普通ではない現実を受け入れる

 俺の前やシッターの前では、敦輝はとてもいい笑顔で笑ってくれるよ。確かに普通の四歳児と同じような振る舞いはできない。ほとんど赤ん坊と変わらない。

 だが、それがどうしたというんだ。敦輝は敦輝だ。他の誰かじゃない。俺の子供であり人間だ。俺やシッターの前では安心していられるから、自分の身を守ろうとして暴れる必要もないから愛嬌も振りまいていられる。

 攻撃的になるのは、結局、自分の身を守ろうとしてのことだ。身近な人間が怒鳴って叩いてと攻撃的に振舞おうとすれば、そりゃ子供の方だって自分を守ろうとして攻撃的にもなるさ。当たり前だろう?

 赤ん坊の頃ならそれこそ反撃のしようもないからただ怯えるしかできないかもしれないが、幼いうちはそうかもしれないが、力がついてくれば当然、反撃だってしようとするだろう? それとも何か? 自分は理不尽な攻撃者に対しても一切反撃をしない<無抵抗主義者>だってのか? いやいやそれは嘘だろう? 無抵抗主義者がネットで『相手に原因があるから』と他者を攻撃してたらそれは無抵抗主義じゃないよな?

 俺は別に無抵抗主義者ってわけじゃないから、俺の子供の敦輝が何か危険を感じた時に自分の身を守ろうとして抵抗するのを『おかしい』とは思わないな。

 だったら、<暴れる必要のない状況>を提供するだけだ。それ以外に何が必要だ?

 学校でも、

 <教師を舐めてかかろうとするコミュニケーション能力に問題を抱えた生徒>

 以外の生徒は、俺の方が<反発しなきゃならないような状況>を作らなきゃ別に反発してこないぞ? 生徒にとってやりたくない事をやらせなきゃいけない時だって、きちんと、『なぜそれをしなきゃいけないのか?』を説明したら、大半の生徒は不満を抱きながらでもやってくれる。そしてそれをしてくれた後はちゃんと労う。

 <まっとうな生徒>はそれでもう十分なんだよ。脅す必要なんか何もない。

 そこで問題になるのは<まっとうなコミュニケーション能力を持たない生徒>ってわけだが、

『<問題を抱えた生徒>にリソースを割くのはおかしい!』

 とか言うんなら、教師を舐めてくるようなコミュニケーション能力に問題を抱えた生徒を特別扱いするのもおかしいだろうが。

 まあ、俺はそう思うから、無理に普通の学校に敦輝を通わせようとはせず、養護学校に通わせることにした。

 自分の子供に『普通でいて欲しい』と思うのは親としては無理からぬ感情だとしても、現実を現実として認めないというのはそれはただの<甘え>だろう。

 別に『甘えるな』と言ってるんじゃない。何度も言うように大人の側が甘えたいのなら子供に対しても『甘えるな』と言っちゃおかしいってだけだ。


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