8.



 カリンが言うように、おれの首にはくっきりと赤い薔薇の花が咲き誇っていた。

 おれは鏡の前で茫然と突っ立ったまま、その鮮やかな紋様に目が釘付けだった。

 そりゃもう見事に立派な薔薇の花だ。

 花びら一枚一枚まで、どこも欠けたりくすんだりしていなくて、本物のようにしっとりとした光沢感と滑らかさが想像できてしまうほど鮮明である。単純にインクで描いてみるのはもちろん、刺青でもここまで色を乗せられないだろうと思う。

 腰にあるカーティナス男爵につけられた刻印は、あとで聞けばマリーゴールドとかいう花らしいのだが、こいつは本当に“痣”みたいで形がはっきりしていない。数日もすれば消えてしまうんじゃないかと思うくらい存在感が薄いのだ。

 なのに首にある花はいくらこすっても時が経っても色褪せることはないと確信できてしまう。


(これが“力”の差ってやつなのか……)


 ということは奴にとって男爵など敵にもならないくらい格下で、はっきりと奴の所有物となってしまったおれに男爵が手を出すことはまず無理だという確証でもあるわけだ。


「けどこれ……」


 おれは洗面台に手をついてカクンと頭を垂れた。


「……すげえ目立つ」


 こんなものを曝して外なんか出歩けない。

 刺青を彫っている人間なんて色街にでも行かなきゃ出会えないくらいなのだから、そっちの手合いだと思われるのがオチだ。

 少し後ろ髪が伸びてきてはいるが、どうやっても隠れないし、襟の高いシャツを着て尚且つスカーフを巻くしか方法がないだろう。


「参ったなぁ」


 顔を上げてもう一度鏡を凝視する。

 何度か逡巡したのち、恐る恐る指を持っていく。人差し指で花びらの一枚にそっと触れてみた。そしてその感触に心底驚いて目を瞠る。


「あれ? 普通だ……」


 そうなのだ。これほど鮮やかで立体的なのに見た目の印象と違って、まったく花びらの感触を感じない。自分の地肌である少し湿った皮膚と弾力ある肉の質感しか伝わってこなかった。

 おれは目と手が受け取った情報のくい違いに戸惑った。


「本当におれの首に咲いてんじゃないかってくらいリアルなのに。触ってもなにもないみたいで変な感じだな」


 それに他にも妙な違和感を感じていた。

 鏡の中の自分をしげしげと見つめる。


「なんか違う……おれなのにおれじゃないっていうか……なんか物足りない……ん? あれ?」


 鏡に映る自分の顔の中でおかしく感じる理由は。


「……薄い?」


 色素が。

 どちらかというと髪も肌もはっきりした色味を備えていたはずが、何もかも少しだけ色が抜けているように見えるのだ。

 漆黒だったはずの髪や、黒々とした大きな瞳と男にしては長くふさふさな睫毛も、手入れなんかしないからくすんでしまっているはずの肌も、みんないつもより色が足りなかった。

 おまけに、髭がない。


(剃り跡すらねえじゃん……)


 おれは焦ってじっくりと目を凝らした。いつもの自分を探すために。

 しかし鏡の中のおれは、灰色っぽくなった髪と黒眼の繊維が見えそうなほど透けている瞳、そして色白できめ細かくなった肌と何故か艶っぽく潤っている唇。


「なにこれ……ちょっと待て、なんなんだこれ」


 おれは思わず後ずさった。

 トイレと兼用になっている狭い空間だからすぐに背中が壁にぶつかる。

 鏡の中の自分と思いっきり目があって、おれは思わず叫んだ。


「カリン! あいつ呼んで来い!」


 凄まじい形相でトイレから飛び出してきたおれに、カリンは訝しげな顔をしたが、今までになく彼女を呼び捨てにして命令をしたものだから、こめかみを引きつらせ眉尻を跳ね上げはしたものの素直にコウモリ型に変化して飛び立って行った。

 そうして、さほど待たされずにあいつはおれの前にやってきた。

 ベッドに腰掛けて、自然と負傷した右肩を気にするように腕を擦りながら、苛立たしげに貧乏揺すりをするおれを見て、奴は遠慮しいしい声をかけてくる。


「えっと、あの、さっきは不意打ちしてごめん。その、何かあったの? 今度こそ愛想つかされたかなと思って、しばらく会いに来られないなって落ち込んでたんだけど、まさか君から呼んでくれるとは思わなくて……」


 椅子の背に脱いだ外套を掛けながら、訳のわからないことを口ばしっている奴を、おれは下から睨み上げて低く言い放った。


「ごちゃごちゃ言ってないでさっさと座れ。ちゃんと説明してもらおうか」

「え? 何を……あれ?」


 不機嫌になっているおれを刺激しないようにか、静かに腰を下ろした奴は、おれを正面から見るなりその表情を変化させた。

 小動物みたいにおどおどと窺っていたのが、眼を瞠ったかと思うと喜色の表情が顔中にぱぁっと広がったのである。

 その変わりようにおれは驚いて、睨んでいたはずなのに唖然としてしまった。

 何だかこいつ喜んでいないか? 心なしか頬を染めて……。


「……おまえ、なんでそんなに嬉しそうなんだよ?」


 すると奴はニコニコしながら言った。


「だって、ますます綺麗になってきたんだもん」

「はあ!?」

「確かに上質になってきましたわ。血だけじゃなく見た目も」


 いつのまにか奴の隣に控えていたカリンまでもが落ち着かなげにおかしな言動をする。

 何でそんな伏目がちでおれをしっかり見ようとしないんだろう?


「どうしたんだ? おまえら」


 おれは呆れてしまったせいか、さっきまでの怒りによって追求しようとしていた勢いを挫かれてしまった。

 しかしこいつらの様子は多分におれの外見を注視した結果表れたものだ。

 おれの見た目が変化していることを当然のように受け止め、しかも喜んでいる。

 おれは気持ちを奮い立たせてもう一度奴を睨んだ。


「ちゃんと説明しろよ」

「もちろん」


 語尾にハートが飛びそうな返答におれはまたも脱力するはめになった。






「つまりおれは、おまえらの世界に同調し始めてるってこと?」


 話を聞くうちにだんだんと痛み始めた頭を抱えて、おれは一体何度こいつらに打ちのめされなきゃいけないんだと、こいつに目をつけられてしまった自分を恨んだ。

 しかし、暗黒の世界に沈み込んでいくおれとは違って、ヴァンパイアのくせに天使のごとく煌めいた笑顔で今にも天国に羽ばたいて行きそうな奴らは、嬉々としてしゃべりまくる。


「オレは本当に君を食事として喰らうつもりはなかったんだけど、衝動的に咬みついてしまったから、君の血を少しいただいた時にオレの血を少し注ぎ込んだんだ。そうするとさ、刻印が刻まれて所有するのと同時にこちら側に同調させることもできるんだよ。だからはっきりと刻印が浮かんできたってことは、君の身体にその兆候が現れるってことなんだ」


 何だか聞き捨てならないことを言っている気がするんだが、こいつは。


「平気平気。心配しなくても全部真っ白に色が抜け落ちるわけじゃないから。たぶんこの変化の具合だと、最終的には銀髪で灰青色ブルーグレイの瞳になるんじゃないかな? いやでも瞳は他の色が出てくるかもしれない。瞳の色は持ち主の気質が表れるから、もしかすると緑色だったり金色だったりするかもしれないな。うーん、でもそれだと君のイメージじゃないし……カリン、おまえはどう思う?」

「そうですわね。髪や肌は薄くなっても意外と瞳の色は濃く変化するかもしれませんわね。過去に珍しい色を有した者ですと、リーベシェラン家の傍流に当たりますが、エステルン家の五代目ご当主が天然石にあります瑪瑙のように紅色の縞模様の入った珍しい瞳をお持ちでいらっしゃいましたわ」

「ああ歴史書で読んだ。そんな一族の話。催眠術が得意だった方だ」


 奴が手を打って頷くとカリンが満足そうに微笑んだ。

 まるで溺愛している教え子を褒め称えている感じだな。


「それから虹色を放つという稀に見る瞳のカルマル家の十一代目の方などは高い治癒能力をお持ちで名医であられましたわね。我らは能力を発揮する際、みな真紅に変化しますけれど、元来の瞳の色とはその方の存在を意識させるもの。我が主の碧玉の瞳は闇に立ち上る焔を意味し、圧倒的な力で闇を統べる絶対的な意志の強さと冷静な思考能力を表していますわ」

「いやいや、それほどでもないよ」


(勝手にやってろ)


 聞いていて馬鹿馬鹿しくも退屈になってきたおれは欠伸を噛み殺していると、いきなり顎をつかまれて上向かされた。

 ずいっとカリンが覗き込んでくる。


「しかしこの者は思慮深さに欠け短絡的であるのに落ち込みやすいという、難儀な性格をしておりますわ。まあきっと、ろくでもない鈍色に変化するんじゃありませんこと?」


 人形のような何ら感情の窺えない硬質的な瞳に見下ろされて、おれは嫌悪感を覚え思わずカリンの手を払い除けた。


「好き放題言ってんなよ」

「そうだぞ、カリン。彼の瞳はきっと類い稀な色味を帯びてくると思うよ。その証拠に妖しくも艶めいた色香を放ち始めている。嬉しくてたまらないよ、オレは」


 とろけるような笑みを向けられて、恥ずかしくなったが不気味にも思えた。


(なんだよ。いったいおれは、どうなってんだ)


 おれはとてつもない不安に襲われて自分の身体を抱きしめた。


「なぁ……」

「どうした? 寒いのか?」


 おれの様子を訝しんだ奴が腰を上げて近づいてくるのを慌てて制した。


「大丈夫だ! なんでもない。いいから座ってろ!」


 奴はおれの勢いに気圧されて動きを止めた。


「同調とか、同化って言ってたな。それってまさか、おれ、おまえと同じになるってことか? おれもヴァンパイアになるって、そういうこと……」


 しかし、おれは最後まで言えず奴の答えを聞くことができなかった。

 今日の天気は曇り空だった。

 雨をもたらすような雲が広がっているのではなく、太陽の光を和らげる程度の薄曇りなので、おれの背に射す光は弱々しくて優しかった。

 なのに、おれが抱え込んでしまった怖れや不安を待ち構えていたみたいに暗黒が押し寄せたのだ。

 窓いっぱいを黒い何かが覆い、一気にガラスをぶち破って襲い掛かってきた。


「な、なんだよこれ! コウモリ!?」


 コウモリの大群である。

 真っ黒に艶光りした羽と赤茶けた毛に覆われた腹とを見せながら、たちまちにして部屋の天井を覆い尽くした。

 奴がすばやくおれの頭から外套を被せて包み込むと、肩を引き寄せて抱きしめる。


「おい、ちょっ」


 抗議しようとしたが、まったく無視された。


「カリン! 結界が甘すぎるぞ!」

「ご冗談を! カーティナスごときに破られる結界ではありませんわ! これは、このコウモリたちはあの者の使役ではありません。一体何者の。ともかく払います!」


 おれは外套の隙間からカリンの様子を見ていて絶句した。

 彼女は少女の姿のままで、その背に大きな羽を生やしたのだ。天井を埋め尽くすコウモリと同じ、その巨大版を。

 そうしてそれを鋭く一閃させた。

 真っ黒だった天井に一本の線が入り淡い光りが差し込んでくる。

 途端に地響きがしたものだから、おれは慌てて奴にしがみついた。


「なに、なにが起こって」

「天井が崩れてくる。しっかりつかまってて。飛ぶよ」

「え? わっ、うわぁ」


 自分の身体に浮力を感じて、おぼつかない感覚に血の気が引いた。

 だがそれはつかの間で、気がつけばおれの足はちゃんと地についていた。といっても場所は何と、おれの部屋の窓から見えていた隣のアパートの屋根の上だった。

 声も出せずに視線をさまよわせていたら、とんでもない光景にぶち当たった。


「あれ、おれの部屋、だったよな……?」


 ここと同じ高さにあったはずのおれの部屋は、屋根である天井が崩壊し、壁も押し潰されたのか、半分以上中が丸見えの状態になっていた。


「一体誰が。まさかカーティナスは」


 すぐ傍で低い声がして、おれは隣に視線を移した。

 鮮烈な真紅の瞳が薄曇りの空を睨んでいる。

 端整な顔に怒気が含まれて異形の様相をしているというのに、何故かおれは以前のように恐怖を感じなかった。

 ありえなくて、否定したい気持ちを抱えながら、それでも思った。

 美しいと。





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