6.



 時々うつらうつらしていたかもしれない。

 でもしっかり眠れるはずもなく、例の少女には日が落ちてからもう一度痛み止めの薬とやらを渡されただけで他に話すこともすることもなかった。

 あいつがいつここへやってくるかもしれないという、その気配だけを探っていた。


(手、大丈夫だったのかな……)


 いや大丈夫であるはずがない。

 高温で熱した火掻き棒を握り込んだのだ、あいつは。

 盛大に火傷を負ったに違いない。

 皮膚が爛れて生々しい肉が曝され止めどなく血が流れた後、普段覆われていた肉は空気に触れたせいで醜く膨れ上がり血と水分とが膿みとなって溜まりはじめるだろう。

 その光景はもとより痛みなど想像するだけで力が抜ける。

 何十、何百もの小さな針を押し付けられた感覚と、心音とともに間断なくもたらされる鈍痛は熱を生み出し全身を苛むはずだ。

 おれは目眩を覚えて額を押さえた。

 大きく深呼吸して気を取り直す。


(けど薬があるんだもんな。骨折に効くんなら火傷にも効くんだろうし。うん、きっと効くはず……)


 言い聞かせながら、だんだん悲しい気分になってきたおれは知らず涙ぐんでいたみたいだ。

 鼻につんときて思わず口元に手をやる。

 後ろに少女の気配がしないから我慢しつつも鼻をすすっていると、目尻に温かいものが触れた。


「……痛むのか?」


 低く気遣わしげな声に、おれは驚いて振り仰いだ。

 そこには屈んで様子を窺っている奴の姿があった。

 窓から月明かりだけが差し込む部屋で、やわらかそうな金髪だけが一際眼についた。

 昼間は鮮やかだが、今は夜の色を受けて深く濃い色味の碧い瞳は切なく影を落としている。

 わずかに開いた唇が何か言いたそうだった。

 おれはまだ潤む視界の中で奴を凝視した。


「なんで……いつ、のまに、ここに……」


 泣いたせいではなく驚きと恥ずかしさでまともに言葉にならないおれに奴は小さく微笑んだ。


「ついさっき。玄関でカリンと話してたの気づかなかった?」


 言いながらおれの目元に指を這わす。

 おれの涙を拭った手には真っ白な包帯が巻かれていた。

 やけに白浮きして見えるから思わず視線を逸らせた。


「カ、カリンって、あの女の子のこと?」

「うん。オレの使役。元々は父さんに仕えてたんだけど何故かオレに鞍替えしてさ。使役なのにオレの目付役みたいになってるけどね」

「ふ~ん……」


 穏やかにゆったりと話す口調が耳に優しかった。


「さっきカリンに聞いたんだけど朝から何も食べてないんだって? 今、食糧を取りに行かせてる。ごめんな。あいつ融通が利かないから指令だって言ってんのにまともに果たそうとしなくて。でも古参だけに能力は高いから傍に置いとくのに一番いいと思ったんだ。色々と不愉快なこと言ったりしたんじゃない? そういう時は遠慮なく張り倒してやっていいからさ。口は達者でも君に直接実力行使することだけはできないから安心して粛清してやって」


 さらりと暴言を吐く相手におれは呆れた。

 仮にもあの女の子の姿を張り倒せるかっての。たとえ本性がコウモリだとしても。

 確かに散々嫌味を言われたが、ほとんどが愚痴みたいなもんだったし、まともに聞く気がなかったから大して傷つきもしなかったしな。

 そう思っていると頭上で吐息が聞こえた。

 ちらりと視線を戻すと、奴が椅子を引き寄せて腰掛けるところだった。

 いつものはにかんだ笑顔でこちらを見ている。


「……よかった。話、してくれて。今朝の様子じゃ二度と口利いてくれないと思ってたから」

「え?」

「君が怒るのは当然なんだ。勝手に刻印を付けたせいで他の奴らに狙われるようになって、そんな怪我を負わされたんだ。敵意を持たれて嫌悪されても仕方ない。だからこれからは姿を見せないように陰から守っていこうと思ったんだけど……どうしても会いたくなった。はた迷惑な言い分で悪いんだけど……」


 そわそわと落ち着かない姿は、何というか、何か間違っている気がするぞ。これじゃあ愛の告白をされてるみたいじゃないか。


(ヴァンパイアが人間に? しかも、おれもこいつも男だぞ)


 再確認する必要はないだろうに一応考えてしまうおれもどうかしている。

 こんな微妙な空気は落ち着かないので、とりあえず何か話さないとと思って出た言葉はますます深みにはまるだけだった。


「……おまえさ、今朝言ってたこと、あれ本気かよ?」

「あれって、君を守るって言ったこと? もちろん本気だよ。これ以上誰にも君に手出しさせないから。今回はこんな傷を負わせちゃったけど二度とないようにする」


(いや、だから、おかしいだろっ、その真剣な表情は!)


 おれは溜息をついて、よいせと身体を起こした。

 手を貸そうと腰を浮かせかけた奴を手振りで制して、再び目に入った包帯の手を見つめた。


「手、大丈夫なのか?」

「え? ああこれ」

「ごめんな。おれのせいで……」

「いや、気にすることないよ。ほら」


 するとあいつはおもむろに包帯を外し始め、すっかり取り去ると手のひらをこちらに向けた。

 それを見たおれは目も口も大きく開け放して驚いた。


「治ってる……」


 正確には丸見えになっていただろう肉の表面に再生した皮が覆い始めて、ようやく基盤が出来たみたいにピンク色の柔肌になっている状態だった。

 半日でここまで治癒されるとは普通の人間なら考えられないことだが、そこはそれ、こいつはヴァンパイアだ。一体どんな方法を使ったのかわからないが、爛れた様子もなく、このまま痕が残らず完全に元通りになるのだろうか。


「なんていうか、おまえって」


 便利と言おうとして口をつぐんだ。まさか痛みを感じないわけじゃないだろうと思ったのだ。


(腹が減ったりするんだしな。治りが早くても受けた時の痛みはおれらと同じようにあるのかもしれねえし)


 おれはわざとらしく顔をしかめて奴の手のひらを覗き込んだ。


「これ、このまま綺麗に治るのか?」

「うん。明日になれば痕も薄くなってくるよ。全然心配ない。オレは傷ついても平気だから気にしなくていい。それより本当に二度とあんなことしないでくれよ。悪いけど焼いても消えないものだから、それ」

「えっ? これ消えないのか? 焼いてもえぐっても?」


 今度はあんぐりと口を開けたまま閉めるのを忘れるほど衝撃を受けた。

 冗談じゃない。刻印が消えないってことは……。


「えぐってもって、そんなさらにひどいことを。残念ながら何をしてもダメです。傷ついて痛いだけだから絶対しないで」


 奴は苦笑しながら駄目押ししてくれた。


「嘘だろー。おれ一生おまえの所有物になるってこと? なんだよそれ!」


 頭を抱えるおれに奴は小首を傾げて可愛らしくニッコリと笑った。

 そして爆弾宣言。


「大丈夫。大事にするから」

「やめろって言ってるだろ! 気持ち悪い!!」


 しかし、おれがいくら突っぱねて罵倒しても何故かあいつは笑顔を崩さなかった。

 どうしてそんなにおれを構うんだろう。

 最初は上等の餌であるおれを他の連中に取られたくないから見張るために傍にいるんだと思っていた。だがこいつはおれを喰べないと言う。

 我慢してまでおれを構う理由は何なのか。


(まさか“恋”とか抜かしやがったら遠慮なく張り倒してやるんだけどな)


 帰ってきたカリンに、おれに見せる態度とは百八十度違った高圧的な態度で食事の用意をさせている後ろ姿を見ながら、おれはそっと吐息した。

 もう一つわからないことがある。

 おれはヴァンパイアにとって最高級とまで言われる血肉の持ち主らしいが、これまで生きてきてヴァンパイアに襲われたのはあいつが初めてである。

 それまで一度たりとも襲われたことはない。人間以外に。

 人間でも遭いたくはないが多少経験があるのだ。

 スリを筆頭に引ったくりや通り魔のような暴漢に突然襲い掛かられたことは過去三度あった。

 この間の市場での一件を入れると四度目になるか。

 でも幸い実害はなく、ああいう輩は見た目で判断して隙を狙ってくるものだが、おれは一見ぼんやりして見えて何事も反応は早いほうだ。特に一人で路地を歩いたりする場合は手を出されても即時かわすか反撃できるほど敏速なのだ。喧嘩慣れしてるわけじゃないけど自衛はできるつもりだ。

 この間みたいに人ごみの中だと気配が探れず鈍い反応を示してしまったが大抵は回避できた。

 どちらにしろ相手はみんな人間である。魔の世界の住人という異様な性質を持った生き物に襲われた経験は一度もなかった。

 おれが奴らにとって最高の獲物だというのなら何故今まで襲われなかったんだ?

 どうして今になって、あいつがおれを襲うことになった?

 いったいこの事態の始まりはどこからなんだろう。

 追求するのは簡単なはずなのに何故だかおれは聞くのをためらっていた。


(あいつは自分が刻印を付けたせいで他の連中がおれを喰いものだとわかってしまったって言うけど、あいつおれに咬みついた時、美味しそうだって言ったよな? だったら元からおれって餌の対象になってたってことじゃねえの? なのにそれまで襲われたことは一度もない。てことは、あいつがおれに咬みついた最初の原因はなんだ? そんで刻印を付けたことによっておれはさらに高級品になってしまったと。なんであいつは、おれに咬みついたんだ……)


 胡坐をかいた状態でずっと白く輝くシーツの皺の影を見つめていたが、ふと窓の外を見遣った。

 真っ黒な背景にぽっかりと浮かぶ白い月。

 煌々と放つ光がおれを照らしている。

 トクン、と鼓動が耳を打つ。

 月は生命の静と動を操ると云われている。欠ければ気力を殺がれ満ちれば体力や筋力が漲るのだ。満月の夜に生命が誕生しやすいのは母体にエネルギーが満ち、子が目覚めの時を悟るからだとか。

 おれは普段から天気に気分が左右されやすいほうだが近頃では月の変化にも敏感になっていた。満ち欠けなんか気にならなかったのに月を眺めている時間が増え、刻一刻と変わる姿を確認するようになっていた。

 おれの中で何が起こっている?


「おまちど~。できたよ」


 トレイに料理の皿を乗せたあいつがキッチンから出てきた。

 ゆっくり振り返ったおれに奴は目を瞠った。

 その瞳に恍惚とした欲情が浮かんでいるのをおれははっきりと捉えた。

 やっぱりこいつはおれを喰いたがっている――。






 状況がどんどん悪化しているのは明らかだった。

 今朝の新聞の一面に大きく取り上げられていた記事が町中を震撼させるほどひどい猟奇事件だったのだ。

 昨日の夜半頃、ある屋敷の主人やその家族、召使いにいたるまで一人残らず殺されたのだという。

 しかも遺体のすべてが身体は衰弱し首から上の頭部がないという残忍で凄惨な有り様だった。

 警察はただちに対策本部を設置し大々的な捜査を開始したらしいが、有力な手掛かりは何も見つかっておらず、検視のため遺体の回収に当たった者の中に失神者が出るなど精神的なダメージは相当大きいようだった。

 この事件が何故おれの現状に関わってくるのか。新聞を持参した金髪の少女カリンが主に手渡しながらこう言ったのだ。


「まったく食事の仕方もなってませんわね。さっさと始末しませんと一族の恥ですわ」


 つまり、事件の犯人がおれを狙っているカーティナス男爵の仕業だというのだ。


「……変貌しはじめたのか。奴はもうヴァンパイアとは言えないな。ただの飢えた化け物だ」


 そう吐き捨てたあいつの表情は侮蔑に満ちていた。





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