第6話 柔道場と熱気と「ズトン!」の衝撃

 ヤーソー女学院格技場は、広い広い敷地の北端に所在する。

 バカでかい建物、白くて高い壁、そしてやたらと小さくて少ない窓… 

 入学から約3か月。善美に導かれて初めてやってきた柔道場は、熊子の目には刑務所、あるいは留置場のように映った。


 善美によれば1階は剣道場、柔道場は2階であるとのこと。

 平日の夕方、しかも3年生最後の戦いが控えた時期ており、猛烈な練習が行われている時期。熊子だって、その程度のことは心得ている。

 しかしこの格技場は防音が完璧であるためか、周囲は極めて静寂。付近に響く音といえば、格技場の外に幾台も据えられたエアコンの室外機が放つ、ブ~ン、ブ~ンという無機質な旋回音だけ。熊子にはその音が、格技場に閉じ込められた猛者たちのうめきのようにしか聞こえず、思わず肌を粟立たせた。


 建物外に設えられた、鉄骨と鉄板でできた階段をカンカンカン…と上り、柔道場入り口の前に佇立する善美と熊子。

 窓のない両開きの引き戸のむこうからは、えもいわれぬ熱気と狂気がうずまき、その熱気と狂気を、たった1枚のドアが外に漏れないように閉鎖している…熊子にはそうとしか感じられなかった。


 「オース!!!失礼しまー・・・・」

 善美があいさつとともに、ドアの片方を引いた瞬間、ふたりの顔にブワっ!!!!とばかりに、熱風が吹き付けられた。

 善美のまんまるメガネが瞬時に曇る。

 柔道場の中の景色は、霞の向こうに煙って満足に見ることができない。

 ややあって室内温と室外温が馴化し、視界がクリアになったとき・・・

 そこには過ぎる日、熊子が懲罰を受けた際、懲罰の執行部隊として活動していた巨体の柔道部員たちが、全身の水分を汗と化して、必死に組み合っている姿があった。

 熊子は与り知らぬことではあるが、このとき柔道部は、練習の仕上げである乱取りの最中であった。柔道を知らぬ方のために説明申し上げると、「乱取り」とはいわゆる自由攻防・スパーリングのことである。


 過ぐる日、熊子たちに対して制裁を加えた巨大な図体を持つ部員たちが、その巨体屈め、縮め、肉体の疲労を隠そうともせず、いつ終わるともわからない長く長く、辛い辛い乱取りをこなしている。

「あとひとーつ(1分)!!!」「ファイトでーす…」

 周囲で見守る部員の声も疲労に潰れており、それがすり足の足音と入り交じり、得も言われぬ緊張感を醸し出している。

 その乱取りを無言で見つめるのは、これまた過ぐる日、熊子たちに苛烈な制裁を加えたシスターその人。

 シスターの直近にいた組が申し合わせたように、互いに組み合ったまま、激しい息遣いをしながら膠着した。その膠着時間が10秒を越えようか…とした瞬間、シスターは右脇に抱えていた、長さ3尺の十字架を横殴りにブチ込んだ!


 バッチーン!!!!!


 巨大な十字架は組み合っていた部員のうち、シスターの直近にいたほうの部員のケツに正確に打ち込まれた。

 打ち込まれた方の部員は腰砕けになりつつも、必死の表情をつくり、畳に膝をつくことを必死で堪える。

「試合中に手足を止めない!攻める!攻める!」

「…押~忍…!!!!」

 十字架を打ち込まれた部員は、組み合っている相手の攻撃より、不覚にも膝をついてしまった後の制裁を恐れる表情に満ち満ちていた。


 この柔道部の乱取りは、2分と短め。

 熊子が後で知ったところによれば、「立ち技乱取りは相手をどんどん変えて、刺激に変化をつける」という理由らしい。

 巨大なデジタルタイマーが「ピピっ!」という電子音を立てるたび、部員たちは三々五々組み合う相手を変え、再びの「ピピっ!」の電子音で乱取りを再開するが…巨大な図体を持つ部員たちが、まったく近寄って行かない相手がいた。

 それは柔道場の隅っこで長髪をお団子にまとめ、入念な準備運動を繰り返す弥生。

 肘や肩関節を丹念に回す体操、四股のような体操、見たこともないジグザグのダッシュ。その準備運動は、柔道というものを多少見知っている熊子にとっても、異次元のものに映った。


 幾たびかの「ピピっ!」の電子音を聴いたところで、シスターはいちばん巨体であろうと思われる部員に一瞥をくれ、アゴをしゃくった。

 巨体の部員は一瞬表情をこわばらせ、まるで爆弾に近寄っていく爆発物処理班のような、おずおずとした歩調で弥生に近寄った。

 弥生は無言で頷き、巨体の部員とともに赤い畳の中に入った。

 

 10数回目の「ピピっ!」がかかった。

 巨体の部員は頭ひとつ、胴体の太さでは二回りも三回りも小さい弥生を相手に、小さなすり足を使いつつ、両手をシャカシャカ動かすだけの牽制を繰り返すだけで、まったく組みにいけない。

 対する弥生は右足前のオーソドックススタイルで、その動きを見守るだけ。しかもその足の動きは柔道選手のそれではなく、まるでバスケ選手のターンのような、今まで見たこともない動きであった。

 「コラ!攻めなさい!攻めないか!!!」

 決め手に欠ける巨体の部員を、シスターが大声で𠮟責する。

 その声にはじかれた巨体の部員はヤケクソ気味に、弥生に対して右腕を無造作に伸ばした。おそらく弥生の襟…いわゆる「釣り手」を取ろうとしたのだ。

 その瞬間、切れ長の弥生の目が、鈍い光を発したのを、熊子は見逃さなかった。


 巨体の部員が無造作に伸ばしてきた右手を、弥生は自らの左掌でフワリと包み込んだ。

 相手の手を捉えた弥生の左手が、円を描くように下に降りた…と思った瞬間、天を弄するような「ズドン!!」という音とともに、巨体の部員は青畳にあおむけに叩きつけられた。

 いや、この「ズドン!!」は、相手が畳に叩きつけられた音だけではない。熊子の鼓膜には間違いなく、2回の「ズドン!」が記録されていた。しかし、巨体部員が畳に叩きつけられる前に聞いたの1回目の「ズドン!!」の意味は、まったくわからなかった。


 自分がどうやって倒されたか全く理解できないまま仰向けに倒れている巨体部員の上に間髪入れず舞い上がった弥生はその右腕を取り、時計回りにグルン!と回転した。

 「グワッ!!!!」

 右腕肘関節を完全に伸ばされた巨体の部員が断末魔の叫びを上げるのと、弥生の体をタップしたのはほぼ同時。秒を要さない完璧な腕十字であった。

 「金光さん!乱取りの最中は寝技禁止ってあれほど言ったでしょう!すぐ放しなさい!」

 シスターの指摘に、弥生は即座にその腕を放して立ち上がるが、巨体の部員は、右ひじにすさまじい衝撃を立て続けに食らったため、うめき声をあげたまま悶絶するばかり。

 その様子を見た善美は、素早く動いた。

 まず巨体部員の道着の袖をまくり、肘関節付近にこれでもか!とばかりにコールドスプレーを吹きかける。

 その後、付近の部員に氷嚢と包帯を持ってこさせ、巨体部員の右ひじに、水にぬらした包帯で氷嚢をテキパキと巻き付けた。

 「これで炎症は防げます。あとは安静にしてください」

 善美のアドバイスに無言で頷き、ヨロヨロ立ち上がる巨体の部員。

「あなた、あまりにも練習不足ですわ。もう少し稽古されないと、私のアップの相手すら務まりませんわよ!」

 赤畳の外に出ようとする巨体の部員の背中に、そんなケンのある言葉を投げつけたのは弥生。その顔にはあからさまに、欲求不満の表情が現れていた。


 弥生の一声のせいではあるまいが、その日の練習はそこで終わった。

 熊子は息の詰まるような思いをしつつ、余人にはまったく理解できなかったであろう弥生の動きを、不思議な能力で解析しつつあった。

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