第5話 チンチクリンとお姉さまと「アニキ~」の呼び方
熊子の顔面に叩きつけられた制服がズルズル…っと落ち、熊子の視界がクリアになると、そこには茹で蛸もかくや、というほど顔を真っ赤に上気させ、怒りの感情をむき出しにしたチンチクリンがいた。
しかし、熊子より頭一つ身長が低いためか、その怒りは熊子を怖気づかせる性質のものではなく、むしろ児戯のようなほのぼの感を感じさせるものであった。
「ちょっとあなた!少し前から見ていたけど、なんでお姉さまとあんなに親しげなの?なれなれしすぎない?私なんか、ずっと一緒にいるのに、まだあいさつ程度の会話しかしたことないのに!
お姉さまとの間に何があったの?言いなさいよ!」
熊子のあごの下辺りから、キンキンの高音が、手数は多いけどキレのないアッパーの如く連続で飛んでくる。
「いやいやいや、あんたーちょいと待ちんさいや!
うちゃーあのお嬢さんがどこの誰かも知らんのんですよ!親しくするなんちゃーどようしもないことですで!
それにあんたー何処の誰で!ワーワー言われても困りますわい!」
(※「どようしもない」…山口方言で「想像もつかない」「とてつもない」「とんでもない」の意味)
「…あなた、本当にお姉さまと何の接点もないの?」
コクコクと頷く熊子に、チンチクリンは胸に手を当て、えらく芝居がかったポーズをとる。
「私は浅野善美(あさの・よしみ)!1年八幡丸組!弥生お姉さまのイチバン目の妹よ!」
「妹~????名字も体格も、えらい違う妹ですのお~!」
思いがけぬ発言が笑いのツボにはまり、ゲラゲラ笑いだす熊子。善美は茹で蛸の顔をさらに真っ赤にしてまくしたてる。
「あなた、本当にものを知らないのね!
本学では、尊敬する先輩を『お姉さま』と呼ぶのよ!そして先輩は、心を通わせて良いと思った後輩を『仮の妹』として認め、いつくしむという校風があるの!」
「ほうですか。で、あなたー、その仮の妹かなんかになれちゃったんですか?」
(※「なれちゃった」…山口方言では「おなりになられたのですか」という丁寧な言葉。標準語で「××になっちゃったー」というぞんざいな表現でないことに留意。)
ガンガンまくしたてていたチンチクリンの口がピタリと止まる。
「…痛いところを衝いてくるわね…アンタ…。残念ながらまだ、お姉さまの身の回りのお世話をできる程度の関係でしかないけど…。
それにしてもあなた、本当にお姉さまの事を知らないの?」
訝しさ半分、呆れ半分の視線を投げかけるチンチクリン。
ふたたびコクコクと頷く熊子を見て、チンチクリンは深いため息をつく。
「…本学でお姉さまのことを知らない生徒がいるなんて…
あなた、お父様がサンパンの艇長さんなら、金光海運っていう海運会社くらい、知ってるでしょ?」
金光海運といえば、日本優船(にほんゆうせん)、川先汽船(かわさききせん)、大坂商船光井(おおさかしょうせんみつい)などと比肩する、超大手海運会社。
なぜか本社は創業地の岡山県のままだが、ほかの会社が「アっ!」と驚く優秀航路の開拓や、先鋭的な輸送手段の確立で名高く、その経営ぶりは関係者のみならず、投資家などの間でも評価が高い。
深緑色に白地で描かれた「六陵」のファンネルマーク(船の煙突に記された社章など)の金光海運社船は、ヤーソー女学院の眼下に見える港のあちこちで目にすることができる。
「ああ、そりゃあさすがに知っちょりますよ。」
「本学は、その金光海運が出資してできている学校なのよ!
お姉さまは理事長先生の孫、校長先生の娘さんなのよ!…理事長先生の上に総長先生がいるけど…それはまあ…どうでもいいわ…(ボソリ)」
「ああ、それで名字が金光…うちの学校の校章が六陵…」
「あなた、本当に察しが悪いわねえ…よくそれで本学の試験に受かったわね…」
憐れみと呆れがタップリこもった一言を、ため息とともに吐き出すチンチクリン。
「それよりもあなた、さっさと制服着なさいよ!
お姉さまが柔道場で待っているんだから、待たせちゃダメよ。早く!」
熊子は自分が下着だけだったことにようやく気付き、先ほど投げつけられたわが制服を手に取って見て、一驚した。
汚れという汚れはすべて除去され、ビシっとプレスが当てられ、新品同然の外観となっていた。着てみると、プレスの当たり具合からは想像もつかない、柔らかな着心地。
「このヒト、口はぶち悪いけど、そんなにヘンな人じゃないかも…」
一人ごちる熊子であった。
「あ、そういやー浅野さん、つまらんことを聞きますが。」
「何?」
「『お姉さま』ちゅう言葉のイントネーションですが、バリエーションとかあるんですか?」
思わぬ質問に、善美のアタマの上にいくつかの「?」が点灯する。
「どういうこと?」
「いや、うちゃー父親の影響で、よう昔のヤクザ映画とか見よるんですが、『アニキ』にゃー、いろんな呼び方のバリエーションがあるんですよ。
菅原●太ならドスが効いた『アニキィ!』ですし、若かりしころの水●豊なら、チャラい感じで「ア~ニキ~」ですし。
やっぱり『お姉さま』にも、そんなバリエーションが…」
「あなた、本当にバッカじゃないの???花の本学の生徒が、そんなもん見て喜んでんじゃないの!!!!」
善美のマジのカミナリ。善美から見えないよう、ペロリと舌を出す熊子だった。
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