、ちょ、ちょいと先輩、うちゃー何もええ話をした記憶がないですよ!ちょいと、ちょいと!」
弥生が抱き着いてきた理由が一切わからないまま、とりあえず弥生を引き離そう
と、つたない言葉を並べる熊子。
しかし、武の達人である弥生の抱擁は、素人の熊子に引きはがせるものではない。
アタフタする熊子の前に佇立するのは、またしても不動明王の炎を背負い、不動明王の表情でたたずむ善美の姿…
弥生が直近にいるが故、声には出していないが「アナタ、なんでお姉さまに抱き着かれてヘラヘラして!ナニしてんの!!!!!」という、まるで不倫現場を押さえた奥さんと同質の殺気を湛えて佇立していた。
弥生に抱き着かれ、善美に殺気満々の目でにらまれ…
熊子は「進退窮まる」という言葉の意味を、深く深く噛みしめていた。
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