終章

その先へ



 本日も晴天なり。

 昨日と同じような爽やかな風に吹かれながら、おれは頬杖をついて眼を閉じていた。

 ついさっき奴に抱えられてバルコニーの椅子に座らせてもらった。

 そこへさりげなくロイドくんが現れて、氷の入った冷たい飲み物を置いて行った。蜂蜜入りだそうだ。ほのかにいい香りがするが、他に何か入ってるのかな?

 おれは一口飲み干して、ほっと息を吐いた。


(……どうするよ、この状態)




 昨夜は、というか明け方近くまでおれたちは組んず解れずの格闘を(まさにそうとしか言えない!)行っていて、熱が治まった頃にはおれはまったく動けずにいた。汗まみれのぐちゃぐちゃになった身体を洗いたくても指一本上がらず、うつ伏せのまま重い身体をベッドに沈ませているうちに意識が遠退いてしまった。

 で、気づけばさらに一日経ってた、というわけではないが、眠っていたのは数時間だけだったようで、まだ太陽が中天に差しかかる前だった。

 おれが気絶している間に、たぶん奴だろうな、が、おれの身体を洗って着替えさせてくれたらしい。何をどんなふうにとかは想像したくない。その間に、たぶんロイドくんが、ベッドを整えてくれたんだろうな。真新しいシーツがピシッと張られている。おかげで情事の後の惨状を目にしないですんでよかった……。

 で、着替えされられたおれはソファで眠っていたわけだが、目が覚めた時、身体のだるさで起き上れずに、クッションに顔を埋めたまま唸っていると、いや唸っているつもりだった。何だか喉の調子がおかしい。


(……声が出ない?)


 息を吐き出すのと一緒に、微かにひゅうひゅう聞こえるだけで声にならない。


(これってまさか……)


 そこへ何ともいいタイミングで奴が部屋に入ってきた。

 どこに行っていたか知らないが、おれが目覚めていたのを見て足早にやってくる。


「起きたのか。具合はどう? かなり無理させたから、その……すぐには動けないと思うけど」


 横になったままのおれを気遣わしげに見つめてくる。首を傾けただけでさらりと揺れる髪を、つい目で追ってしまう。

 おれは吐息して身体を起こそうとした。しかし鈍い痛みが全身を包み込み、何より下半身が腰に鉛を巻きつけているように重いから、ソファに両手をついて上半身を支えたまま動けなくなった。


(も……最悪)


「リン、無理に動かなくていいから……」


 傍らに膝をついた奴がふわりと抱き締めてくる。おれは素直に身体を預けたが、奴の肩に頭をもたせかけると腕をトントンと叩いた。そして喉を押さえて口をパクパクさせる。


「ん? 何? どうした?」


 奴が心配そうに顔を覗き込んできたが、自分の状態があまりにも恥ずかしくて顔を上げずに眼を伏せたまま、もう一度口を動かす。喉を震わせているつもりなのにやっぱり声が出ない。完全に喉が潰れてる。ていうか嗄れてるのか。


「リン? ……まさか、声が出ないのか? ――ごめんっ」


 いきなり謝られたので、そっと顔を上げると、奴は顔を赤らめて手で口元を覆い視線を逸らせている。


(オイコラ、おまえが照れてどうすんだよ)


 まあ大いに責任を感じてくれと思いながら、おれは今度は奴の髪を引っ張った。


「あ、何?」


 まだ赤い顔をしてたけど、ちゃんとこっちを見て微笑んでくれた。

 おれはバルコニーを指差した。


(風に当たりたいんだ。連れてってくんねえかな?)


 いつものおれなら例え足に怪我をしていても他人に抱えてもらうなんて恥ずかしくて頼みもしないところだが、今回は開き直らなきゃどうにもならない。それにこいつは嫌がらないだろうしな……。

 案の定、「喜んで」のひと言で、おれを慎重な手つきで抱えると、ゆっくり歩き始めた。


「ロイ、蜂蜜入りの飲み物を頼む」


 奴は歩きながらどこへとなく声を掛ける。すると視界の隅に白い包帯が現れて消えた。ロイドくんはあいかわらず忠実だ。考えたくないが、あの最中の間、ロイドくんは近くに居たんだろうか?


(やめとこ……事実を知ったら羞恥で死ねるかもしれん)




 カラリとグラスの中の氷が鳴ったのと同時に、何度目かわからない溜息が零れた。

 今日にもカラスもどきが来て、おれは人間の世界へ帰ることになっている。

 あいつとちゃんと話し合っておれたちの未来に可能性を求められるかどうか考えたかったのに……。


(思い出したら泥沼だぞ、おれ!)


 おれは自分の脳みそに気合いを入れさせ、昨夜の記憶を封印させた。とにかく今は思い出しちゃ駄目だ。


(結局、なんにも話せなかったからなぁ。けど、あいつみんなわかってるふうに言ってたもんな。まあヴァンパイアの事情はあいつのほうが詳しいんだし、おれの考えはカラスもどきに伝えてあるしな。なんとかなるか)


 それに声が出ないんだから今さら話し合いも何もできないわけだし。後は奴に任せるしかない。

 で、その肝心な奴だが、おれをここに座らせてからまた部屋を出て行った。

 そろそろカラスもどきが来るんじゃないかと思っていると、何やら扉の向こうから話し声が聞こえてくる。


(……おいでなすったかな?)


 どんどん近づいてくる声が何やら白熱している気がする。

 次の瞬間、勢いよく扉が開け放たれると、美麗なヴァンパイア青年の二人が言い合いをしながら入ってきた。


「若! 俺の言ってることちゃんとわかってますか?」

「わかってるよ。その上で言ってるんだろ」

「だからまずは元老院を説得してから!」

「むーだ。力が存在意義だと言うなら、その力を見せつけてやればいい。簡単なことだ」

「少しは穏便に進めてくださいよ! 伯爵も認める気でいるんですから騒ぎにしなくても時間をかければ彼らも納得しますよ!」


(おーおー、もめてんなぁ。やっぱり一族をまとめにかかるつもりかな。まあ、あいつだったらできるだろけどなぁ。ただその理由が“おれ”だからな……カッコがつかねえな、ほんと)


 おれは溜息をついて、近づいてくる二人のヴァンパイアを眺める。

 本日のレオンの服装は昨日と似たようなシャツとズボンに、首元はアスコットタイというやつかな。薄い水色の生地でシルバーのリングを通してまとめてる。あとズボンと同じ素材のベスト。上着を着てないだけで昨日より正装っぽい。

 カラスもどきのほうは、あいかわらず全身真っ黒だな。こいつはシャツまで黒なんだよな。タイも黒だからこの距離だと服の境目がまったくわからない。でも小ざっぱりとした短めの髪と精悍な顔つきが重苦しく見せないからスマートで格好が良い。

 対照的だが、どちらも見目麗しく眼福だ。

 バルコニーに姿を見せた二人に、特にカラスもどきに向かっておれは手をひらひらと振った。声が出せないから、とりあえずこれで挨拶をと思ったんだけど、おれと目が合ったカラスもどきが突然動きを止め、前を歩く奴の肩をがっちりと掴んだ。

 不審に思った奴がカラスもどきを振り返る。


「何?」


 不機嫌そうに訊いた奴をじっと見つめ、しかし口元を覆って心なしか顔が赤い? カラスもどきに、奴もおれも首を傾げた。


「……若、彼に何をしました?」


 合点がいった奴はあからさまに嫌な顔をした。


「発情したら殺すぞ」

「あんたが開眼させたからでしょうがっ!」

「その素養があったんだから仕方ない」

「だからってせっかく“ただの人間”になったのに少しは遠慮しなかったんですか! あれじゃあ人の世界でも危ないですよ。充分狙われます」


 カラスもどきの声がだんだん小さくなったが、危ないとか狙われるとか聞こえた気がする。

 どういうことかと二人を手招きするが、まだ奴らは言い争っている。


「素養があるのは俺も気づいてましたけど、あれはまずいです。伯爵に見せてもヤバイですよ」

「見せるかよ」

「いずれバレます! ていうか、俺が気づいたのに伯爵が気づいてないわけがない」


 カラスもどきはおれをチラチラ見ながら奴に文句を言っている。一体おれの何がおかしいんだか。思わず自分を見下ろして見たが、今は奴の服を借りているので、奴と似たシャツとズボンなのだが、ウィングカラーの襟にはタイを付けずに、第二ボタンまで外していて、腰も締めつけないようにベルトはしないでサスペンダーで留めている。まあ無くてもずり落ちたりはしないだろうが。


(ちょっと着崩してるけど、別に変じゃないはず……)


 おれが自分の格好を気にしているのがわかったのか、カラスもどきが弁解の声を上げた。


「いや、あんたの格好がおかしいわけじゃないんだ。その、ぶっ」


 カラスもどきがおれに向かって一歩踏み出したのを奴が顔面を叩いて阻んだ。

 すばやくおれの傍に来て隠すように抱え込む。お腹に顔を押しつけられる形になったおれは息苦しくて、奴の腰をバシバシ叩くと腕の力が緩んだ。大きく息を吐き出して奴を睨み上げる。

 口を動かして「バカ」と言ってやる。

 しかし奴は怒ってやったのにニコニコ笑って嬉しそうだ。


「あの~お二人さん」


 カラスもどきが疲れた声を出す。おれは奴の身体からひょいと顔を出して手招いた。なおも威嚇する奴のケツをバシバシ叩いて大人しくさせる。まるで猛獣使いだ。

 寄ってきたカラスもどきが怪訝そうにおれを見下ろした。


「さっきから気になってたんだけど、君、声が出ないの?」


 おれは頷いた。その途端、意識しないようにしてたけどやっぱり顔が火照ってくる。当然相手も気づくよな。カラスもどきは「あー」とか「うー」とか言いながら大きな溜息を吐いている。


「ほんとに君は、色々と稀有な存在になっちゃったな」


(どういう意味だ?)


 おれが首を傾げていると、たぶんおれの頭を撫でようとしたんだろうカラスもどきの手を奴が引っ掴んで阻もうとし、頭上で妙な攻防戦が始まった。


(……こいつら)


 どこまでもマイペースな奴らに呆れてしまう。

 それにしても。

 さっきの二人の会話から察するに、やはりこいつはおれの考えを理解している。その上で自分がやれることを多少強引にでも(ここが問題なんだが)やり抜くつもりでいる。

 まあ“一度死んで生まれ変わる計画”よりは全然いいんだけどさ。

 こいつはこれからヴァンパイアの世界にとって革命的なことを始めるのだ。

 過去に前例のない、“一個人の恋愛成就の法則を確立させる”ためにヴァンパイアの頂点に立つ、という壮大な改革を実現しようとしている。


(恋愛成就のためって、偉い人たちが聞いたら笑うか呆れるかのどっちかだろうなぁ)


 でもこいつは至って本気。おれも期待してる。

 無謀かもしれないし時間がかかるかもしれない。でもなぜか悲観的にならない。むしろ楽しみで仕方ないんだ。何だか笑えてくるぐらいに。


「リン?」


 笑っているのに気づいたのか、おれの髪を梳きながら問いかけてきた。おれは応えてやりたかったが、声が出ないから何でもないというふうに首を振った。

 奴は屈んでおれと額を合わせると切なげに言う。


「早く声が聞きたいな。名前、呼んでほしいよ」


(レオン)


 おれは口パクで呼びかけた。


「何?」


 ちゃんと伝わったみたいで碧い瞳が嬉しそうに煌めいている。おれは奴の頬を包み込むと首を伸ばして口づけた。横でカラスもどきが驚く気配がする。


「ど、どうしたの、リン」


 戸惑っている奴に微笑んで、今度は喉を震わせて声を絞り出してみる。


「待っ、て、るから、必ず、逢いに、来い」


 おれのところへ。

 住む世界が違っても、生態系の違う人種でも、邂逅する接点があったから恋い焦がれた。求めあってしまった。どうしても諦めきれなかった。離れることなんかできないんだ。

 だから逢いに来てほしい。


「約束、な」

「うん。約束する」


 満面の笑みで頷いたレオンを抱き寄せて、肩越しに見える高い高い空を、おれは唇を引き結び強く睨みつけた。

 これから起こるおれたちの試練に立ち向かうために。




完。


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月下の吸血鬼と百日間の花嫁 ことぶき @machikoto

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