4.
奴の父親の口調は静かだ。
「花嫁にすれば一緒に生きていける。なぜか我々はそう思い込んでいるようだ。誰が植えつけたか知れない世迷言に勝手に振り回されている」
「じゃあ、刻印を付けられた人間は遅かれ早かれ死んでしまうだけなのか……」
「君は稀にみる例外となるようだがな」
「え?」
「薬を飲んだだろう。最初に見た時と君の風貌が変わっている。君の中のヴァンパイアの血が消失して刻印が消えかかっているせいだ。じきに人間に戻れるだろう」
おれは風で揺れる自分の前髪を見つめる。もう毛先まで黒くなっている。今は自分で見ることはできないけど、たぶん瞳の色も黒く戻っているかもしれない。
最初の、あいつと出会った時のおれの本来の姿に。
「あれが説明したと思うが、あの薬は特殊だ。ヴァンパイア好みであった血をただの平凡な血へと変化させる。ヴァンパイアが興味を持たなくなれば二度と狙われることはない」
「え? 血、そのものが変わるのか? 狙われない働きがあるとかって言ってたけど……でもよくそんな都合のいい薬があるもんだな」
「そのとおりだ。だからそう簡単には手に入らない。また同じものが作れるかどうかも難しいだろうからな。だがもう、そんなものは必要ないように不毛な恋愛はしないことだ」
「不毛ね……」
だけどヴァンパイアは人間の血を吸って生きている。人間を惑わし虜にし餌とする。そんなおぞましい生態系の中でなぜ恋なんか生まれるんだろう。
理屈では図れない、思想や哲学では語れない、“想い”の芽生えと成長とその行方、そして結末。
頭で考えられるものじゃないよな。
「なあ、あんた、やっぱりなんかあったのかよ? あの薬のことけっこう詳しいし」
「そうだろうな。あれは私が作らせたものだ。君が飲んだのは私の部屋に保管されていた最後の一本だ」
「は? あんたが作らせたって……?」
おれは一瞬訊くのをためらったが止めることはできなかった。
「おれみたいに人間に戻したい人がいたってこと?」
おれはそっと父親を見上げた。どんな表情をしているのか見たかった。
彼の視線は怒りを放出させて苦しんでいる息子を見据えていた。その表情が少しだけ悲しそうに見えるのは、おれがそう感じたいだけなのか。
「君の想像どおり、私は人間の女を愛した。彼女を花嫁にしようとこの世界へ連れ帰った。彼女ももちろん同意して私と共に一生を過ごすと誓ってくれた。だが百日後、彼女は死んだ。ヴァンパイアに変貌するどころか、ヴァンパイアの血が彼女を蝕み、人間としての血はどんどん変質していった。死の直前、もう一度血を啜ってみたが、あんなに美味だった血がみるみる腐っていくのを味わったよ。その衝撃ときたら、さすがの私も気が動転したものだ」
「……それが真実なのか?」
「そうだ」
「そっか……」
おれは奴を見つめた。この距離じゃ手も声も全然届かない。苦しんでいるあいつに触れられない。
「困ったな……そんなの、あいつを守るどころか逆にひとりにして悲しませるだけじゃん」
「君にできることは、元居た世界に帰ることだけだ」
「あいつ、それ知ってるんだな。だから自分が人間になるなんて言ったんだ」
最初からおれたちの恋愛には何も希望はなかったんだ。
なのにあいつは、いっぱいいっぱい考えて足掻いて、おれのために、自分のために、幸せになろうって……。
「わかった。戻るよ。元の世界に帰る」
そう言ったおれを、奴の父親はたぶん人の世界へ連れて行くつもりで腰に手を回そうとしたんだろう。
けどその半瞬差で、おれはその手を振り切った。全力で屋根を駈け出す。
おれの突然の行動に奴の父親もカリンもすぐに動けなかったはずだ。
おれは一心不乱に走った。足場の悪い屋根に躓きながら後ろの二人が迫ってくるかもしれないなんて考えもせず、ただ、あいつの傍に行くためだけに走った。
もうすぐ屋根の先に辿り着く寸前、次に見える屋根まで到底飛び移れない距離だと知った。知っていたから呼んだ。
「カラスもどき!」
叫んだと同時に屋根の先を蹴りつけ、宙へ躍り出た。
浮遊感からの落下で、ゾッとする恐怖が背筋を這い上がる。
(落ちる―――!)
「まったく、君は!」
身体を受け止められる衝撃と同時にまた浮遊する感覚。
「なに無茶苦茶なことやってるんだ!」
身体が安定したことにホッと息をついて見上げれば、焦った顔のカラスもどき。
「おお~怒ってる。男前は怒ってもかっこいいな」
おれが思わず拍手していると、おでこに鋭い衝撃が走った。
「あたっ!」
まさかの頭突きをされた。おれを抱えてて両手が塞がっていたからって何も頭で叩かなくてもさぁ。きついツッコミにふてくされて睨んでいると今度は大きな溜息を吐かれた。
「……君ってタラシの才能があるよね」
「いきなりなんだよ」
「俺をちゃっかり巻き込んでるだろ。そういうところ、若に浮気者呼ばわりされてもしょうがないんじゃない?」
「なんでだ。単純に状況を読むのが上手いって話だろ。おまえはあいつを裏切らない。あいつの父親やカリンもあいつのためを思って行動してるけど、あいつの気持ちまで考えてないからな」
「俺は考えてるって?」
「まあ、あいつらよりはな」
奴はこいつの性質を冷静で冷酷だと言ってた。おれも最初は得体が知れない印象を持っていた。実際に仲間に対してさえ容赦なかったし。けど奴に対してはどこか遠慮があるというか、力とか立場を認めていた。おれのことも色々気を遣ってくれてたしな。だからこいつはおれの味方をしてくれるかなって思ったんだ。
カラスもどきはカリンたちから距離を取って、周辺の家々より数段高い塔のような建物の上に降りた。さっきと違って平らな屋根だから降ろされても足場がしっかりしているのはいいが、ちょっと高い。足が竦むほど高すぎるぞ、これは。
とてもじゃないが下が見れなくてカラスもどきの外套を掴んだまま放せない。
「大丈夫? そんなにくっつかれてると若にやきもち焼かれちゃうよ」
「んなこと言われても……おれ、あんまり高いとこ得意じゃねえんだよ」
「へえ、そうなんだ」
すると腰に手を回してきて自分に密着させるように引き寄せたものだから、おれは思わずその手を叩いた。
「いてっ」
「……その若さまだけど、こっち気づいてないんじゃね? おれのこと見えてないのかな?」
大きな翼をゆっくりはためかせながら宙に浮いたままだけど、肌の色は青光りしていて爪は鍵爪みたいに長く伸びてるし、その手で顔を覆って震えているように見える。
「なあ、あの身体の変化って怒って興奮したから? 落ち着いたら元に戻るのか?」
「わからん。あんな変貌の仕方初めて見るからな。落ち着かせたとして元に戻るかどうか……」
カラスもどきは難しい顔をして黙った。こいつがこんな顔をするなんてかなり戸惑ってるのか。
それならもうこれ以上考えても仕方ない。さっき思ったとおり行動あるのみだ。
「なあ、おれをあいつの傍まで連れてってくれない?」
するとカラスもどきは眼を瞠って反発した。
「冗談! あの状態の若に近づくなんて俺でも無理だ!」
「すげえ弱気だな」
「弱気にもなるさ……あそこまで追い込んじまったのは俺たちだ。近づけば攻撃される。もう許しちゃもらえないかもしれない」
カラスもどきの沈んだ声は、今の状況を正確に物語っているのかもしれない。
あの変貌は紛れもなくおれのせいだ。あいつの純粋な気持ちを砕いたせいだ。
だったら責任取らなきゃな。帰る前に、ちゃんと謝って、許してなんかもらえなくても、ちゃんとお別れくらい言わないと。
「カラスもどき」
「ん?」
「最後の頼みだから聞いて」
カラスもどきがおれを見返す。じっとおれの真意を探るように。
「……わかったよ。じゃこれは餞別な」
言うなり顎を掴まれたかと思うと唇を塞がれた。
(ちょ、こんな時になにして! おい、長い長い! いつまでくっつけてんの! ってか、舌、舌~っ!)
おれは相手の肩を叩いて押しのけようとしたけど、腰にがっしりと腕が回ってるし、息ができなくて口を開いたら今度は角度を変えてまたくっついてくる。
いい加減にしてくれと足をバタつかせたら、急に唇が離れたと同時に身体を抱え上げられて宙を飛んだ。
間近で怒声のような咆哮と強烈な風が身体を打った。眼の前を黒々とした翼が過ぎる。
あいつが、そこに、いた。
爛々と燃える炎みたいに真っ赤に染まった瞳を見開いて、顔中の血管がすべて浮き上ったかのような青い筋がいくつも走った肌と、口から飛び出た太くて長い牙をおれに向けている。
おれは思わず口元を手の甲で拭った。そしておれを抱えている男を振り仰ぐ。
「バカか、おまえ! 煽ってどうすんだ!」
「いいだろ、餞別くらい! ほら、あんたの最後の頼みだ!」
言うなり、カラスもどきはさらに上空へ飛びながら追ってくる奴に向かって、おれの身体を突き飛ばした。
(ったく! 傍へ連れて行けは言ったけど! 放り投げるか、普通~)
宙に晒されたおれは、落ちて行きながらあいつに向かって手を伸ばした。カラスもどきのキスに反応したのなら、ちゃんとおれが見えていたのなら、あんな姿になってもおれを受け止めてくれるはず。
目を瞠るあいつの顔が見える。奇怪な姿に変わっていても瞳の奥の揺らぎはおれを捉えている。
おれは声を上げようとした。
けど、なんて言えばいいのかわからなかった。
(こういう場合、名前呼ぶもんじゃないの? 名前呼んで抱き締めるんじゃないの?)
この時ばかりは名前を呼べない悔しさに歯噛みした。
悔しくて、悔しくて―――だから。
あいつの首に腕をまわしてしがみつくなり叫んだ。
「このバカッ!」
しがみついた身体は冷たくて硬かった。体温を感じない。以前抱き締めた時みたいに筋肉質な硬さとは違う。
「アホ、ボケ! ちゃんと名前教えとけよ、大マヌケ!」
文句を言っているうちに、やっと背中に腕がまわってきた。ぶら下がったままはちょっと辛かった。にしても、触り方がぎこちないな。デカイ爪のせいか。
おれは大きく息を吐いた。
「やっぱり呼びたい時に名前知らないのは不便だな。もう“縛る”とか関係ないんだから教えろよ」
耳元でくぐもった唸り声が聞こえる。変貌のせいで喋れないのだろうか。
「もうおれ、おまえの傍にいるんだからさ、元の姿に戻れよ。戻れるだろ? ……それともキスでもしなきゃだめなのかよ?」
俗にある話で、愛しい者の接吻で呪いが解けるというやつだ。
冗談っぽく言うと、奴の腕がもそもそと動き始め、おれの足を支えるように抱えなおすと顔を見合わせる形になった。顔つきは怖いままだけど、怒りが鎮まったのか眼力はヴァンパイアの普段バージョンと同じ感じがした。
(……あ、そう。しろっての。ったく、こいつは~)
おれは半目になって呆れたが、そんなことで元に戻れるなら躊躇することじゃない。
冷たい頬に手を添えて首を傾ける。牙が痛そうだから当たらないように唇を押しあてた。
ちゅっと小さな音が鳴るくらいの軽いキスを、口だけじゃなくて頬も鼻もこめかみも瞼もおでこも、顔中のあちこちにキスの雨を降らせてやる。
元の優しい笑顔に戻ってくれと祈りながら……。
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