6.
昨夜の夕食後に、奴は人間の住む世界とは異なる“魔の世界”へ行こうと、おれを誘った。
だけどおれは、この姿を元に戻して、ヴァンパイアと縁が切れる方法が、そこにあると聞かされても、ずっと抵抗をし続けていた。
抱えたクッションに顎を乗せ、隣で優雅にワインなど飲んでいる奴を睨みつけながら言った。
「なんでおれまで“魔の世界”に行かなきゃなんねえの? おまえが行って、その薬を取ってきたらいい話じゃん」
だが奴は、一向に取り合わないおれに対し懸命に説得を試みたわけでなく、涼しげな顔でのたまった。
「それでもいいけどさ。オレが向こうに行っちゃうと、君がここに一人取り残されちゃうじゃない」
「別に一人で平気だよ。子供じゃあるまいし」
まったく、いったい何年一人で生きてきたと思ってる。
あんまり思い出したくない過去だが、おれは子供の頃から親元を離れて暮らしてきた。一人はもう慣れっこだ。寂しいなんて思う時期はとっくに過ぎてしまった。今じゃ逆に一人の時間が欲しいくらいだ。こいつに出会ってから慌しい日々が続いて、ゆっくり絵を描くことができないばかりか、まともに生活することすらできなくなった。異界の生き物と関わって命の危険に曝される事態から早く解放されたい。
(あ~、本格的に絵が描きたくなってきた)
右手がわきわきするのを感じながら物思いに耽っていると、奴の指がおれの額を突ついてきた。
「なに?」
不機嫌そうに言うと、顔を覗き込んでいた奴が苦笑しながら手を引っ込める。
「そんな怒んなくたっていいじゃん。あのさ、君を一人にして何故まずいかってわかんない?」
「なんでまずいの?」
本気で思い当たらなくて首を傾げていると、奴は呆れた声を上げた。
「君さぁ、ヴァンパイアたちから狙われてるって自覚あるの? オレが傍にいるから近寄って来られないだけで、オレが離れると、またどこから現れてくるかわからないよ? 今頃、あいつが報告に行ってるだろうしね……。基本的に人間はヴァンパイアに敵わない。人間よりも身体能力が上回っているからさ。今度は肩を怪我するだけじゃ済まないよ」
脅しではなく事実を述べた奴に、おれは最初ムカついて顔をしかめたが、文句を言う気力もなく重い溜息しか出てこなかった。
こいつが言うように敵わないことは身をもって知っているだけに空しいばかりだ。
黙り込んでしまったおれをどう思ったのか、奴の声音が優しくなる。
「ほんとはさ、オレとしても“魔の世界”に連れて行くのは得策じゃないと思ってるんだ。向こうに行ったら当然注目の的になって、周囲がうるさく騒ぎ立てるだろうから。でもオレが傍にいる限りは連中に手出しさせないし、必ずここに戻れるようにする。どっちに居ようと君の傍を離れるのはすごく不安なんだ。今の君はヴァンパイアにとって魅力的すぎるからね」
そう言って見つめてくる奴の視線が妙に熱っぽくて、おれは内心ドキリとした。
ヴァンパイアにとって、本来なら“餌”であるはずの人間が何の拍子でか恋愛の対象になり、自分たちの世界に連れ帰るために相手を変化させて花嫁にしてしまうという、奴らの習性と言っていいかわからないが、そんな不思議な現象が実際に起こりうるらしく、しかも異性間の出来事ならまだ納得しようもあるけど、同性間でも成立するのかどうか見当もつかない。
同性同士の恋愛は人間の世界でも珍しくないから、彼らの世界でもありえる感覚かもしれないが、そもそもおれ自身が同性を恋愛対象として意識したことがないし、周囲に同性の恋人同士がいても深く関わりあったことがないから理解ができないのだ。
気持ちの上では異性間と変わりないと言うが、恋愛は精神的な心の触れ合いだけでは成立しない。必ず肉体関係が伴う。それが自然の摂理であり、人間も動物も生きる上で最終目的である種族維持の本能が働くために相手を求めて交わりあう。
だけど人間は子孫を残せなくても想う相手を欲しがる。己が心と身体が満たされれば幸福であるとばかりに摂理からずれていく。
(だからって、同性同士の恋愛を否定するわけじゃねえけど。本人たちが幸せならそれでいいと思うし、それで神様が創った摂理が壊れてしまっても人間がそう選択したんだったら、それが人間の運命だって思うしな。でもやっぱ、おれは女の子のほうが好きだなぁ。可愛いしやわらかいしドキドキするし。まあ逆に、めんどくさかったり鬱陶しかったりもすることもあるけどさ)
恋に感情の縺れは不可欠である。楽しいこともあれば辛く悲しいこともあって当たり前だ。
だから結論として、おれにとって相手が女の子であれば、たとえ異世界の生き物であっても想像できる範疇だと思う。
と言っても、正直ヴァンパイアと恋愛ができるかどうかはわからないが。
(ほんと、女の子だったら悩みようもあるんだけど……)
おれは隣の美青年を見て切ない気分になった。
(なんでこいつなんだろ)
すると奴は見つめられて落ち着かなくなったのか、さりげなくワインを注いだり窓の外を見遣ったりして、こちらを意識しているのが丸わかりである。
(頼りになるようで、いまいち抜けてるところがあって性格は可愛いんだけどな。顔も綺麗だし。憎めない奴だけど、恋愛となるとなぁ。……こいつ、おれのこと好きなのわかるけど、本気で恋愛対象に見てんのかな?)
こいつはおれのことが好きだ。
それはよくわかる。でもおれが思う恋という意味で好きなのかどうかはわからない。
おれの心も身体も求めたいと望む、人間がする恋をしているのだろうか。
「なあ」
「何?」
「おまえさ、おれのこと好きなの?」
「え? いきなりどうしたの」
一瞬、言葉に詰まりつつも冷静に問い返してくる。
(めちゃくちゃ視線が泳いでるぞ)
動揺しているなと思いながらも、おれは容赦なく追求した。
「それって恋なわけ?」
今度こそ奴は思いっきり絶句しワイングラスを持ったまま固まった。
その様子に少しの可笑しさを感じながら、きっと返す言葉を探して戸惑っているのだろうが構わずに続けた。
「たぶん出会った時から、おまえの態度ってヴァンパイアとしてはおかしかったんじゃねえの? ずっと物欲しそうに見られてたけど、それはおれが餌だから当たり前のことで、なのにおまえは最初から食べないって言ってさ。そんなのヴァンパイアのくせにおかしいじゃん」
「うん。そうだね。カリンにも散々言われたよ」
(おっ、復活した)
奴は身体の力を抜くように息を吐き出してテーブルにグラスを置いた。
おれは、その飲み干されたグラスに残る、わずかな赤い液体を見つめた。
こいつが本当に飲みたいのは人間の血。目の前にいるおれの血。
なのにこいつはおれの血を飲みたがらない。
「所有の証しとして、こんな痣まで付けたくせにさ、ほんとは最初、変貌させようとか考えてなかったんだろ? 出会ってすぐから食べないで傍においとこうなんて思わなかったはずだ。それがなんでそう思うようになったのか、おれ、ちゃんと知っときたい。おまえの気持ちを知っときたい」
ちらりと奴を見ると、観念したように照れ笑いを浮かべている。
「何かさ、今すごく名前を呼びたい気分」
「え?」
思わずクッションから顔を上げて奴を凝視する。
「ま、名前のことは仕方ないんだけど」
(あ、はぐらかした)
名前か。
おれは別に名乗りあってもいいんじゃないかと思い始めていた。
カラスもどきに言ったように名前を呼ばなくても会話ができるのは確かだ。困りはしない。
でも、ヴァンパイアみたいに相手を“縛る”意味じゃなくても、人間同士の間だって名前を呼ぶことで相手の意識をより強く自分に向けさせる効果があるものだ。
親しみを込めれば込めるほど、名前は絆を深めさせる。
(てことは、やっぱまずいか。おれたちは絆を深めるわけにいかないんだから)
おれは自分が残念に思っていることに気づいた。
頭ではわかっていても感情の内では相反する想いがせめぎあっていて苛立ちまでが生まれそうだ。
(こんなめんどくさい気持ちになったのは全部こいつのせいだ)
八つ当たりぎみな気分を抱えているおれとは正反対に、相手は幸せそうに顔を綻ばせている。
どうやら、おれと出会った当初のことを思い出しているらしい。
神々しいほど月明かりが美しかったあの日の出会い。
「……照れくさい話だけど、そもそも君が極上の血を持っていることからしてすでに魅力的に感じてるんだ。ヴァンパイアとしての本能で君を欲しくなった。だから、あの日、出会った時は本能のままに反応したんだ。何て芳しい豊潤な香りなんだろうって久々にワクワクした。我慢できなくて近づいてくるなり襲い掛かったら、驚いたことにオレって君を間近に見た途端、別の本能が働いちゃったんだよね」
「別の本能?」
「うん。食欲じゃなくて、いわゆる、う~ん」
「なんだよ、早く言え」
言いにくそうにする奴をおれは急かせた。
奴が苦笑して小首を傾げると、同時に細い金髪がさらりと揺れる。
「だから前にも言ったけど、男だと思った瞬間、咬みついたものの吸い尽くすのはまずい。いやまあ美味い血だったら性別なんて関係ないんだけど、美徳を追求するオレらとしてはやっぱり美しい女性をターゲットにしたいわけ」
「なるほど。だから躊躇したと」
「したんだけど……えーと、言っても怒んないでよ?」
奴が上目遣いでこちらを窺う。おれは何となく言いたいことがわかりながら訊いた。
「なに? 怒らせるようなことでも思ったのかよ」
「うん、まあ、男の君にとっては、こんなふうに思われるのって気持ち悪いかなと」
「ん? もしかして女っぽく見えたとか? まあ今まで女に見られたことはないけど童顔だからな。たとえば身体の線があんまり男っぽくないとか、尻の形が綺麗とか、そんなのは言われたことあるけど。それも男から」
「あるの? 男から迫られたこと」
奴は純粋に驚いて眼を丸くする。
「いや迫られたことはないけど、可愛いみたいに言われたことはある。そっち系の人に抱きつかれたこともあるし、けどそれ以上なんかされたとかはない。触ってこようとしたやつは容赦なく殴り倒したし。だから押し倒されたのは、おまえが初めて」
ずばり言ってやると、何とも嬉しそうに笑うから憎たらしい。
「で? おまえはおれのこと、どう思ったわけ? 咬みついた時」
奴は面と向かって言うのが恥ずかしいのか、視線をテーブルに移してグラスの口を指でなぞっている。
「女には見えなかったよ。香りだけで恍惚な気分になっていたから余計にだろうな。首筋がとてもなめらかで抱き締めた身体の感触が心地よかったんだ。一気に愛しさが湧いてきて、気がついたら自分の血を注ぎ込んでた。食べるよりも手元に置いておきたいだなんて、男相手にあんなことしたの君が初めてだよ」
「なるほど。本能で変態心が発動したんだな」
容赦なく言うと、案の定、抗議の言葉が返ってきた。
「何だよ~、変態って言うなよ。オレだって自分でもびっくりしたんだから」
拗ねている奴など無視して、おれは当時の記憶の中で気になることを見つけた。
「そういやおまえ、あの時、身体にはなにも異常がないって言ってなかった? ちょこっと血を吸っただけだって。けどすでにあの時点でおまえ自分の血も入れてたってわけ?」
「うん。まあ、つい」
「嘘つきだなぁ」
言葉ではそういいながら、何故かそのことに怒りとか失望は感じなかった。
結果としておれはまだ生きているわけだし。
すっかり変貌してしまった我が身に最初は戸惑ったし恐ろしくもなったが、諦めがいいというか、現実を受け入れるという意味で順応性が高い自分に呆れるばかりだ。
おれは銀髪をいじりながら含み笑いを抑えきれずにいた。
(こいつってもしかして、おれに一目惚れしたんじゃねえの?)
血だけじゃなくて、おれ自身にも興味を持ってくれたことに素直に嬉しく思った。
「……何笑ってるの?」
奴は戸惑いながらも手を伸ばしてくる。指先だけで髪に触れ、耳に触れ、頬を撫でてくる。
おれはその手を払えなくてされるがままだった。きっとそれ以上のことはしてこないと、何故か思ったから。
指先から伝わる熱が恋を表しているのなら、今はそれを受け入れてもいいと思ってしまったんだ。
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