5.



(やっぱり喰われちまうのか……)


 ぼんやりと思いながら、おれはベッドに座ったまま奴を見つめた。

 結局おれたちは存在する世界が違う生き物で、けっして相容れることはできないんだ。

 どんなに相手を大切に想っても、どんなに相手を愛しく想っても、どんなに好きになっても、本能には敵わない。悲しいけど。

 そんなことを考えている間に、おれは本能を剥き出しにした奴に突き倒され、圧し掛かられて、思わず息を詰めてしまう。

 押さえつけられている肩に痛みを感じながら、一息吐き出して力を抜いた。

 奴の荒々しい息遣いが近づいてくる。

 艶光りした牙が極上の血を前に興奮して見えるなんて、おれの錯覚だろうか。

 目を逸らすことなく奴を見ていた。

 おかげで一部始終を目撃してしまった。

 今まさに、奴がおれに喰らいつこうとした瞬間である。

 奴の後ろに影が現れ、おれの身体に何かが触れたと感じた途端、影が奴と接触した。

 激しい音とともに奴の身体が傾いで、おれの脇に手をついたと同時におれの身体が後ろへ引っ張り出された。

 反対側のベッド脇に降ろされたおれはロイドくんの包帯が身体から離れていくのを見た。


「ロイドくん?」


 するとロイドくんは申し訳なさそうに頭を垂れている、ように見えたんだけど、どういう意味からだろう。


「貴様……」


 奴の口から漏れた言葉。

 見ればベッドの上で後頭部を押さえてうずくまっている。

 その後ろで奴を冷たく見下ろしているのはカラスもどきだ。

 あいつが奴の頭を思いきりぶん殴ったわけだ。


「まったく、猿芝居もいいところですよ」

「いってーなっ! 何しやがる!」


 振り向き、怒鳴った奴の感じが変わってる、というかさっきまでの禍々しい空気がなくなって、今までのおれがよく知っている、ちょっとマヌケで優しい奴になっていた。


「……なんなんだよ? いったい」


 茫然と突っ立っているおれに、カラスもどきが苦笑を漏らした。


「ほんとに、君はいい迷惑ばかりかけられてるよね。この人の我儘のせいでさ。だから早く俺のものになっとけばよかったのに」

「調子に乗ってんじゃ」

「おまえ、ちょっと黙ってろ」

「え?」


 奴の言葉を遮ったおれを、きょとんとした顔で見返してきた。

 すっかり元通りの奴を見て、さっきの猛獣ぶりが芝居だったことがわかる。


「カラスもどきさぁ、今、猿芝居って言ったよな? どういう意味だ、それ」


 何だか知らないけど胃のあたりがムカムカしてくる。

 どうやらおれは怒りを感じているらしい。


「このバカは、おれに内緒でなにをやらかすつもりだったんだ?」


 そうだ。こいつはおれに話していないことがある。

 おれを元に戻す方法は本当に薬を飲むだけで済むのか。

 他に何かを伴い、何かを引き換えにする可能性があるんじゃないのか。

 それを奴はおれに内緒で勝手に実行しようとしている。

 カラスもどきが阻止したいのは、おれが薬を飲むことじゃなくて、奴がやろうとしていることなんじゃないのか。


「洗いざらい吐いてくれねえか」


 おれの強い口調にカラスもどきが同意して頷いた。


「いいとも。君だって当事者なんだから」

「おい!」


 奴が勢いよくカラスもどきの胸倉を掴み上げた。

 しかしカラスもどきは怯むことなく奴を睨み返す。


「花嫁に隠し通した結果がどうなったか、すでにあなたのお父上が一つのパターンを実証済みでしょう。彼をご覧なさい。もう浄化は始まっています。あなたはすでに違う可能性を手に入れている。この上さらに無謀な行いをするつもりですか」

「……おまえはそんなに口が軽かったか? 人選を誤ったな」

「もう一度考え直してくださいと言ってるんです」

「何を今更。おまえも賛成しただろう。協力すると言っておいて裏切るのか」


 奴がイライラしている。

 めずらしいこともあるもんだ。

 おれの知らない奴の姿はまだまだたくさんあると思う。

 それが当然だし、奴がおれを元通りに戻すために何をしようと、おれは結果さえ良ければ気にする必要はないのだ。

 金輪際、奴と関わることはないのだから、奴のさまざまな表情や口振りや癖や考え方や、そんな何もかもを知らなくていい。

 なのに。だけど。

 胸のムカムカは治まらない。

 奴がおれに黙って何かしようとしていることに腹を立てている。

 それが十中八九、誰にとっても良くない結果が生まれるだろうと予感しているからだ。


「そんなの許さねえから」

「え?」


 おれの呟きに奴がまた振り返る。


(なんか、いちいちおれの反応を気にしてるよな。おれに知られたり勘づかれたりするのが怖いってか)


「ほら、花嫁がお怒りですよ。あなたのせいで」


 カラスもどきが茶化して言う。


「その通りだ。ちゃんと説明しろ。おまえなにをやらかすつもりなんだ? おれを元に戻すのって薬飲むほかになにかあんの? もう飲んじゃってるから手遅れなんじゃねって頭を過ぎってるけど。おかげで全然気持ちが落ち着かねえじゃん。どうしてくれんだよ」

「ほらほら大変ご立腹じゃないですか。では俺からご説明しましょうかね」


 またまた茶化してくるカラスもどきを、奴はすばやくデコピンを食らわして黙らせると、ふわりと一気にベッドを飛び越えてきた。

 音もなく華麗におれの前に降り立った奴は、困ったふうに首を傾げて苦笑をこぼした。

 おれもつられて力なく笑った。


「……おまえと出会ってから何日になるのかわかんねえけど、一緒にいた時間が濃すぎて離れ離れになるとか、なんかもうピンと来ない」

「……オレもそう思う」

「なのに、おまえはなにしようとしてる?」

「一つだけ言っとく」

「一つで説明できんのか?」

「うん。できる」

「んじゃ、言ってみろよ」

「オレを信じて」

「…………それだけ?」

「それだけです」

「ほんとにそれで、おれにとっても、おまえにとっても、幸せな状況になれるって約束できんの?」

「うん。できる」

「………………」

「何? 信じてくれないの?」


 奴はちゃんとおれを見て話してくれてる。信じたいのは山々だけど、こいつはきっと何かを隠している。おれに知られたくない何かを。

 黙り込んだおれをどう思ったのか、奴は観念したように話し始めた。


「オレね、けっこう欲深いんだ。目の前に二つ好きなものがあったとしたら二つとも欲しいと思うわけ。どっちか一つなんて選びたくないし、片方を諦めたくもないの。だから、できる限り両方得られるように努力する。すごい頑張りがいがあるでしょ?」

「うん。その意見は賛成。おれもよっぽどの事情がない限り、両方欲しいって思うな。ただ誰かを陥れたり傷つけたりしなきゃ手に入らないんなら諦めるけど。そこまでして自分の物にしたって喜べないと思うし」


 すると奴は腕を組んで考え込む。


「う~ん、そっか。じゃこれってある意味、傷つけることになる、かな?」

「“これ”っていうのは、今の状況のこと?」

「うん、そう」


 そこへデコピンから立ち直ったカラスもどきが割り込んできた。


「傷つけるどころか、夢も希望もなくなってしまいますよ。あなたは我々を見捨てようとしてるんですから」

「あ、やな言い方」


 奴がカラスもどきを睨む。

 カラスもどきも負けじと睨み返している。こいつがやろうとしていることは彼ら一族にとって余程重大な問題なのだろうか。


「もう話はついたはずだぞ。今更グダクダ言うなよ」

「言います! 言わずにいられますかっての! 我々はあなたを失いたくないんです! 何故それがわからないんですか!」

「何でそんなにオレに固執するんだ? オレはそこがわからない」

「だーかーら! 散々説明したでしょ! 鈍い人だなぁ、ほんとに」


 カラスもどきは憤然と腕を組んでイライラしている。


(なんか本気で怒ってそうだな。それに聞き捨てならない言葉が出まくってるんだけど)


「なあ、見捨てるとか、失うとかってなに? おまえまさか家出でもすんの? んで、おれと一緒に人間の世界に来るとか?」


 そんなことをして家の人たち、あの豪華絢爛をしょってる冷酷な父親とかに勘当されるならまだいいが、追いかけられてボコボコにされたりとかしないだろうか。


「……何かすごいこと考えてない? ここのシワすごいよ?」


 考え込んでいたおれは眉間を突かれて顔を上げた。

 面白そうに見ている笑顔がそこにあった。

 いつもこいつはおれを安心させようと笑ってみせる。自分よりもおれのことを一番に考えてくれてる。それならおれもいい加減こいつのためにできることを考えなきゃ駄目だろう。

 たとえ離れ離れになるとしても。


「なあ、カラスもどき」

「さっきからその“カラスもどき”っていうのは俺のこと? 何かやだな。名前で呼んでよ。教えるから」

「いいよ。そんで名前教えてもらったら、おれって今からでもおまえの物になれる?」


 突然のおれの提案に二人がそれぞれ対照的な反応を見せた。

 たちまち喜色を浮かべたカラスもどきと、驚愕に目を瞠っておれを凝視する奴。


「なれるなれる!」

「何言ってんの!?」


 かなり衝撃を受けたのか、二の句を告げない奴に、おれは冷静に答えてみせた。


「おれが元に戻ることで、おまえが大変な目に遭うのはおれとしては非常に心苦しいんだよ。いくらおまえのせいでこんな状態になったんだとしても、その責任をおまえ自身の、地位とか立場とか、たとえば考えたくないけど命とかっていうんだったら、おれは全然嬉しくない。元に戻って前みたいになにもなかったように暮らせるわけない、絶対。だったらもうおれここにいる。ひっじょーに不本意やけど、しょうがない。おまえの花嫁がまずいなら、カラスもどきの花嫁になって静かに余生を送ることにする」

「何、なにを、言ってんだよ……」


 完璧に放心状態になっている奴は頭を押さえて茫然と呟いた。

 おれはその手を取り、自分の首筋に当てた。こいつが咬んだところに。


「それとも、いっそおれを喰っちまえよ。喰らって、おまえのものにしてしまえよ」


 脈打つ鼓動が、おれの想いとともに届けばいい。

 おれの心はすでにおまえに奪われているのだと。


「好きだよ」

「え?」


 まっすぐに碧い瞳を見つめて言った。


「おれは、おまえが好きだ」





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