5.



 開け放した窓から爽やかな風がふんわりとやわらかく入り込んでくる。

 観音開きの窓の向こうは小さいバルコニーがあり、その先に視線を向ければ一面に澄んだ青空が見える。清々しくてとてもいい天気だ。時々小鳥のさえずりが聞こえて心地よい気分になるし、何とも――。


「平和だ……」


 小さな丸テーブルに頬杖をついて外を眺めていた。反対側に視線を転じれば、巨大な天蓋付きのベッドに麗しのヴァンパイアどのが眠っている。

 あれから丸一日が経った。

 キスの効果はしっかりあって、やはり呪いってのは愛によって解かれるものなのねと、柄にもなくセンチメンタルに思ったのだが、肌の模様が薄れ牙が短くなり冷たく硬質的な身体に体温が戻り、奴の身体が徐々に元に戻るのがわかったところで、奴は途端に意識を失ったのだ。

 おかげでおれは奴とともに地面へ真っ逆さまに落ちた。

 絶体絶命の大ピーンチ!

 落下速度が凄まじく、今度ばかりはカラスもどきを呼べるほど声が出なくて、ただ奴の身体を離さないようしがみつくことに必死になっていた。

 で、この窮地を救ってくれたのは、なんと、ロイドくん!

 包帯男のロイドくんなのだよ!

 さすが陰の使役。忠実さは天下一品だよな。あれこそ使役の鏡だ。

 突如現れた白い包帯が、落下するおれたちの身体にたちまちにしてぐるぐるに巻きつき、それでも落ちて行くからどうなるのかと思っていたら、地上から複数の包帯が伸びてきて一気に大きな網が出来上がったのだ。

 おかげでおれたちは無事にその網の上に着地し、追ってきたカラスもどきが合流して、気絶した奴ともどもカラスもどきの使役たちに運ばれて辿り着いたのが、ここ、カラスもどきの屋敷、らしい。


(あいつもいわゆる“若様”なんだろな。……いいところに住んでんな)


 あいつがここに寝かされて、おれも一緒に付いてるってなった時に、おれはカラスもどきに伝言を頼んだ。

 あの現場から立ち去る時、遠くで奴の父親とカリンがこちらを見ているのに気がついた。表情なんかはまったく見えなかったけど手出ししてくる様子はなかった。

 だからおれの意思を伝えておこうと思った。今度こそ揺るぎない決意を。

 それを聞いたカラスもどきは、この屋敷でおれたち二人だけにしてくれた。

 ま、ロイドくんはいるけど。世話係として。呼ばないと出てこないから二人きりには違いないかな。

 それにしても……。


「いつになったら起きるんだ……」


 早く話がしたいのに。

 話せば、終わりが近づいてくるだけだけど。

 頬杖をついたまま奴を眺めていて、ふと思って視界に入らなくなった自分の前髪を引っ張った。短くなかったから毛先が少し見えるぐらいだ。

 ここへ来た時、前髪が鬱陶しくなったなと思ってカラスもどきにハサミを借りて自分で切ったのだ。ついでに後ろも短くして全体的にさっぱりさせた。

 おれは自分で言うのも何だが手先が器用だから髪はいつも自分で切ってる。まあ美容室へ行くお金がないっていうのが最大の理由だけど。

 で、切った時にも思ったけど、おれの髪色は完全に黒に戻っていた。鏡を見せてもらった時に眼の色も確認した。ちょっと青みがかった黒。生来の色だ。あいつが最初に見たおれの姿。もうどこにもヴァンパイアの色素はない。少しだけ残念な気がしてしまった。


「いい加減、起きろよ~」


 おれは吐息して立ち上がる。何度目かわからない奴の顔を覗きに行く。

 大きなベッドの端に腰かけると手をついて身を乗り出す。ベッドが広いから中央に寝かされている奴の顔を見るには乗り上げないといけない。

 顔を跨いで手をつき正面から覗き込んで、すっかり元どおりになった綺麗な寝顔を眺める。

 額にかかる髪をそっと払い頬に指を滑らせる。滑らかな肌の感触が気持ちいい。ちょっと指先で押してみる。


「ふにふにしてる。男のくせにやわらかすぎだろ」


 しばらく突いて遊んでいたがそれも飽きてくると、次に眼がいくのは……。


「……まさか今回もキスしないと起きないとか?」


 今度は眠りの呪いか? ていうか、そもそも呪いをかけられたわけじゃなくて、自分で自分を追いつめて縛りつけてがんじがらめになって、暴発した結果……なんだよな。

 つまりおれのせい、か。


「おれが呪いをかけたようなもんかな……」


 おれは奴の上からいったん身体を起こすと、足もベッドに上げて奴の隣に寝転がる。自分の腕を枕にして眠る横顔を見つめる。


(なら、キスしても起きねえかもな……)


 おれはもうこいつの好きな血を持っていない。完全に薬が効いたのなら、こいつに取って美味だった血は何の魅力も持たない普通の血に変わってしまったのだ。キスの味だって美味くないかもしれない。


(変貌が解けたのは、単に時間切れだったかもしれないしな)


 おれは少し怖くなっていた。

 こいつにとってもうおれは餌としての魅力がない。所有権はなくなったし守る理由もなくなった。だから傍にいる必要もない。

 恋しているって言っても血の誘惑が前提にあったからだ。おれの見た目にも惹かれたとして、その想いは半減していないだろうか。

 目覚めた時、おれを見て気持ちが冷めてしまったりしないだろうか。


(あ~、でもそれはそれで好都合か。おれに興味を失くしてくれたほうが気が楽だもんな)


 そう思った途端、大きな溜息が出た。


(自分で思って傷ついてたら世話ないなあ)


 おれの、こいつへの気持ちは何も変わってないんだから、その瞬間を迎えるのは苦しいだろうな。わかってたことだけど。


(んなこと考えてたら、余計つらくなるな……)


 だったらやっぱり早く決着をつけるためにも起きてもらったほうがいいか。

 おれは自嘲気味に笑って身体を起こした。

 もう一度、奴に覆い被さり両手を顔の横についた。

 扇形に整った綺麗な睫毛を眺めながら、ゆっくりと顔を近づける。目を伏せて唇を押し当てる。柔らかな下唇の感触を味わうために食むように吸いつく。二三度啄ばんで顔を上げる。


「まだ起きねえの……?」


 小さく呟くと、気のせいか睫毛が震えて見えた。

 おれは自然と口角が上がるのを感じた。瞼にキスをして言う。


「早く目ぇ覚ませよ。起きておれに、おはようのキスしろよ」


 さっきまでぐるぐる悩んでいたのが嘘みたいに、今か今かと待つ。

 眉がピクリと動いた。ゆっくり上がった瞼から碧い瞳が覗く。薄く口が開いて吐息が零れる。碧い眼がおれを捉えた。

 おれは笑って挨拶した。


「おそよう」


 すると笑みに変わろうとした奴の表情が固まり、ぽかんと眼が丸くなる。


「お、おそ……?」


 しばらくぶりに声を出すせいか、少し擦れていた。おれはニッコリ笑んだまま応える。


「そ。遅いから“おそよう”。“おはよう”じゃねえわな」

「そう、なの?」


 困惑する奴に、おれは自分の唇を人差し指で叩く。


「ほら、挨拶のちゅーは?」

「あ、うん」


 奴は布団の中でもぞもぞ動くと、肘をついて身体を起こし始めた。少し動かしづらそうだ。変貌の後遺症なのか一日以上寝ていたせいなのか、上半身を起こすと、大きく息を吐いた。

 おれは手を貸そうとはせず、横で胡坐を掻いて様子を見ていた。


(……言われるまんま起きてるけど、キス、するつもりかな)


 自分で情けなく思った。さっき突きつけられる現実を受け止めようと決意したばかりなのに、その現実を目の当たりにして、こいつにもう以前みたいに想われていなかったらどうしようと怯えている。身体が震えそうで胡坐を組んだ足を必死に握っている手の感覚に思い知らされる。


(どうしよ……逃げたくなってきた)


 ところが、こっちを見た奴の顔は眩しそうに眼を細めて、笑った。

 両手が伸びてきて、右手はおれの左腕を引っ張り、左手はおれの右耳を覆うように頭を引き寄せた。

 そして、唇が触れた。

 触れたままで唇が動く。


「おそ、よう?」


 ちょっと語尾が上がってる。ほんとに合ってるのと言いたげだ。

 少し離して奴が笑うから、おれも笑えてきた。前と変わらない奴の表情に少し安心する。


「え、ちょっ?」


 途端に視界が傾いた。奴に肩を押されて身体が後ろへ倒れそうになるのを、咄嗟に右手をついて堪えたが奴が自分ごと圧し掛かってきたものだからそのまま倒れ込んでしまう。柔らかくて弾力のある高級ベッドのおかげで気持ちよく背中を受け止めてくれた。


「なんだよ、びっくりするじゃんか」


 ホッと息を吐いていると、奴がニコニコしながらおれの髪やら頬やらを触りまくってきた。


「ちょ、なになに、なにすんのっ」

「さっきのお返しするんだよ」

「お、おかえし?」


 何の話だと触ってくる手をのけようとしたが、奴は難なくおれの頭を固定するように両手で包みこむと、耳元に唇を寄せて呟いた。


「さっき、いっぱいキスしてくれたじゃん」

「えっ? おまえ、まさかっ」


 おれはそれ以上しゃべることができなかった。

 口づけられて、でもそれはすぐに離れて、その後は顔中にキスの嵐が吹き荒れた。


「ちょ、待てっ、おま、いつから、んっ」


 こいつ、まさかとっくに起きてたのかっ?

 少なくともおれがこいつを起こそうとキスしまくってたのを、しっかり気づいてたわけだ。いつの間に意識が戻ってたのか知らないけど、狸寝入りしてたとは! この根性わるっ!


「こらっ! もういい加減にっ」

「黙って」

「んっ、んんっ」


 キスが深くなった。吐息を漏らすまいと口を覆われ、中で舌が暴れ回っている。あちこち舐められておれの舌に絡んでくる。唾液が溜まって溢れそうになる。苦しくて奴の頭を掴んだら、やっと離れた。その拍子に唾液が口の端から流れる。それを舐め取ってまた角度を変えて塞いできた。


「ふ……っ」


 いつまで続くのやらわからないくらい、奴はおれの唇を貪った。おれはもうされるがまま、というか受け入れるのに必死で、だんだんと酔ったふうに頭がぼうっとしてきた。全身が熱くなってきて腰の辺りがむずむずする。


(まずい……このままだと……)


 おれは何とか手を動かして力なく奴の頬をぴたぴたと叩いた。

 すると素直に奴が離れた。ようやく解放されておれは自分が肩で息をするくらい呼吸が乱れていることに気づいた。

 見れば奴も息を弾ませている。おれを見下ろしている眼が熱っぽく潤んでいて、でも瞳の色は碧いまま。ただ眼の縁がうっすら赤らんでいる。興奮しているんだ、今のキスで。おれに欲情してる?


「なに、がっついてんだよ……病み上がりなんだから、急に興奮したりしたら、しんどいだろ……ていうか、おれも疲れた」

「……ごめん」


 神妙な顔になった奴に、おれは苦笑した。


「なあ」


 おれは奴の腕を掴んで起きようとする。


「ちょっと引っ張って」

「ん? ああ」


 引っ張ってくれた勢いで、そのまま奴の肩に頭を乗せる。


「……ちょっと話しよう」





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