第二章 恋と本能

1.



「メチャクチャじゃねえか……」

「やりすぎだな、これ」


 二人して金髪巻き毛の少女を責めてみたが、まったく効果なし。

 彼女は腰に手を当て胸を張って抗議してきた。


「言っておきますが、あれぐらいやっておかないと、ただ追い散らすだけでは何度でも襲って参りますわよ。一撃で仕留めたほうが楽じゃありませんこと?」

「そうだけど、少しは場所を考えて加減しろよ。こんな状態じゃどうにもならん」


 奴は溜息をついて辺りを見渡している。

 おれたちは再び半壊になった部屋に降りてきたのだが、あまりの惨状に茫然とするだけだった。


「気に入ってたのに……」


 おれは転がっていた椅子を立たせて腰掛けると、足の間に手をつく格好で部屋を眺めた。

 家具や小物のどれもこれも骨董市や質屋で選びに選び、さらには値切ってまでして手に入れたり、果てはゴミ置き場から発掘してきたものばかりだったが、全部自分好みに仕立てて愛着が生まれていた。

 狭い部屋だが質素ながらも快適な空間を作り上げた自分だけの城だったのに。

 窓から見る景色までが、きらきらと煌めく宝物を独り占めした気分で空想世界を得られていたというのに。

 全部消えてなくなってしまった。


(おれの居場所が跡形もない……)


 胸にぽっかりと穴が空いたようで寂寥感以外の感情が湧いてこず、ゆるゆると息を吐き出すだけだった。

 すると、やわらかな空気が目の前に降りてきた。

 外套を閃かせて、奴がおれの前に膝をついたのだ。

 椅子を握り締めていた両手を覆われる。


「ごめん。オレは君にひどいことをしてばかりだ。本当にすまない」


 そう言って俯いた奴の髪が手首に触れた。

 真摯な声音も手の甲を包む体温もあたたかな吐息も、みんな不快に感じない。

 おれはどんどんこいつの存在に慣らされている。こいつのことを許している。もうこいつに苛立つことも不愉快になることもない。それはおれがこいつらの世界に同化し始めたからなのか。それとも……。


(どうしてこいつはヴァンパイアなんだろ。同じ人間だったら、それかおれもこいつと同じヴァンパイアだったら自然に一緒にいられたのかな?)


 まさかこんなふうに考えるようになるなんて慣れとは怖いものだ。

 出会ってたった一週間を過ぎただけなのに、こいつのことを何も理解していないのに、最終的にはこいつの血肉と成り果ててしまうかもしれないのに、おれはもうこいつを恐れることはないだろう。

 姿の変化とともに心情までが変化しつつあった。


(おれは、一体どうなってしまうんだろう)


 不安は言葉を変えて口に出た。


「おれはこれからどうしたらいいんだ……」

「君が望むとおりに」


 奴が顔を上げてそんなことを言う。至極当然といったふうに。


「おれが望むとおり?」

「必ずそう導く」


 断言する奴に、おれは小さく笑った。

 馬鹿にしたわけじゃない。単純に根拠のないだろう自信を曝すからおかしくなっただけだ。

 さらに奴は変なことを言った。


「だから、泣かないで」


 奴の手がそっと頬に触れてくる。


「……泣いてねえよ」


 ちゃんと口角が上がって唇は笑みを作っているはずだ。

 だが奴は咎めるように顔を歪ませている。


「短期間で君の生活は一変したんだ。今まで存在を知らなかった生き物と関わって、ありえない力を見せつけられて身体を傷つけられた挙句に生活空間まで壊されてしまった。悲しくないはずないよ。でも泣かないで。悲しみに浸るのはつらいから無理矢理でもこらえて。今の君は一人じゃないから大丈夫だ」

「……だからさ、なんでそんなに自信持ってんだよ。おまえ強気もいいところだって」


 すると奴はにっこりと笑った。優しい綺麗な笑顔。


「君と出会った。それが根拠だ」

「ふふっ、バカだろおまえ。そんな根拠あるかよ」


 気障なセリフを本気で言っている奴に笑ったつもりだったのに、唇が震えてきたから、おれは身体を屈めて奴の額にぶつかる勢いで顔を俯かせた。


(ほんとに、涙出てるじゃん……)


 目から雫が落ちていく感覚が伝わる。

 そうだ。もう学校に行くことも絵を描くことも親父さんの店で働くこともできない。

 もしかしたらまたできるのかもしれないが、今の時点ではこれまでどおり暮らすことは無理だろう。

 おれは今まで生きてきた生活環境を失ったのだ。

 決して幸せだったと、快適だったとは言えないが、それでも懸命に生きてきた自分の人生である。何の思い入れもないはずはない。愛しい時間や想いが生まれたこともあった。

 だから、やはり悲しい。

 静かに涙が流れるままに任せていると、奴がおれの肩を覆って抱きしめてきた。

 耳に当たる奴の頬のぬくもりが心地よい。

 おれは奴の肩に頭を預けてその感触に浸った。


(おれの望み……。今まで目指す未来を想像して生きてきたのかな。おれはどんなふうに生きたかったんだろう)


 おれの望む未来はなんだろう。




「あの~、申し訳ないけど、お邪魔していいかな?」


 突然聞いたことのない声が聞こえて、深く沈んでいた思考が一気に浮上した。

 顔を上げて声の方向に視線を向けると、そこには真っ黒のカラスがいた。

 いやそれは錯覚で、ちゃんと人型をしている。

 崩れてしまった壁の瓦礫が降り注いでへしゃげているベッドに器用に腰掛けている黒ずくめの男。

 おれの肩に手を置いたまま相手を凝視している奴と同様に、黒い外套に三つ揃いのスーツという出で立ちだが、あの男の場合、髪も瞳の色も黒かった。

 目鼻立ちがくっきりとした端整な顔立ちで、キリリとした太めの眉が豪胆さと、くるりと形の良い瞳が愛嬌と落ち着きを印象づけている。


「誰だ……」

「おまえ……」


 おれと奴の呟きが重なった。

 おれは隣に問うた。


「知ってんの?」

「一族の者だ。オレの従弟にあたる。何であいつがここに」

「旦那さま。もしや先ほどの使役たちは」


 おれたちから少し離れたところにいたはずのカリンが、いつのまにか奴の傍らで前方に鋭い視線を送っていた。

 たぶんあいつもヴァンパイアなんだろうにあんまり歓迎していないように見える。ということは、おれにとっても良くない相手なのか?


「あいつの仕業だったか。じゃあカーティナスはもう生きてないな」

「え?」


 苦々しく吐き捨てた奴の言葉に驚く。


(生きてないって、あの紳士は死んだってことなのか? あいつにやられて?)


 おれは愕然として新たな侵入者を見た。

 おれを狙っているのがあの紳士だと知っても何故か憎めなかったし、いまだに半信半疑だった。

 実際にあの人に襲われたわけじゃなかったし、市場で会ったときの印象は悪いものじゃなかったのだ。穏やかで高潔な雰囲気を纏い、いかにも下町の苦学生然としたおれに丁寧に対応してくれた。たとえ下心があったとしてもだ。

 女ヴァアンパイアを放ったのだってあの人なんだろうに、おれの中に敵視する気持ちは生まれなかった。

 ましてやあの紳士をどうにかするのはおれの隣にいるこいつだったはずなのに、なんで見も知らない奴がしゃしゃり出てくるんだ?

 おれは知らずカラスもどきの男を睨みつけていた。

 すると相手は小首を傾げて口を開いた。


「あなたの隣、椅子に腰掛けている気配が件の人物ですか? 結界を張っているおかげで姿がよく見えませんが、なるほど甘い匂いが漂ってきますね。噂は本当なんだ」


 なんて落ち着いた声だろう。静かに低くゆったりと呟く口調は見かけよりもっと成熟して聞こえる。それに薄く微笑む表情には魔の住人だという妖しさが感じられない。

 おれは思わず隣を見た。

 気づいた奴が首を傾げる。小声で囁いた。


「あいつって本当におまえの従兄弟?」

「何でそんなこと聞くの?」

「やけに落ち着いてるじゃねえか。思慮深そうっていうか賢そうに見えるけど?」


 おまえと違って、と言外に言っているのが聞こえたのか、奴はちょっと拗ねた顔をした。


「確かにあいつは年のわりに落ち着いてるし男前だけどさ。かなりとぼけた奴で情の薄い奴だよ。それに何たってオレのほうが絶対いい男」

「なんだよ、それ」


 バカバカしくもふざけたことを言うので、おれはあっさり流してやった。

 なのに尚も食い下がってくる。


「だってほんとのことだもん。顔もだけど性格も男気もオレのほうが勝る。あいつはけっこう意地悪だからな。自分好きで他人に関心を示さないし、そのくせ独占欲は強いとくるから性質が悪い」


 なんかいやに毛嫌いしてるっぽいけど仲悪いのか?

 半ば呆れていると、悪口は聞こえるものなのか向こうから苦笑混じりに軽く抗議が放たれた。


「ちょっと、性質が悪いってなんですか。俺のこと知らない人に勝手な印象を植えつけないでくださいよ。あなたこそ大人気ないところ直さないとお相手に嫌われますよ」

「余計なお世話だ。おまえ一体何しに来たんだよ。カーティナスの始末はオレがするって長には報告してあるはずだぞ」

「聞いてますよ。でも向こうではすでに噂になってるんです。若が夢中になっている餌は一体どんな人間なのかって。伯父どのたちや他家の若さま方までがえらく興味を持たれてて、見て来いってしつこいんですよ。だから仕方なく出てきた次第なんです。でまあ、ついでなんで、若に纏わりついてる下級魔を始末したってわけです。それにしても結界張られてるんじゃよくわかりませんね。どんな人間なんです?」

「おまえには関係ない。とっとと帰れ」


 厳しく突っぱねた奴にめげることなくカラスもどきは穏やかな口調を崩さない。


「冷たいなぁ。見せてくれたっていいのに。見えなくてもいい匂いがするから気になって仕方ないんですよ。取ったりしませんから、帰ってみなさんに報告するためにも見せてくれませんか?」

「ふぅん。ほんとにおれの姿って他の奴には見えないんだ」


 おれは、こいつやカリン以外のヴァンパイアに自分の姿が見えない事実を知って、その能力に素直に感嘆した。

 思わず呟いた声に相手は反応を返してきた。


「ふふ、可愛い声してる。ますます気になるねえ」

「聞こえてんだ?」

「俺、耳がいいんだ。さっきから若との会話を聞いてたけど、なかなか甘い雰囲気醸し出してるよね。君、餌のくせに恋人みたいじゃない。そんなに魅力的なら俺にも味わわせてほしいな」


 ニタリと笑う男におれは顔をしかめた。


「餌ねぇ。やっぱりおれってそういう存在なんだな。ヴァンパイアにとっては」

「オレは違う」


 すかさず否定してきた奴に、思わず笑いが零れる。


「信用してるよ。おまえのことは」

「え?」


 眼を丸くして見つめてきた奴を照れくさくて見返すことができずに、おれはそっぽを向いた。


「まったく、見せつけられてばかりじゃ、いい加減じれったいですね。何の成果も挙げられないままじゃ帰れないんで、ちょっと失礼しますよ」


 カラスもどきは音もなく立ち上がったと思うと、背後からまたもやコウモリの集団が出現してこちらに襲いかかってきた。

 ところが黒い集団はおれを通り過ぎて隣を囲い込んだ。


「旦那さま!」

「ちぃっ」


 カリンが巨大羽を広げたのと奴が外套を閃かせてコウモリたちに一撃を加える、たったその一瞬の間におれの眼前にはカラスもどきの男が迫っていた。

 驚いて見上げたときには何もかもが遅かった。


「顔はこの辺かな?」


 言うなり男は顔を近づけてきた。


「失礼」


 見えていないはずなのに正確におれの唇を捉えたのだから、奴の言うとおり性質が悪いかもしれない。

 吹き込まれた吐息を飲み込んだ途端、男は赤く染まって無表情だった瞳をふっと細めた。


「これは、想像以上だ。可愛いな」





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