赦しを乞うのではなく、罪を認めることだと思う
唐突ですが、謝罪は「赦しを乞う」のではなく、「罪を認める」行為だと思います。赦してもらうための謝罪は嫌いです。赦しを得たことで気が緩み、また同じ失敗を繰り返す可能性も秘めていると思います。
これは個人的な話になりますが、私は10年以上ずっと根に持ち続けていることがあります。ずっと怒っています。ただ、そのひとつのことだけで、相手に仕返しをしよう、害を与えようということはないです。というか、ただひとつの事象だけに怒り続けているわけではなく、そういった事象を起こす人間性について腹を立てています。
しかし、人間性はそう簡単に変えられることではありません。だから、何度も似たような不快感を与えられます。そうすると、その際毎回「謝罪→赦し」を繰り返すことになるのですが、私は「赦す」行為の必要性が分からなくなりました。なので、「赦す」ということを辞めました。
それは、私も他人から「赦し」を与えてもらえないということにもなると思うのですが、考えているうちに「不快感を与えた人に赦しを乞う」という行為がとても身勝手に感じてきました。嫌な思いをさせられたうえに、「赦す」という感情を加害者に求められるというのは、すごく申し訳なく思うのです。
なので、「赦しを乞う」気持ちを持たないことにしました。そもそも、失敗したあとに必要なのは「被害者の赦し」ではなく、「今後失敗しないこと」だと思います。
ですが、それは謝罪が必要ではないということではありません。不快感を与えた相手に何かしらの行動は必要なはずです。
私はそれが「罪を認める」ということだと思いました。もしくは「非を認める」。「自分が悪い」という表明は、相手にとっても自分にとっても、今後繰り返さないための行動につながると思うのです。それに対し、「赦す」のは被害者の権利です。被害者側の気持ちの問題だと思います。
謝罪とは「自分の非を認める」行為であるべきで、そうありたいと考えます。そうやって少しずつでも前に進みたいと思っています。
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