3.



「ロイ。例のところへ薬を取りに行ってきてくれ」

「御意」


 包帯男のロイドくんは、かしずいてお辞儀をすると、この間のように人の形を解いて長い包帯を床に沈めて消えた。


「ロイドくんは一人で大丈夫なのか? カリンみたいにならない?」


 おれは小難しい顔で床を見つめた。


「たぶん大丈夫」

「たぶんってさぁ」


 曖昧な返答に振り向くと、奴もまた顔を歪ませていた。

 こいつの場合は身体の具合でだ。


「さすがに腹ん中をかきまわされるのは気持ち悪いな。痛みよりその感覚のほうがこたえる」

「そういう問題かよ。ヴァンパイアってほんと容赦ない。いくら死なないからって、惨すぎんだろ」


 おれは自分がされたみたいに顔をしかめて腹を押さえた。

 本当に吐き気がする。

 おれたちはあの広々とした部屋から、客間だという部屋の一つに移動した。

 おれより少し背が高いだけの体格の変わらない男を抱え上げるのは大変だったが、奴が呼び出したロイドくんに案内してもらいながら何とか運び込むことができた。

 おれに抱えられた奴は最初焦って「ロイに運ばせるから」と、もがいたが、おれは聞き入れなかった。

 血で真っ赤に染まったシャツを、これまた抵抗されたが、おれが着替えさせてやると、今では大人しく豪華で大きなベッドに横たわっている。

 さっきまで苦しげな表情をしていたが、回復しつつあるのか、軽く眼を閉じて穏やかな呼吸を繰り返していた。

 おれも傍らの椅子に腰掛けて背中を預けていると随分落ち着いてきた。

 でも、こいつが右手を添えているお腹の部分を見てしまうと、途端にさっきの光景が蘇ってきて胸くそ悪くなるのだった。

 そんなおれの心中を知ってか知らずか、奴は気遣わしげに言った。


「いやなところを見せてごめんな。気分が良くなるまで君も横になったら? そこのソファでもいいし、何なら隣でもいいよ。広~いから充分寝られる」

「……おまえって、そんな状態でも冗談をいう元気はあるのかよ」

「楽しいでしょ?」

「楽しくねえっ」


 くすくす笑う奴に、おれは呆れ顔を隠しもせず盛大な溜息をついた。奴がいつもの口調になってホッとしたのだ。


「……なあ、カリンてさ、おまえ付きになってたんじゃねえの?」

「一応オレと再契約はしてたんだけどね。やっぱり創生者としてのあの人との絆は強いと思う。ただ、父さんが今頃カリンを必要になる理由がちょっとわからない。あの人に従う使役は他にもいるし、普段から使役を傍につけてることがあんまりないからなぁ。一人で何でもできちゃう人だし」

「ふーん。じゃ、まだ蘇生しきってないカリンをわざわざ腹から引きずり出してまで必要になった理由がなんかあるってこと?」

「か、もしくは単なる嫌がらせか」

「はあ?」


 おれはヴァンパイアの親子関係が理解できなくて脱力した。

 こいつの心配をするのもアホらしくなってくる。

 すると苦笑していた奴が、ふと真顔になった。ベッドの天蓋を見据えて呟く。


「女性に対して百戦錬磨に見える人だけど、あの人は人間の女性を花嫁にしたことは一度もないんだ。恋の相手というか情を交わしたのは、オレの母親も含めてみんな“魔”の住人の純粋なヴァンパイアだけで、人間の女性は食べるためだけに誘惑してたらしい。でも一人だけ、人間を花嫁として変化させるために連れ帰ったそうなんだけど……」

「花嫁にできなかったってこと?」

「うん」

「その理由ってかなりえぐい?」

「うん。だね。えぐいかも」


 ということは“悲劇”だったのかもしれない。

 しかし奴の父親にそんな過去があったとして、カリンを取り返したことが奴に何かを警告しているのか?

 おれの存在を見逃して奴の行動を黙認しているとしても、その真意を見抜くことはできないし、惑わされたくないと思う。

 おれはおれの意志で行動するだけだから。こいつとの関係をどうするか、この先どう生きるかも。

 おれは立ち上がって奴を見下ろした。

 神妙な面持ちになっている奴の額に軽くデコピンを食らわせてやる。


「あたっ」

「理由は聞かないでおく。おまえの親父になにがあったとしても、今のおれたちには関係ない。おまえがどうしたいかで、おれがどうしたいかっていう、それだけのことだ」

「うん」


 奴は額を押さえながらはにかむと、両手をおれに差し出してきた。

 おれが首を傾げたら、一言。


「起こして」


 おれはたちまち眇めた目で奴を見返したが、なおも両手を振って要求してくる。

 甘えているのはわかっているから突っぱねてもよかったが、怪我人だし大人気ない気もしたので素直にその手をつかんでやった。


「しょーがねえなぁ」


 よいせと引っ張り上げてやる。


「あたたた」


 上半身を起こすということはお腹に力が入るわけで、奴は顔をしかめて呻いた。


「大丈夫か?」


 おれはベッドに腰を下ろして奴の顔を覗き込んだ。

 頷いた奴は、ほっと息を吐き出して視線を上げる。

 碧い瞳と目が合った。

 こいつの瞳は色も綺麗だけど、潤んで揺らぐさまが視線を穏やかにしていると思う。

 おれを見る時はいつもそう。

 海が凪ぐように静かで安心感をもたらせてくれる。

 おれは自然と笑みを浮かべていたのだろう。奴の瞳も細くなってますます優しい表情を作る。


「アメジストか……綺麗だけど、やっぱり元の黒い瞳がいいな。この髪も、君は黒いほうが似合ってる」


 そう言いながら髪に触れてくるのを、おれは止めなかった。


「やっぱ生来の姿がそいつ自身を表してんだろ。おれもこの色、嫌いじゃないけど、おれらしさは元々の色で、あとは形とか身につけるもので個性を出すほうがいいかな」

「名残惜しいけどね」


 奴は一房をつまんで小さく引っ張るのを繰り返し始めた。


「こら」


 犬がじゃれているみたいだったが今度は止めさせるつもりで手を上げた。ところが自分でも驚く行動に出てしまった。

 おれは髪をつかんでいた奴の手を掴んで髪から放すと、そのまま顔を寄せて、ちょんっと唇に触れた。

 すぐに離れて奴を見れば、眼をまんまるに見開いているから思わず笑ってしまう。


「なんだよ? そのびっくり目は」

「そ、そりゃ、びっくりするよ!」

「おまえがいつも不意打ちでやってることじゃん」

「だって……」


 戸惑う奴を見て笑うと、今度は向こうが手首を掴んできて引き寄せられる。

 抱きしめられる格好になり、「おお、逆襲が来たか?」と、次に何が来てもいいように心構えをしたが、何となくふざけているのじゃないと感じた。

 表情は見えないが、左肩の重みと背中に触れる腕、そして沈黙がこいつの心を見せていた。

 やがて奴が口を開く。


「薬が届いたら、すぐにあっちに戻ろう。それから身体を元の姿に戻して、部屋を探して、また学校やバイトに行けるようにする」

「うん」

「色々と大変な目に遭わせちゃったけど、もう二度と襲われることはないから安心して。君の生活は平穏を取り戻すよ」

「うん」

「そういえば学校で絵を習ってるんだよね?」

「うん」

「じゃあ将来は画家になるんだ?」

「うん」

「そっか。一度、君が描いた絵を見たかったな」

「うん」

「“うん”ばっか。違うことしゃべってよ」


 声に笑いが含まれている。

 このあたたかい空気を壊したくなかったが、おれは奴が避けていることに矛先を向けた。


「おまえは?」

「え?」

「おれが元の姿に戻ったら、おまえはどうすんの?」

「そりゃあ、オレもいつもと変わらず……こっちの世界で暮らして、たまに人の世界に出てきて」

「喰いもの探しに?」

「見も蓋もないこと言うなよ」

「おれとは二度と逢わねえの?」

「え?」

「二度と逢わない?」


 少し間が空いた。


「……わからない」

「わかんねえのかよ」


 背中に置かれた手に、力がこもったかに思えた。

 おれは目を閉じて軽く吐息すると、シーツに置きっぱなしにしていた両手を上げた。

 そっと奴の背中を包み込む。

 その瞬間に震えたのを感じて、ぽんぽんと撫でてやる。

 赤ん坊をあやすように、しばらく撫で続けた。

 そうしていると自分の気持ちがはっきり見えてくるのがわかった。


(おれ、こいつのこと好きだ。好きになってる)


 金髪に唇を寄せてみる。

 さらっとした感触と、洗髪料の香りだろうか。

 いやもっと芳しく、うっとりするくらい豊潤で欲求を覚えるほどに恍惚としそうだ。

 さらに顔を埋めて心地よくなっていたおれは、奴の動揺にまったく気づかなかった。


「ええっと、あの~、これ、ちょっとマズくない?」

「ん? なにが?」

「いや、だから、あの、君、首っ、く、唇が首にっ」

「んあ? 首?」


 眼を開けたおれは、はたと気づいた。


(おれ、今なにやってた?)


 奴の首筋が目に入り、またしても心拍数が上がった自分を感じて、おれはまさかと思った。


(おれ、今、こいつの首に唇を這わせてた?)


 まさか。

 自覚した途端、喉の渇きに襲われて慌てて首を押さえ奴の身体を離した。

 おれは茫然と奴の顔を凝視する。


「なにこれ? おれ、まさか、おまえに咬みつこうとしたのか?」


 奴は無言で頷いた。

 その瞳は切なげに揺らめいて、困惑したおれの表情を映していたのだった。





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