6.



「腹減ってない? ロイドくんに軽くご飯作ってもらお。おれも喉渇いたし」


 おれはロイドくんを呼んで軽食と飲み物を用意してくれるように頼んだ。それから奴には着替えを勧めて、おれはしわくちゃになってるベッドを軽く整えてから、ベッドサイドに置いていた小さめのテーブルと椅子二脚をバルコニーに移動させた。

 緩やかに吹く風が気持ちいい。ここのほうが落ち着いて話ができそうだ。

 隣室の扉が開く音がする。奴が着替えて戻ってきたらしい。

 袖のカフスボタンを留めながらバルコニーへと姿を見せる。ウィングカラーの白いシャツにリボンタイ、サイドに二本のベルベットラインが入った紺色のズボンにサッシュベルトといった出で立ちだ。


「……まったく」

「?」


 おれが苦笑していると奴が首を傾げている。

 ほんとに見目麗しいことこの上ない。あいかわらずの艶やかな金髪と碧い瞳の涼やかな目許と鼻筋の通った鼻梁、そして……。

 おれは思わず視線を逸らせた。……口元は今はまともに見られない。自分の唇にさえ意識が行かないように必死だってのに、奴のまで見てしまったら……って、もう見ちゃったけど。奴の唇が少し赤くなってるのを。ということは、おれのだって、そう見えるんだろうな。実際、まだじんじんと痺れた感覚が残ってるんだから。

 おれは知らず頭を押さえて俯いていたらしい。奴がその手を取って顔を覗き込んできた。


「どうした? 大丈夫か?」

「ああ、大丈夫。おまえがあいかわらず綺麗で見惚れてたの。ほら、座ろ」


 冗談めかして自分の気持ちを誤魔化していると、奴が動こうとしないから振り返れば、奴の真っ赤になった顔に出くわした。


「え? なに、そんな赤くなって……」


 奴は口元を手で覆ってそっぽを向いた。


「もしかして、照れてんの? あれ? おれ、おまえの見た目褒めたことなかったっけ?」

「……たぶん、初めて聞いた、と思う」

「そうだっけ? いつも思ってたけどな……ていうか、おまえそんなの言われ慣れてんじゃねえの? 今さらだろ」

「そりゃ好きな人に言われたら照れるに決まってる……」


(好きな人……)


 こいつの中ではおれはまだ好きな相手なのか?

 まだ、その感情は残っているのか?

 じゃなきゃ、あんなキスはしない?

 心臓が早鐘を打つ。胸の辺りが締めつけられる感覚に思わずシャツの胸元を握り締める。気持ちは泣きそうになってるのに自然と顔は綻んでいく。

 まだ熱を持った顔をした奴の目が見開かれる。そこにおれがどう映っているのかわからないけど、嬉しそうに笑って言った言葉におれもまた照れくさくなった。


「君こそ、なんて可愛い顔して笑うの」


 最初はふんわり優しくおれの背中に回された腕が、手が、おれの存在を確かめるように彷徨って、込められた力がどんどん強くなる。抱き締めるというより、抱き潰す気だろうか。

 おれたちの身長はそんなに変わらない。おれのほうが少し低い程度。だから抱き合うとお互いの肩に顔を乗せられるから息苦しくはならない。ただ、完全に密着する。胸とか、お腹とか……。

 おれの腕は奴の腰に軽く回しただけで手を組んでいる。背中を触ったらせっかく着替えたばかりの綺麗なシャツがシワになってしまう。ていうかもう前はくしゃくしゃだな。


(抱き合うのは嫌いじゃないけど……正直おれもこいつの身体とか髪とか色々触りたいし……けど、そんなことしたらなぁ)


 おれは内心で溜息を吐く。まだ身体の疼きが残っているというのに、これ以上は困る。


「……そろそろ離れへん?」

「やだ」ぎゅうぎゅう。

「う。いや、あの、そろそろロイドくんも出てきたいんじゃないかな」

「やだ」ぎゅうぎゅう。

「うう。は、腹減ってないの?」

「平気」ぎゅうぅぅ。

「うぐ。ちょ、ほんとに苦しっ」


 息はできるけど骨がっ!

 みしみしと音が鳴りそうな骨の軋みに堪えていると、ふいに左の首筋にやわらかい感触がした。


「ここ、痣がもうない……」

「あ……いたっ」


 吐息が触れた次には鋭い痛みが走った。唇の感触と吸いついている音が聞こえてキスの痕を付けているのがわかった。


(牙じゃない、か)


 血を吸われることはもうなくて、恐怖に駆られることもないのに、安心していいはずなのに、少し寂しいなんて、おれってば相当毒されてるな。

 やがて唇を離した奴が腕の力も解いた。


「こんなんじゃ所有の証にならないな……」


 俯いて溜息なんかついてる。風が奴の髪をなぶって目元を隠そうとした。その髪に指を差し入れて梳いてやる。サラサラと心地いい感触。ずっと触ってたい。


「なあ、おれのこと、おまえのもんにしたい?」

「え?」


 奴が驚いておれを見返す。

 おれはこいつが起きるまで不安だった。普通の人間になってしまったおれをまだ好きでいてくれてるのか。気持ちがなくなっていたら、おれは元の世界でまた以前の生活を取り戻して、こいつには二度と会うことなくヴァンパイアに関わらずに生きていく。おれ自身はこいつへの想いを抱えたままになるけど、時間がちゃんと思い出に変えてくれるだろうって信じるつもりだった。

 でももし、こいつの中におれへの想いが残っていたら?

 血なんか関係なく、おれのことを好きだと思っていてくれたら?

 種族が違うおれたち。違う世界に住むおれたちは一緒にいられない。でも。

 この気持ちがどうしても望んでしまう。


「おれさ、元の世界に帰るから」


 言った途端、奴の顔が歪んだ。溢れそうな感情を堪えるように歯を食いしばろうとするから、おれは奴の腰に回していた手を解いて、そのまま腰を叩く。


「話、最後まで聞けよ」

「うん……」


 本当はのんびりご飯食べながらとか、あんまり深刻にならないように話そうと思っていた。でもこいつはおれを離したがらないし、それだけ想ってくれてるならわかってくれるはずだ。


「おれはもう普通の人間になってるよな。おまえらの餌にならない、関心を持たれない、ふっつーのただの人間だよな」

「……ああ」

「それなのに、なんでおまえはまだおれのこと所有したいって思ってんの?」

「……そ、それは」


 おれの勢いにタジタジになっている奴が面白くて、もっとからかいたくなったが、それはまた今後の楽しみにとっておこう。とりあえず話を進めないと。


「ちゃんと応えてくれなきゃ、あげねえよ?」

「く、くれるの?」

「返答次第では」


 奴は盛大な溜息をつくと、ずっとおれに触れていた手を離して、おれから一歩下がった。

 告白するだけやのに、そんな離れんでもと思っていると。

 奴は優雅に右手を胸に当てお辞儀をすると、いきなり膝をついた。


(ちょ、これってまさか―――)


 すっとおれを仰いだ表情が真剣で、まっすぐに見つめてくる瞳が熱っぽく潤んでいる。

 おれは思わず息を呑んで姿勢を正した。

 すると奴の口元が少し緩んだ。


「手、預けてもらっていい?」

「あ、うん」


 奴はおれの両手を取ってニッコリ微笑むと宣誓した。

 そう、宣誓したんだよ!

 捧げ持ったおれの両手の甲に額をつけて、朗々と声を上げる。


「我、レオンハルト・ヒュートリエル・フォン・リーべシェランは、かの君を生涯の伴侶として、生ある限りともに歩むこと、死してなおその魂を慰めることを、この世界を治める神々の加護の下、真名を持って誓約する」


(うわぁ、名乗っちゃったよ……)


 普通知り合ったら名乗り合うはずの名前を、おれたちは今の今まで教えなかった。

 最初は知らなくても全然不便じゃなくて、“縛り”になるって聞いた時は知るべきじゃないと思ったし、相手を想うようになってからは知ってしまったら尚更離れがたくなるから、たぶんもう知らないほうがいいと思っていた。


(呼びたい時は、あったけどな)


 おれは誓いを立てられたことよりも名前を知れたことにドキドキしていた。


「長い名前だなぁ。愛称はレオ? レオン?」

「レオン、かな。君の名前、聞いてもいい?」


(……なんか、眼がキラッキラしてるなぁ。今まで知らなかっただけに、妙な期待感持ってないか?)


「あー、その、あんま期待すんなよ。ふつーの名前だからな」


 奴は首を傾げたが、ワクワク顔を貼りつけたままだ。


「えっと、おれの名はリン・トーヴァ。リンでいいよ」

「リン……」

「うん」


 噛み締めるように繰り返し呟いている相手に照れくさくなって、いまだに繋がれている手をそろそろ離してほしいなぁなんて思っていると、奴の顔がまたピリリッと引き締まった。


「リン!」

「うぁ、は、はい!」

「リン、改めて、オレと結婚してください」

「え、ええ? 結婚っ!?」

「何でそこで驚くの?」

「いや、だって」

「さっきの誓約の言葉は普通に聞いてたじゃないか。受けてくれるなら君にもさっきのように誓ってほしい」

「ええっ? おれも言うの、あんなこと!」

「言ってくれないのっ?」

「ちょっと待って! なんか話がおかしなことになってる!」

「告白なんだからおかしくないだろ!」

「確かに告白かもだけど、と、とにかくおまえ立って。しゃがみっぱなしは気が引けるから」


 おれは握られていた手を握り返して引っ張り上げる。ていうか引っ張らなくても奴はすんなり立ち上がって軽く膝の埃を払った。

 奴は小さく吐息して腕を組んだ。おれを見据えて仁王立ちになる。なんだこれ、臨戦態勢ってわけか?


「……どういうこと?」


 低く呟いた奴を、おれも腕を組んで睨み返す。

 こうなったらとことん話し合おうじゃないの。





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