4.



 あいつの腕の中はとても温かくて居心地がよかった。

 おかしな話だ。自分を脅威に陥れる相手に抱きしめられて落ち着くなんて、おれの感覚は鈍ったどころか奴に血を吸われたせいで正常な働きを失ってしまったに違いない。

 そして奴はというと、突然抱きついたおれに最初うろたえて、しどろもどろに言葉を発しながら困っていたが、やがてそっと背中に腕を回してきた。

 あやすように撫でる手が意外にしっかりとおれの不安を受け止めてくれているみたいに思えた。


「……肩の具合どう? 動かしても痛くない?」


 右腕が自分の腰に回ってるから気になったんだろう。おれは頷き返した。

 奴の肩に額をくっつけて小さく息を吸い込む。ちゃんと聞かないと。


「なあ、本当のこと言って?」

「うん?」


 耳元で響く奴の低音が優しい。


「おまえさ、おれのこと、どうしたいの?」

「どうって?」

「……聞き返すなよ」


 おれが渋い声を出すと慌てた声が返ってくる。


「あ、ごめん。えーっと、どうしたいかって言われても……そうだなぁ」


 おれは顔を上げると今度は顎を乗せて続きを待つ。

 目を閉じていると、お互いの鼓動が伝わりあっているのか、ゆらゆら揺れる感覚がする。何だか心地よくて眠くなりそうだ。

 しばらくして奴がおれの頭に頬を摺り寄せてくるのが伝わってきた。


「……正直に言うとさ。ずっと、こうしていたい」

「は?」


 一体何を言ったのかよくわからない。

 ただ奴の声は嬉しそうで照れくさそうで、とても甘い。


「えっと、その~、できればずっとね、一緒にいたいの。君と」

「んんん? どういう意味? おれとずっと一緒にいたいって、なに? 一緒に住むの? そういやあいつもそんなこと言ってたけど、それって家族みたいにってこと?」

「ああそうだね。家族みたいか。それもいいね」


 まるでいい提案だとばかりに明るい声で言う奴を、おれはまったく理解できずに眉をひそめたまま見返した。

 いや感覚ではわかっていた。奴が何を言いたいのか。おれに何を求めているのか。

 だけど、それは当たり前のこととして受け止めていいのだろうか?

 よくない。

 いいわけがない。

 奴もおれも血の繋がりのない赤の他人で、性別は男で、しかも奴はヴァンパイアという異質な生き物で、人間を喰いものとして生命を維持している、いわば天敵である。

 そんな奴と一緒に住む? ずっとともに生きていくだって?


「なにふざけてんの?」


 腕を突っ張って奴の身体を離したおれは視線に力をこめて睨みつけた。

 なのに強い力で引き戻される。


「ふざけてないよ。大真面目です」


 おれはまた奴の身体を押して引き剥がす。


「どこがだよ。ずっと一緒に住むって恋人じゃあるまいし結婚でもする気か」


 するとまた引っ張られて抱きしめられる。


「できるもんならしたいくらい」

「はああっ!?」


 おれは眼を剥いて奴を見た。

 至近距離で見る碧い瞳は澄んだ水面のように泰然としているのに、視線の強さが奴の想いを真剣に伝えている。

 おれは思わず怯んだ。


「おまえ……本気でおれのこと……」

「うん……」


 少しだけ瞼が伏せられて奴の顔が傾く。ゆっくりと近づいてくるのを、おれは頭が麻痺してしまったのか、ぼんやりと見つめてしまう。

 吐息が唇にかかった瞬間、おれは無意識に言葉を発していた。


「そんなに食べたいのか」


 途端に奴の頭がおれの肩に落ちた。呻き声が聞こえる。


「何でそうなるの~? さっきからの雰囲気を思えばわかるでしょー、普通さぁ」


 嘆き文句を聞きながらおれは溜息をついた。


「わかんねえわ、そんなの。喰うか喰われるかの関係でしかないのに、ずっと一緒にいたいとか言われても、おれは死ぬんだろ? おまえに咬まれた時点で本来の寿命に関係なく百日で死んでしまうんだろ? それなのに一緒に生きようったって生きられねえじゃねえか。おれの命運はとっくに尽きてんのに、なんで一緒にいたいなんて言うんだよ……」


 おれは今度こそ、奴の身体を押し離して、豪華なベルベットのソファに向かった。

 足を抱える格好で乗り上げると、背もたれに横向きで寄りかかる。

 絶望的な気分で深い溜息を落としていると、奴が吐息混じりに呟いた。


「あのバカが言ったことは真に受けなくていいよ。確かに咬みついた獲物の命は百日で尽きると言われてるけど、実際にはそうなる前に食べてしまってるのが普通だし、すっかり変貌して魔の住人になればいくらでも生きられる。百日かどうかなんて本当のところはわからないんだ」


 黙っていると横に座る気配がした。背中越しにこちらを窺っているのがわかる。

 おれはそのままの姿勢で訊ねた。


「……おまえらの仲間になれば生きられるってことなのか?」

「一番正当な方法ではあるね。でも仲間になろうなんて気は」

「あるかよ。でもおれ、変貌が始まってるんだろ? このままいったら仲間になってしまうってことじゃねえの?」

「いや、それはないよ」

「なんで?」


 おれは驚いて奴を振り返った。奴の笑顔とぶつかる。


「大丈夫だって言ったろ? オレ、ちゃんと考えてるから。君を正常に戻して元の生活ができるようにするからさ。心配しなくて大丈夫だよ」

「ほんとに? ほんとにそんなことできんの?」

「できるったらできるの! 疑り深い人だなぁ。オレを信じてよ。君のためなら、いたっ!」


 突然奴が頭を押さえて顔をしかめた。


「どした?」


 奴の顔を覗き込むと、押さえている手の甲から血が流れている。


「え、ちょっ、それ血! どうしたんだよ、おまえ!」


 内心で「血、赤いのか」と冷静でいて安堵感を覚えつつ、思わず身を乗り出して様子を窺う。


「いたたたたたっ! あいつ、何てことをしてくれて、う~」

「おい、大丈夫か? その血、頭? 頭が切れたかなんかしてんの?」


 おれは逡巡したが、思い切って奴の手を退かせて頭の状態を見ようとその手首を掴んだ。

 しかし奴は身を引いて拒み、薄く笑みを浮かべる。


「大丈夫。これはオレがどうにかなったわけじゃないから。一種の知らせみたいなもんなんだ。どうにかなったのはカリンだ」

「え?」


 おれが眼を丸くしていると、奴はふいに床に視線を落として呟いた。


「ロイ」

「はい、お傍に」

「カリンを連れてきてくれ。オレの使役だ。核まで死なせてやしないだろ」

「御意」


 おれは口を挟まずに奴のすることを見ていた。

 奴が床に向かって話しかけ、そして床のほうから声が返ってくる。相手の姿はまったく見えない。床に潜んでいるのか?

 すると何やら白い布が床からひらひらと顔を出した。白い布は細長くて弧を描きながらどんどん上へと伸びていく。奴が引っ張り出しているわけじゃない。突如として現れ、空中へと勝手に舞い上がっているのだ。

 おれは声も出せずに視線だけで白い布の行方を追っていた。

 どのくらいの長さなんだろうと絶え間なく感じていたのが、床から途切れて全部出尽くしたのかと気づいた途端、空中に浮かんでいた布が勢いよく形を作った。


「……なに、これ? 人?」


 眼の前には人の形をした物体があった。全身を包帯でぐるぐる巻きにされたような感じである。


「では参ります」

「ああ、頼むよ」


 白い人型ひとがたは膝を折って奴に礼を取ると、てくてくと窓へ歩いていき、おもむろに窓枠に足を掛けて飛び降りた!


「ちょっと! この部屋何階だよ!? かなり高かったはず!」


 おれは反射的に飛び出して窓縁に取り付いた。行方を追おうと見下ろす先に白い姿はない。上から下まで見渡してもあのおかしな姿は見当たらなかった。

 息を呑んで恐る恐る奴を振り向く。


「なに今の? あれなんなんだよ……」


 奴はまだ頭を押さえたままソファに背中を預けている。

 自分がどうにかなったわけじゃないと言うが影響は充分受けているみたいだ。


「ほんとに大丈夫か? その血、偽ものじゃないんだろ?」

「……殴られたような衝撃があったから痛いのは痛いけど、この血は頭が割れたとか傷ができたとかで出てるんじゃなくて、痛みを視覚的に現してるんだ。どこから出てるのか入り口はわかんないけど本物なのも確かだね」

「本物かよ? 意味わかんねえ。体質ってやつとか? 変な生き物だなぁ、ヴァンパイアって」


 おれの呆れた声に奴は苦笑するだけだった。

 辛そうな様子にとんでもないものを見た衝撃から立ち直ったおれは、窓を閉めてから洗面所へと向かった。艶々した石造りの洗面台を一瞥して横に重ねられた白い布を手に取る。さっきの奇妙な包帯のように細長いのではなく洗顔用に使用する手拭いだ。それを少しだけ濡らして戻った。


「手、外しても平気か?」


 まだ頭を押さえたままの奴に訊ねる。

 おれを見上げて困ったような顔をしたけれど今度は素直に放してくれた。

 曝された頭には確かに外傷はないみたいだ。綺麗な金髪も肌も汚れていない。

 おれは奴の前に膝をついて手を取り、甲に流れた血を拭ってみる。

 血はすでに乾いてこびりついた状態で、どうやらこの一筋が流れ出ただけのようだった。


「ん。綺麗になった」

「ありがとう」


 そう言って奴が屈み込んできたのを、おれはまたしてもかわせなかった。

 こめかみにキスされて力なく肩を落とす。諦めの溜息まで出てしまったじゃないか。


「おまえなぁ……」

「お礼の印。ただのキスだよ。それ以外のことはしないから許してよ」

「勝手なやつ」


 微笑む奴を見て、安堵している自分に呆れた。

 一旦飼い馴らしてしまったものを手放すことができるだろうか?

 犬や猫と同列に並べているが、事実、異質な生物と巡り会って懐かれてしまったようなものだ。こちらまで愛着を持ってしまったら離れがたくなってしまうのではないか。

 ふとそんな危惧を覚えて気を引き締めた。


(いつまでもこいつらに関わってたら、本気でおれの命がなくなる。こいつが戻せるって言ってるうちに、さっさと縁切らねえと)


 何しろ次から次へと妙な生き物に遭遇しているのだ。それにこれ以上ヴァンパイアに眼をつけられては状況が悪化する一方だ。


「んで、カリンはどうしたんだよ? さっきの白いの、カリンを迎えに行ったのか?」

「うん。ロイのことはあとで紹介するよ。カリンの奴、あいつにやられちゃったみたい。オレもちょっと気が抜けてたな。なめてたわけじゃないけど、もっと徹底的に叩きのめしとくんだった」


 本気で失敗したと後悔している奴の言い分と、あいつとやらが誰で何をしたのかを察して、おれは眉をしかめた。


「カラスもどきがカリンに手ぇ出したってことか」


 まっすぐに見つめてくる奴の眼が肯定している。

 おれは不快感を覚えた。

 これは怒りか?

 カリンを傷つけられたことに対する相手への。あの少女に散々な態度を取られていたというのに、もう仲間意識を感じているとは現金にもほどがある。

 脳裏にカラスもどきの顔が浮かんできて、あの穏やかな表情と物腰の中に、やはり凶暴な魔の性質を潜ませていたのかと改めて認識した気分だ。

 黙り込んでしまったおれを奴が心配そうに見ていたなんて、おれはまったく気づかないでいた。





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