3.
眠い眼をこすりながら居間へと続く扉を開けると、外からの清々しい光が部屋中に差し込んでいた。
眩しくって思わず手をかざす。
「すごい明るい。……いい天気じゃん」
おれは軽く伸びをしながら、すでにカーテンが開かれている窓縁に向かった。
観音扉になっている窓の施錠を解いてゆっくり押し開く。
すると爽やかな朝の息吹を連れて風がふわりと入り込んできた。
「気持ちいいー。それに、こんな眺めが見られるなんてな。絶景ってやつ?」
独り言を呟きながら、おれは初めて見る壮大な風景に魅入っていた。
この部屋からは水平線も地平線も見える。
視界の左上には海があり、そこへと流れ着く川が右手から蛇行して伸びている。
川を所々遮るように建物の屋根が邪魔をしているが、その屋根たちや川に架かる橋などがこちらから見るとオモチャの積み木を並べたり積み上げたりしているみたいで何だか可愛らしい。
自然と口元が綻ぶのを感じながら穏やかな気分で眺めていると、ふいに背後から声がかかった。
「へぇ、けっこう眺めのいい部屋だね。気持ちいい風が入ってきてる」
おまけにトンと肩に何かが当たって振り向けば、カラスもどきの顔がすぐ近くにあって、おれは驚いて反射的に仰け反って身体を引いた。
「……びっくりするじゃねえか。って、なんでおまえここにいるんだ?」
「うん? 実はさ、こっちにいる間、一緒に住まわせてもらおうと思って。極力二人の邪魔はしないようにするから当分お世話になります」
ニッコリ笑う相手におれは眼を丸くした。
(いつそんな話になったんだよ?)
おれが住んでいた部屋は、こいつが放ったコウモリの大群をカリンが撃退しようとしたのはいいが、周囲への影響を考えずに加減をしなかったせいで部屋を半壊状態にしてくれたものだから生活できなくなってしまった。
さらにこの騒動によって駆けつけた警察やらアパートの管理人やら野次馬やらに見つかって取り囲まれそうになるところを、どうにかこうにか逃げ出してきたのだ。
きっと今朝の新聞なんかに器物破損だかの罪状をつけられて指名手配犯として大きく取り上げられているかもしれない。
そんなふうに頭が痛くなることを考えていると、奴がとりあえず落ち着くためにホテルの部屋を取ったと言ってきた。
おれはもう色々ありすぎて、あの騒動の中で奴がどうやってホテルを手配したのか考えることなく辿り着くなりベッドに突っ伏してしまい、気づけば朝だったという始末だった。
だからまさか半壊の原因になったカラスもどきまでくっついて来たとは思いもしなかったのだ。
しかも一緒に住む?
「一体なんの話だよ。一緒に住むってどういうこと? それにその口振りだと、あいつらも含めてみんなで住むつもりなのかよ? なにボケたこと言ってんの。おれはもうこれ以上おまえらと関わるのはごめんだ」
「そうは言ってもね」
困った顔をして苦笑する相手を無視して、おれは今後の生活を思案し始める。
「……あー部屋探し大変かも。学生の身分だと借りられるアパートが限られてるもんなぁ。そういえば、おれの荷物どうにかして回収してこねえと。けど警察が張ってんだよなぁ。とはいえ身分証明証いるし、使えそうなもんとかできるだけ取ってこないと、生活必需品を新たに揃えるのは大変だもんな。第一そんなお金ないし、っていうか金! コツコツ貯めて隠してるやつ、ちゃんと取ってこねえと!」
やばいやばいっ、と慌て出したおれをカラスもどきがやんわりと制してきた。
「落ち着いて落ち着いて。たぶん若とカリンが回収しに行ってるんじゃない? さっきここの上から飛んでくの見えたし」
「……は? 飛んでった?」
もう何を聞いても驚かないつもりでいたけど、やっぱり常識外のことを耳にするとどうにも複雑な気分になるのは否めない。
(そういや隣のアパートにおれを抱えて飛んでたな……)
おれが黙したのをどう捉えたのか、カラスもどきは少し心配そうに顔を覗きこんできた。
「ああ、飛んで行くっていうのは羽ばたくんじゃなくて、跳躍するって言ったほうがいいかな。カリンみたいにコウモリに変身するんじゃないよ。俺たちはそのままの姿で飛べるから」
「ふ~ん」
一気に気分が冷めたおれは、ふと自分がカラスもどきの腕に手をかけていることに気づいた。
そして相手もおれの肩を支えている。
「ちょっと、離してくれない?」
「ん? あ、はいはい」
しかし離してくれたもののその場から動こうとはせず、おれたちの距離はかなり近い。
再度おれは訴えた。
「ちょっと、離れろってば」
「ん? いいじゃない。一緒に綺麗な風景を眺めてようよ」
そう言ってカラスもどきは窓縁に両手をついた。
なんでおれを囲ってんだ! 狭苦しいだろうが。
「ちょっ、近い近い! 離れろ、まったく!」
おれは相手の肩を掴んで思いっきり押しやると窓から離れた。
スタスタと居間の中央にある楕円形のテーブルと椅子の応接セットに向かいながら今頃になって気づく。
足元を見下ろして、
(すんごいふかふかの絨毯だな)
目の前の応接セットを見て、
(なんかめちゃくちゃピカピカしてる。足の部分とか彫刻が凝ってるし艶があって年代もんに見える……)
おれはいやな予感を覚えてゆっくりと部屋中を見渡した。
天井がやたら高い上に照明は硝子細工でできた、これはシャンデリアというやつか?
壁にはおれのアパートみたいにペンキを塗っただけでシミやカビが取れないようなのじゃなく、伝統的な芸術模様を施したお洒落な壁紙が貼られているし、立派な額縁に収められた絵画が飾ってある。
絵画とくれば、おれは一応画学生である。当然食い入るように見つめた。
「これどっかで見たことある……。なんかこの塗り方って、半世紀前のベルリック絵画のものなんじゃない? ええっと確かレントとかエーレとか当時の王宮専属の画家が一世風靡した流行りもんだったけど、後になって評価されて現代じゃその価値が上がりまくってるとかいう」
するとカラスもどきがご丁寧に肯定してくれた。
「うん。たぶんそうだと思うよ。このホテル、王族の別邸を基盤に造られてるから。装飾品関係なんかは骨董品が多いんじゃない? もちろん本物のさ」
それを聞いておれは目を剥いた。
「本物!?」
カラスもどきは平然とした顔で頷く。
(なんだってこいつは普通に話してんの! それが本当だったらこの部屋かなり高級なんじゃねえの!? そんなところにおれはいるのか!)
内心で動揺しまくっているのをなんとか押さえ込みながら冷静に問い質した。
「この部屋借りたのって、あいつなんだろ?」
「そうだよ」
「まさかここにしばらく滞在するわけじゃねえよな? 部屋探すまでっつーか、とりあえずあの騒動から逃れるにはこういう高級なとこに泊まれば目くらましになるとかって考えたのか? 一泊だけで明日はどこか安いところに移れたら……ていうか早く部屋探して引っ越さねえと、そんな何日もホテル住まいなんかできねえわ」
「ねえ、一つ不思議に思ってたことがあるんだけど?」
考えに沈み込んでいたおれに今度はカラスもどきが問いかけてきた。
(こいつってほんと穏やかにしゃべるよなあ)
それだけで相手がヴァンパイアだというのに気持ちが騒ぐことなく普通に話してしまう。
「あのさ君ら、もしかして名乗りあってないの?」
「は? なにが?」
「だから、若の名前、知らないんでしょ?」
何の話かと思えば。
おれは立派な彫刻の施された椅子の背に軽く腰掛けると肩をすくめた。
「うん、知らない。そういや聞いてなかったな」
「……何で聞かないの? 自分も教えてないんでしょ?」
カラスもどきが不思議そうに首を傾げている。
「だな。言った憶えない。理由とか別にないけど? 名前なあ。全然気にしてなかったわ」
「どうして? 名前呼べないと不便じゃない」
「そうでもない。名前呼ばなくても話はできるし」
淡々と話すおれに相手はますます怪訝な顔をする。
「もしかして名前が“縛り”になるって知ってんの? 若が教えないのは当然だけど、君が名乗ってないのって普通だったらありえないじゃん。もう何日も一緒にいてさ。俺たちに限らず人間だって他人に“おまえ”呼ばわりされたくないものでしょ? 名前があるんだから名前で呼べよって言っちゃうもんじゃない?」
やけに突っ込んでくる相手に今度はおれが不思議に思えてきた。
(なにが言いたいんだ、こいつ?)
「おれは別に名前を呼ぶ呼ばないにこだわんないけど、その“縛り”ってなに?」
「呼ばなくてもいいし呼ばれなくてもいいってこと? 何かちょっとそれって寂しい感じがするな」
「ほっとけよ」
言葉に同情めいたものを感じて、おれは少し不快に思った。
そしてこのカラスもどきも、あいつと同じように光を背にして何ともないようだ。世間の噂は当てにならないとつくづく思った。
こういう魔の住人を暗闇に潜む異形の生き物だと勝手に思い込んで、光の下では大人しくしているものだなんて、一体誰がそんなふうに広めたのやら。
(全然平気そうだもん、こいつら)
さらに今度は名前についてときた。
もし名前を知ったり知らせたりで何かが発生するのだとしたら、おれは幸いにもまだ奴らの側に踏み込んでいないわけだ。
これはちゃんと追求しておかないと。
「おまえらにとっては名前って重要みたいな感じなんだな。教えたらどうなるんだよ? なんだっけ……怪奇小説かなんかで悪魔との契約に名前の交換とかってあったよな? 名前でお互いの関係を結ぶっていうか、呼ぶことで相手の行動を操れるとかいう話。おまえらの場合もそうなのか?」
するとカラスもどきは意外にもやわらかく微笑んだ。
「名前の契約はなくはない。でも相手の意思を操れるとか呼べば飛んできてくれるとか、そんな便利なことはできやしないよ。ただ名前を教えあうだけじゃね」
「なんか付随するものがいるとか?」
何故だかカラスもどきの笑みがどんどん深くなる。
「もちろん。君らのように血を分け合ってる関係なら名前を呼び合うことはお互いを“縛る”ことになるんだ。つまり君は若に名を呼ばれると逆らえなくなるし、若の名を呼ぶことで若の意識を自分に向けさせることができる。主従関係が深く成り立つんだ。餌となった者はすべてを喰い尽してくれるまで主を独占していたくなる。だけどほとんどのヴァンパイアは一時とはいえ、獲物に縛られるのはごめんだと考えるから相手の名を聞きはしても自分のほうは教えないもんなんだ。だから若が教えないのはわかるけど、まさか君まで教えてないなんて、ちょっと驚いたよ」
聞いていてげんなりしてきたおれである。
(名前教えなくてよかった……。おれには不利なことばっかじゃないか)
「で、おまえはなに喜んでんの?」
話しながらずっとニコニコしているカラスもどきに、おれは眉をひそめた。何か良からぬことを考えているに違いない。
「君も喜んでいいんだよ? 若に完璧に縛られてるわけじゃないんだから」
「え、そうなの?」
じゃあ、おれが奴の所有物だなんて傍迷惑な関係から逃れることができるのか?
思わず身を乗り出したおれにカラスもどきが足音も立てず急接近してきた。
驚くおれの腰を引き寄せて耳元で囁く。
「俺の名前教えてあげるよ。俺と関係を結めば若が相手の場合より君の自由度は高くなる。このままだと君の命はもう百日もないんだからさ」
「え?」
おれの命って……。
一瞬、意識がカラスもどきから逸れてしまったおれは首筋に生暖かい息がかかっていることに気づかないでいた。
まさに咬みつかれようとしたその時。
あいつは絶対おれたちの様子を窺っていたに違いない。
いつのまにか金髪がカラスもどきの背後に見えたかと思うと、おれと目が合うなり、ふっと眼を細めた。
笑ったのだ。不敵に。
次には奴の拳が思いっきりカラスもどきの頭に振り下ろされていた。
「オレを出し抜こうなんざ百億年早い。カリン、こいつをその辺に捨ててこい」
腰に手を当て凄みを利かせた目で、おれの足元に崩れ落ちたカラスもどきを見下ろすと、奴のつま先がその腹にめり込んだ。
何かが軋む鈍い音がして、おれは思わず首をすくめた。
(骨、折れたぞ……)
意識を失っているカラスもどきを、カリンが襟を摘まんだだけで引きずっていくさまを見送っていたおれは、そこから視線を戻せずにいた。
というのも奴を見れない。
今の暴力行為に恐れをなしたからじゃない。あんな場面に遭遇したことはいくらでもあるし、おれだって人を殴ったことはある。
そんなことじゃなくて。
(おれってやっぱり死ぬのか……)
「大丈夫か? あいつに何かされてない?」
さっきと違って優しい声音。近づいてくる気配。
肩に手をかけられて、びくついたおれの顔を労わるように覗きこんでくる碧い瞳。
おれはこの美しくも無邪気なヴァンパイアに喰われて死ぬ。
こいつに出会った時からわかっていたことなのに……。
「どうした?」
おれの表情の変化に驚いたのか眼が見開かれる。
頬に手を添えられて、平静を装うつもりが強張っていることに気づいた。
奴が心配そうに声をかけ続ける。
「大丈夫? やっぱりあいつを放っておくんじゃなかったな。余計なことを口走っ、!?」
おれは一体何が悲しいんだ。
自分の中に渦巻く感情をどう整理していいかわからず、ただ抱きしめた。
おれの命を奪うヴァンパイアを。
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