4.



 部屋の空気が妙に乾いている気がする。

 何故なら喉がひりつくほど水分を欲しがっているから。

 やたらと唾液を飲み込み、舌が唇を舐めて、何とか渇きを癒そうとしている。

 この変化は一体……。


「大丈夫。薬を飲めば全部元通りなる」


 奴が微笑みながらそう言った。


「髪や眼の色が変わって、外見的な変化の次はやっぱり内側、つまり体質もヴァンパイアに染まっていくから、血が欲しくなるのは当然なんだ。でも心配ない。ちゃんとその症状も治るから、って自分で病気みたいな言い方しちゃったな」


 奴はちょろっと舌を出してはにかんだ。

 そんな奴を見てか、おれはゆるゆると息を吐き出して身体の力を抜いた。


「なんか、すごいあせった。自分が自分じゃなくなるっていうか、自分の行動に恐ろしくなった。おれ、ヴァンパイア向いてないと思う。人を襲うって行為が恐ろしいもん」


 ヴァンパイアである奴の前で、こんなことを言うのは恥ずかしいし、ある意味失礼だが、自分がこんなにも人間じゃない異形の生き物に対して恐怖していたとは思わなかった。

 こいつを知って少しは理解、いや質は違っても同じ生き物だと錯覚した上に、奴の性格に親しみを感じて一緒にいても平気だと思い込んでいたのだ。


(おれはこいつこと、ちゃんとは知らなかったんだな……。知ってる気になってただけだなんて情けないな)


 無性に切なくなってきたおれは胸を押さえて、ギュッと眼を閉じた。

 涙があふれてきそうになる。


「どうした? どこか苦しい?」


 心配そうな声音に、おれは鼻をすすって呟いた。


「大丈夫。喉渇いてたの、涙を我慢してたら平気になった。それより自分のアホさ加減に情けなくなってさ」


 おれは溜息をついて顔を上げた。

 奴が不安そうに見ている。

 確かにおれは順応性があるかもしれない。

 今までの生活の中でも、一風変わった人間や出来事に興味を持ち、少数派の意見や行動に惹かれていた。芸術面にしてもそうだ。絵を描く時、周りとは違った視点で景色を捉え、自分の感性のまま筆を走らせるのが好きだった。

 だからヴァンパイアなんて異界の生き物に遭遇しても狂わずにこいつの傍にいられた。

 でもそれ以上に、このヴァンパイアは優しかった。

 整った顔立ちと涼しげな目元は一見すると綺麗すぎて近寄りがたく感じるけど、笑うと目尻にシワができるし、頬が緩むとやわらかな印象になるし、サラサラの金髪はいつも軽やかに揺れている。

 ヴァンパイアの異質な空気が、こいつの持つ雰囲気に覆われて怖さを感じなくしてしまう。

 こいつだから、おれは一緒にいられる。

 好きに、なれる。


「困った……」

「どうした? もうすぐ薬が届くから大丈夫だよ。あんまり喉が渇くようならワイン飲む? 果実酒って、いわゆる実りという生命から作られたものだから栄養って意味で血液の代用品になるんだ。きみはお酒が得意じゃないみたいだけど、少しなら平気だったよね?」


 おれを気遣うように早口で捲くし立てると、奴はベッドから腰を浮かせた。

 腹を押さえ、痛みに少し顔を歪ませているのを見つめて、おれは迷っていながら、その実、確信がそこにあることに気づいてしまった。


(おれって案外、現実主義なのかもな。だから目を背けることができない。ちゃんと受け止めなきゃだめだって思ってしまう……)


「なあ」

「ん?」


 ベッドから降りた奴が振り向き、おれをまっすぐ見つめている。

 おれは笑顔で言った。


「おまえの名前、教えてくれへん?」


 驚きに目を瞠ったあいつは何を思っただろう。

 最後に名前を呼びたかったんだ。

 そして、あいつにおれの名前を呼んでほしいと思った。

 人間とかヴァンパイアだとか関係なく、別れる前に一度だけ呼び合ってみたかったんだ。

 だけど事態は急変し、やっと芽生えた淡い想いは叶わなくなってしまった。


「旦那さま、申し訳ありません。察知されていたようです。気配が、こちらに向かってまいります」


 突如、床から声とともに白い布が飛び出してきて、瞬く間に人型が形成されると、奴の使役であるロイドくんが現れた。

 奴は途端に厳しい表情になる。


「誰?」

「ジルベスターの若君かと」

「そうか。やっぱりあいつが出てくるのか」


 奴の得心顔に、おれは慌てて問い質した。


「なに? あいつって?」

「君が言う“カラスもどき”のことさ」

「カラスもどきがこっちに来るって、ロイドくんを追ってきたわけ?」

「ロイ、薬は?」


 奴はおれの問いを聞き流してロイドくんに鋭く言った。


「こちらに」


 ロイドくんは、どこから取り出したのか小瓶を恭しく奴の前に捧げた。

 奴は受け取るなり、すぐさまおれに差し出してきた。


「早く、これを飲んで」

「え? いきなりかよ」


 おれは勢いに押されて思わず手に取ってしまったものの、クリスタルガラスで出来た小瓶から薄っすら見える液体に眼が離せなくなった。

 黄色というか、琥珀色っぽい色味がついている。

 不気味な色じゃなくて安心したが、すぐに飲んでしまうには躊躇われた。

 だが、奴はそんなおれを急かせた。


「早く飲まないと、あいつが邪魔しに来る。それを奪われたら二度のチャンスはないと思ってくれ」

「なに、そんなに貴重な薬なのか、これ?」


 真剣な表情で頷いた奴は、ロイドくんに鋭く言い放った。


「できる限り奴を食い止めろ」


 そしておれに向き直ると、おれの腕を掴んで引っ張り上げた。


「大丈夫だから早く飲んで! 君が元の姿に戻るにはそれを飲むしかないんだから。オレを信じろ!」


 力強い言い方に一瞬気圧されてしまったおれは、次に苦笑がこぼれた。


「おまえがそんな言い方すんの、おれが火傷させた時以来だな。おまえって怒ると迫力あるなぁ」

「なに呑気なこと言ってんの」


 奴は脱力したのか引き締まっていた表情が崩れた。

 おれは自然と自分が微笑んでいるのを感じた。

 もう躊躇する気持ちはなかった。

 小瓶の蓋を開け、一気に口に流し込む。

 何の味も感じないまま喉を通り、胃に落ちていく感覚を確認した。

 おれがほっと息をつくのを見て、奴が再度おれを促す。


「よし。薬が身体に浸透するまで、落ち着く場所へ移動しよう」

「待て待て待てぇいっ!!」


 そこへド派手な音を立てて扉を打ち破ったカラスもどきが飛び込んできた。


「そう簡単に薬を飲まれるわけにいかないんでね。邪魔させてもらうよ!」


 バサッと黒い外套を跳ね上げて、華麗に登場したかに見えるカラスもどきだったが、おれは今の台詞にズレを感じて状況を正しく教えてやった。


「薬だったら、もう飲んじゃったよ」

「は?」


 動きを止めたカラスもどきに向かって、おれは空になった小瓶を振ってやる。

 すると相手は眼を丸くして叫んだ。


「嘘! もう飲んだのか!?」

「うん」

「ええ――――っ!?」


 頬に両手を添えて驚愕に顔が伸びているカラスもどきは、まるで喜劇役者に見える。


(確かこいつシリアスでキザなキャラだったよなぁ)


 おれが首を傾げていると、傍らに立っていた奴が口を開いた。

 今までに聞いたことのない低く冷たい声音は一気に緊迫感を呼んだ。


「残念だったな。彼はもうただの人間だ。我々の美味たる血肉を持たない“ごく普通の人間”になったんだ。おまえたちの思惑は潰えた。帰って長老たちに伝えるがいい。父を超えるヴァンパイアを造りあげようなどと夢のまた夢だとな」


 そう言ってカラスもどきに鋭い視線を送っている奴の瞳は真紅に変貌している。

 対する相手もさっきまでのふざけた空気を霧散して、禍々しい気配を放出させていた。


「あなたは、それほどまでにお父上を心酔していらっしゃいましたかね?」

「別に。あの人に特に思うことは何もない。オレが眠りから覚めた時にはもう、あの人は長に君臨していた。それを決めたのは前長だったグランヴィークス侯爵をはじめ、元老院のじいさんたちだろう? あの人をどうにかしたかったら自分たちで何とかすればいい。勝手にオレを巻き込むのはやめてもらいたいな」

「若、その長老たちが何故あなたを擁立しようとするのか理由がわからないわけではないでしょう? グランヴィークス侯爵自ら称号をいただくヴァンパイアなんて、あなた以外に存在しないんです。現長のあなたのお父上、リーベシェラン伯爵でさえ直々に称号をいただいてはいない。長をも凌駕するヴァンパイアとしての資質の高さが一族だけじゃない、この世界の頂点に立つべき者として期待されているんです。そんなあなたが“ただの人間”に現を抜かしている場合じゃないと長老たちがやきもきするのは当然なんです」


 カラスもどきの力説に奴は大きな溜息をついた。


(なんか知らんけど、変な方向に話が行ってないか? つまりこれお家騒動なんちゃうん? なんでそんな話になってんの?)


 おれはベッドに胡坐を掻いた格好で首を傾げた。

 カラスもどきがここに現れた理由はおれに薬を飲ませないことじゃなかったのか?

 すでに飲んでしまってはいるけど。

 そもそもあいつの目的は、奴が喰わずにいるという人間に興味を示したヴァンパイアの上級貴族に命令されておれを見に来たわけで、その時に奴に忠告をしていたものの、だからっておれをどうにかする感じじゃなかった。

 あいつ自身が知る“若様”にあるまじき行動を目の当たりにして、奴が何を考えているのか面白半分に探っているという印象だった。

 しかし今の話だと、人間を囲うことは奴の立場上、戯れでは済まされないどころか、奴がヴァンパイアの長である父親を超えて、世界の頂点?となるためには、人間のおれの存在が厄介なことになっていないか?

 何だか非常に怪しい雲行きである。

 おれは睨み合いになっている二人に言った。


「あのさぁ、またおれには訳わかんない話を言い合いしてくれて、そんなシリアスな空気作らないでくんね?」


 すると、カラスもどきが明らかに安堵した溜息とともに身体の力を抜いたのがわかった。

 そして奴のほうはどうしてだかおれから顔を背けた格好で視線を落としている。


「なんか変じゃね。一体どういう展開になってんの? おれが人間に戻ることによって、なんか新たな問題が出てくるとかそういうの?」


 おれは二人を交互に見比べていたが、答えたのはカラスもどきだった。

 おれを見返す眼から真紅の光が消え失せ、優しい表情になる。


「そもそも一度変貌させた人間を元に戻すという行為自体がまずいんだ。そのために使用する薬は血液から採取したものでね。その血液というのが」

「そこまでだ」


 突然、奴が遮った。

 くるりとおれに向き直り歩み寄ってくる。

 伏せ眼がちにおれを見ないで近づいてくる姿は、おれを緊張させた。

 だがおれはじっと動かなかった。

 ベッド際に立った奴を見つめ返す。

 わずかに顔を上げた奴の瞳がおれを見た。

 それは妖しく真っ赤に艶めいて薄っすらと微笑んでいる。


「若! やめろ!」


 叫んだのは、カラスもどき。

 眼の前で一気に脹らんだ、昏く禍々しい空気がおれに襲い掛かる。


「浄化が始まる前に、喰らう」


 ギラギラと輝く牙を剥き出して変貌していく姿を、おれはただ静かに見つめていた。





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