5.



「はあ……」


 いったい何度目の溜息だろうか。

 おれはベッドに胡坐を掻いて座り込んだまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 もう日が傾きかけている。

 安アパートが連なっているこの通りの一角に部屋を借りた理由は、ちょうど四階にあるここの窓から外を見ると、すぐそこに迫っている隣家の壁が途切れているおかげで空がちゃんと見えるからだった。

 その向こう側の建物がここと同じくらい高さがあって、さらに奥にも尖った屋根が見えたりで視界がすっきり開けているわけじゃないが、一部分だけでも窓から天空が見られるのがよかった。

 でも見るもの、特に色彩によって気分が左右されるおれとしては、曇っていたり雨だったり暗い色に覆われたりすると気持ちが塞ぐこともあるけど、壁しか見えないよりよっぽどマシだと思っていた。

 今はオレンジ色に染まった雲が浮かんでいる。

 きっと果てのないずーっと先まで広がって悠然と漂っているんだろうな。

 雲を見ていると“自由”を感じる。何にも束縛されず気の向くままに漂っているだけ。

 目的はあるんだろうか。自然にも摂理がある。雲も太陽と同じように何かを地上にもたらしているわけだし、あそこに浮かぶ雲もきっと場所によっては雨雲に変わったりして雨を降らせる役目を持っていたりするんじゃないだろうか。

 ……なんて、いつまでも現実逃避できればいいんだけどな。

 正直言うと、空を眺めている以外に視線を移せないからずっと窓に顔を向けていたのだ。

 というのも、くるりと反対側へ向こうものなら、今でも後頭部に突き刺さっている厳しい視線とぶつかってしまうからだ。

 あれからずっと全身黒ずくめの金髪巻き毛の少女が、おれを監視していた。

 あいつが出て行って取り残されたおれたちは、しばらく睨み合いが続いていたが、心身ともに疲れていたおれは早々にリタイヤした。

 おれが動くことで少女が何を仕掛けてこようと構いやしないと投げやりな気分で立ち上がり、またベッドに戻ったのだった。

 その後を付いてきた少女は椅子をベッドに引き寄せて、きちんと上品な仕草で腰掛けると視線をひたとおれに当てて固まったのである。

 それから今までおれがしたことといえば手洗いに行ったり、食欲がまったくわかないので水を飲む程度で済ませたり、教材の画集をパラパラめくってみたりと、他愛のない行動のみだった。

 ところがバイトのことを思い出し昨夜無断で休んだこともあって、これはまずいと着替えようとした時だ。

 自分の腕を見てこれではまともに働けないかもと落胆しつつ、それでも顔を出さなければと急いで支度を始めたら、この少女が遮ってきたのだ。


「出掛けてはなりませぬ。動かれては面倒なことになるだけですわ。主の沙汰あるまで控えていなさい」


 さっきより言葉遣いが丁寧になっていたが高圧的なのに変わりはなかった。

 とんでもない騒動に巻き込まれた上に生活まで狂わされるのはごめんだったので、おれは当然反発した。


「それはそっちの都合だろ。おれにはおれの都合があるんだよ。バイト、クビになったらおれは生活していけねえし、ろくに食っていけなくなる。そうなったらおまえらに殺される前に死んじまってるよ。血を吸われて干乾びるのはごめんだけど、餓死して干乾びるのも冗談じゃねえ」


 相手の反応など待つつもりもなく、左手だけで何とかズボンを履き替えて上着を引っ掴むと玄関に向かった。


「……まったく身勝手も甚だしい人間だこと。それなのにあの方は何故こんな者のために手を尽くすのかしら」


 後ろでぶつぶつ言っているのを無視して扉を開けようとしたが、どうしてだか開かない。

 施錠していた鍵を外したというのに、後は押せば開くはずなのにいくら押してもびくともしないのだ。


「おい、おまえ扉になにしたんだよ!?」

「結界を張ってありますの。“魔”の力はもちろん、物理的な力も通すことは敵いませんわ」

「はぁ? なんだよ、そのけっかいって」

「いちいち説明する気はありません。ここでじっとしていることですわ」

「なに勝手なことぬかしてんだ! もうむかつく! あのボケ、今度はおれを閉じ込めとく気か!」


 一度は頭に血が上ったおれだったが、その勢いも一気にしぼんだ。

 右肩がしくしく痛み出したのだ。怒るのも疲れてきた。

 玄関にしゃがみ込んで溜息をつくおれに、近づいてきた少女はすっと手を差し伸べてきた。まさか手を貸す気かと顔を上げると無表情を貼り付けたままこう言った。


「そろそろ痛み止めが切れる頃でしょうね。これをお飲みなさいな」


 見れば小さな手のひらに楕円形の固形物が乗っていた。


(あのとき飲まされたやつか……)


 思い出してうんざりしたおれは、少女を無視して立ち上がるとベッドへと戻った。

 腰掛けて肘を突いた左手に頭を乗せると眼を閉じた。

 右肩の痛みが間断なく襲ってきて徐々にひどくなる予感がする。ということは奴に飲まされた薬はちゃんと効いていたということか。しかし本当に人体に影響がないなんて今の時点でわかるわけがない。後遺症なんて出てきたら最悪だ。

 すると頭上で溜息が聞こえた。

 目を開けると視界に映る床に黒光りする編み上げブーツがあった。

 少女が目の前に立っている。


「死ぬのはいやだと言っておきながら痛みに苛まれるのは好むと言うの? 人間にしては楽しい趣味をお持ちね。それはそれでよろしいのですけれど、わたくしは主より薬を定期的に飲ませるよう命令を受けています。自分で飲めないというのなら、わたくしが飲ませて差し上げますわよ。主と同じように口移しがよろしい?」


 おれは鈍痛はもとより脱力感にも苛まれながら、ゆっくり顔を上げた。


「……飲まへんかったら実力行使に出るって言うわけ?」


 ずいっと近づいてきた少女におれは仰け反った。慌てて顔に手をかざして拒絶する。


「わかった、飲むよ」


 渡された固形物を見つめ「……なんかおれ、とことん情けないな」と呟きながら観念して飲み干した。

 虐げられた娼婦のように横倒しになって枕に突っ伏していると、カタリと床を鳴らす音が聞こえた。きっと少女が椅子に座ったのだろう。


(バイト、ほんとにどうしよう。無断で二日も休んだら親父さんカンカンに怒るだろうなぁ。確実にクビ決定だよ。また職探ししなきゃなんねえのか……)


 いくら嘆いても誰も助けてくれやしない。

 せめて大家さんに伝言を頼めたら何とかなるのに、ここから出られないんじゃどうしようもない。

 現代の科学では"電子通話"なんていう電波を使って遠く離れた相手と会話ができる通信機器が開発されたそうだが、そんな高等なもの一般に流通されるのはまだまだ先の話だ。おれが生きている間に浸透するかどうか。

 科学っていうのは莫大な資金があってこそ研究が続けられるものだ。だから当然結果がもたらされるのは資金源である上流階級の人間が最初になる。一般市民はその研究に携わったのならともかく、何もしていないのに分け与えてくれなんて言えるはずがない。恩恵に与れるようになるまで待って当然なんだ。


(ああだめだ……余計なことばっか考えてしまう)


「バイト、どうすりゃいいんだ……」


 知らず呟いてしまった言葉に少女が反応した。


「おまえの仕事については主が店主に話をつけてありますわ。大層な怪我を負ったのでしばらく勤められぬと、おまえが抜けた穴埋めに代わりの者を用意してまで、おまえが辞めさせられぬよう配慮なさいましたのよ。それをおまえは情けない癇癪を起こして主に怪我を負わせるなどという恩を仇で返すような真似をするなんて、あまりの馬鹿さ加減に閉口しましたわ。そろそろ己の立場を自覚しなさいな」

「……あいつが親父さんに頼んだ?」


 おれは茫然と少女を見返した。

 しかし見ていたのは記憶している奴の顔だった。

 浮かんだ顔は小首を傾げてはにかむ笑顔。


(そういや、いつも笑ってるな、あいつ……。けど、さっきは)


 真っ赤に染まった火掻き棒を握り締めて、その顔はおれから視線を逸らし苦しげに歪められていた。

 歯を食いしばり眉を寄せて、瞳は涙で潤んでいるように見えた。


(おれが、あんな顔をさせたのか……)


『全身全霊を懸けて君を守る! だから二度とこんな真似はするな!』


(なんであんなこと言うんだ)


 わからなかった。あいつの真意が。

 獲物であるはずのおれにあんなことを言うあいつが。


(おれには全然わかんねえ……)


「なあ、あいつ今どうしてんの? どこ行ったのかわかってんのか?」


 少女に視線を合わすことなく、おれは訊ねた。


「おまえが知る必要のないことですわ。それよりも今度主の前に立つ時がきたら贖罪を請いなさいな。カーティナスなどという下級魔に食されるより主の血肉となることがどれほどの栄誉であるか。同じ餌でもおまえは主と巡り会えたことを幸運と思わなくてはね」


 まったく好意的とは言えない笑みを作った少女に嘆息しながらも、おれはもう一つだけ質問をした。


「あいつってヴァンパイアの中でもそんなに上の位なのかよ?」


 少女は一瞬眼を剥いたが、諦観の面持ちで答えた。


「人間が無知であることは今更はじまったことではありませんでしたわね。しかも低能であるおまえに話して理解できるかわかりませんけれども教えて差し上げますわ」


(いちいち余計なこと言うよな、この子)


 おれはとりあえず口を挟まずに聞くことにした。


「我が主はヴァンパイア一族の長であるフォン・グランヴィークス侯爵家のお血筋であり、ご自身も伯爵の家格を持つフォン・リーベシェラン家の嫡子としてお目覚めになられましたの。覚醒の儀の際、その潜在的資質とご容姿のお美しさから侯爵さまより"闇の焔"の称号をいただくほど麗しくも強大な力を秘めた方なのです。本来なら御自ら人間界などに出向いて狩をせずとも食事に不自由することはありませんのに、気まぐれから周囲の反対を押し切って降りてしまわれたのです。お目覚めになられてまだ二十余と、お若いせいかもしれませんけれど、好奇心もほどほどになさいませんとお父上さまよりまたどのようなお叱りを受けるか、跡をお継ぎになるのも時間の問題ですのに、なぜあれほど人間に執着なさるのか。ただの食糧に過ぎませんのに困ったものですわ……」


 後半がすっかり愚痴っぽくなっている少女に、おれは呆れ返ってしまった。

 敬っているわりにしっかり不満を抱えてるじゃないか。

 それにしても血筋がどうとか称号がどうとかさっぱりだが、あいつが一族の中で上流階級の地位にあり“お坊ちゃま”だということはよくわかった。

 おまけにおれはますます厄介な境遇に立たされているのだと、無理矢理でも自覚するはめになってしまった。


(守るだなんて。確かに位は高そうだから下っ端からは守ってくれるかもしれねえけど、結局あいつに喰われる運命なんじゃねえのか? 自分は喰わないって絶対無理な話だろ)


 奴の真意など考えたところで無駄なのかもしれない。

 なのにあの時の哀しげな顔が嘘だとは思えないし、吐き出された言葉が耳について離れない有り様だ。

 信じていいのか?

 もうすぐ日が暮れる。

 あいつが戻ってくるかもしれない。

 ……戻ってくるかな?


(どんな顔して会えばいいんだよ……)


 おれの中で気まずい思いがどんどん膨らんでいくのを感じた。





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