3.



「お、目が覚めた?」


 太陽の光をさんさんと浴びて優しく微笑んでいるその人は……。


「気分は? 頭痛くない? 吐き気は?」


 首を傾げて覗き込んでくるその顔は……。

 金髪碧眼の、おれの血を吸ったヴァンパイア。


「……おまえ、なんでここにいんの?」


 寝返りを打った途端にツキンと頭に痛みが走って、おれは思わず顔をしかめた。

 枕に顔を埋めて深い息を吐き出す。

 その頭上で気遣う声がした。


「大丈夫か? まだ酒が残ってるみたいだな。水か、それともあったかい飲み物のほうがいい?」

「ん……水でいい」


 言ってしまってから、遠慮のない会話をしている自分に不自然さを感じて頭を起こそうとした。

 ところが、「はいよ、待ってな」と離れ際に髪をくしゃくしゃっと触られて、ますます妙な気分になる。


(なにこの親しげな会話は)


 それに……。


「おれ、いつのまにベッドに入って寝たんだろ……?」


 昨夜の記憶が途中から曖昧になっていることに気づいた。

 あの男を食事に招待してワインで乾杯したのは憶えている。その後ヴァンパイアについてウンチクを語られ、おれの血を狙っている奴の正体が知れた。それがおれの財布をスリの手から取り返してくれた紳士だということでがっかりしたのも憶えている。それからは痣がどうとか、所有がどうとか……。


「はい、水」


 眼の前にグラスを差し出されておれは顔を上げた。

 にっこり笑う相手に一瞬躊躇しそうになったが、眉間にぐっと力を込めて睨みをきかせた。

 水を受け取らないまま問い質す。


「おまえさ、昨日からずっとここにいたのか? おれになにもしてねえだろうな?」


 すると奴はきょとんとした顔になり次いで破顔一笑した。愉快そうにケタケタ笑うから気分が悪いったらない。


「なにがおかしいんだよ。おまえはすでに一回おれのこと襲ってんだぞ。そんで勝手に所有したとか抜かして、おれが寝てしまったのをいいことに、ちょっとくらい血を吸ってもとか思ってもおかしくねえんじゃねえの?」


 ふくれっ面で言うと、奴は笑いの収まらない顔をずいっと近づけてきた。


「襲ったほうがよかった?」


 見れば瞳の色が碧から赤へと徐々に変化していくではないか。


「おいこらちょっと待て!」

「待てない」

「バカ!」


 突き出した腕を押さえ込まれたまま倒されて圧し掛かられたおれは焦って暴れたが、こんなやわな体格をしていてこいつはやたら力が強かった。それに赤く輝き始めた瞳に射竦められて、何故か抵抗する意思を弱められてしまう。まさか魔力というやつだろうか。


「離せよ!」


 首筋に唇の触れる感触がして、おれは思わず眼を瞑り絶叫してしまった。


「やめ――!」


 しかしチクリと刺す刺激がくるかと思いきや、ざらりとした生暖かい感触がした。

 な、舐められた?

 ひくついた息の吸い方をして、ゆっくり眼を開けると、そこには碧い眼に戻り苦笑した奴の顔があった。


「少しは信用してほしいなぁ。最初に理性があるって言ってくれたのは君だよ? 無理矢理襲ったり寝込みを襲うなんてするつもりないから、ほんとに」


 ぽんぽんと落ち着かせるように頭を撫でると、奴は額に一つキスを落とした。


「何か食う? あるもの使っていいなら軽く食事を作るよ?」


 そう言ってキッチンへ向かう奴の声を聞きながら、おれはゆるゆると息を吐いた。

 心臓がまだバクバク言っているのがわかる。ベッドから奴の重みが消えて周囲の空気がいつもどおりになっても気分はどんより沈んでいた。

 あいつはやっぱり人間じゃない。ああやって時折見せる魔の姿は何の抵抗も許されないほど怖ろしく感じる。


(ほんとに襲われたら一巻の終わりだな……)


 溜息とともに身体を起こして、ふと気づく。

 震える手で額に触れて、おれは再び絶叫した。


「おいっ! 今の、おれのおでこになにした!?」





  ✠





 今日は午後から講義が一つ入っていたが、起きたのが昼近くだったしひと悶着があったしで出る気にならず、夜のバイトの時間まで公園で写生でもすることにした。

 スケッチブックと色鉛筆のセットを片手に町外れの公園まで足を伸ばす。

 中天へ昇った太陽は薄雲がかかって少し日差しが穏やかになっていた。


(そういやあいつ、ほんとに太陽の光平気だったな。カーテン全開にした部屋ん中歩いて平然としてたもん。まったく、とんでもねえ奴と関わってしまったなぁ)


 ワイン如きで酔っ払って意識を遠ざけてしまったおれもおれだが。いくら家に呼んだからって警戒すべき奴であることに違いないっていうのに、あっさりと寝こけたおれもおれだが。

 二日酔いで頭を抱えているおれを押し倒して額にキスするなんて。キスも刻印をつける手段とか言わなかったか、あいつは。


「だーいじょうぶ! 純粋にキスしただけで何の力も注いでないって。だから痣が浮かぶこともないよ。ほんとにほんと!」


 仁王立ちして睨むおれに、あいつはへらりと笑み崩れて弁解した。


「だって首に咬んだので充分だもん。たださ、さっきのはちょっと怖がらせたなと思って。悪い、襲わないなんて言っといて身動き取れないような真似してさ」

「……二度とするなよ。でないと、おまえのこと金輪際信用しねえから。おれの血を吸いたがってるただの化け物としか見れないから」


 あいつは薄く笑んで頷いた。傷つけたかも。そう思ったけど、ちゃんと釘を刺しておかないと、もしまたじゃれるかなんかしてて本気にならないとも限らない。

 きちんと一線を引いておかなくては。

 おれはもう何度目になるかわからない溜息をついて、いつもの噴水前のベンチに腰掛けた。

 町から外れているだけに広大な土地を使って、ゆったりとした空間を造っている公園だ。

 いくつか散歩道があって、背の高い常緑樹が並ぶ小道はすべて傾斜がゆるやかであるため、恋人たちだったり老夫婦だったりが気ままに散歩している姿をよく見かける。

 所々に東屋が立てられているので、独りでのんびり読書するのにも適した場所だった。

 おれはいつもこの公園に来ると、まずはこの噴水前に座った。

 水の流れる音や雫が飛び散る風景を何の気なしに眺めていると気分が落ち着くのだ。

 決まった形を取らない水。自由な風によって色々な形に変わる。変わらされる。どうとでもいいように受身に見える姿が逆に力強く感じる。風をしっかり受け止めている気がするのだ。何だかすごく心が広いなぁと思ってしまう。

 実はスケッチブックを持っていたとしても、この噴水を描いたことは一度もない。流れる水の雫さえも。

 描くのはもっぱら人物ばかりで、たまたま通り縋る人たちで眼に留まった人を記憶して、あとは想像を付け足しつつ気ままに描いているだけなのだ。

 だから今日も噴水の水を眺めているうちに興味の惹かれる人を見かけたら筆を走らせるかもしれない。

 その程度だったから、陽気な天候のせいで少し眠っていたみたいだった。

 自分の中で意識が目覚めたいと浮上してきたのか、あるいは何かに呼ばれたのか、覚醒するとともに視界に入ってきた風景がいつもと違っていた。

 噴水の向こう側、水が吹き上げては落ちる透明な幕の向こうに女の人が立っている。

 その姿が水の遮りでぼやけているだけなのに、幻想みたく不思議に美しく見えたのだ。


(かげろう?)


 おれは一瞬その姿に目を奪われた。

 長い銀髪が風に揺れている。さらさらと細かな音がしそうだ。襟元をレースであしらった全身真っ黒のドレスを着ている。絹かな? 光に反射して艶やかで黒なのに暗い印象を受けない。胸元で結ばれたリボンが髪と同じように揺れていた。


(誰だろ? なんかじっとこっちを見てるような気がするんだけど……)


 おれが首を傾げると、その女性はふわりと微笑んだ。

 驚いたが、たちまちさっきまでの幻想が吹っ飛んだ気がした。

 現実に経ち返ったおれは真顔のまま視線を逸らせる。リアルに人の視線を感じると居心地が悪くて勝手に見るなという気になってしまう。自分も相手を見ていたくせに、ただ気まずいだけじゃないか。

 おれは立ち上がって場所を移動しようとした。

 その刹那。

 一陣の風が地面から巻き上げるように吹きつけてきた。

 おれは思わずスケッチブックを盾に顔を覆い風が通り過ぎるのを待つ。

 視界の隅で噴水の水が滅茶苦茶に飛ばされるのを見ながら、さっきまで立っていた女の姿がないことに気づいた。


(……どこかに行っちゃったのかな)


 それ以上気にするでなく、緩やかになった風にほっとしながら顔を上げると、眼前を銀髪が流れた。

 驚いて横を向けば、噴水の向こう側にいた女が隣に立っていた。


「な、なんですか、あんた……」


 相当まぬけな顔をしていたと思う。

 相手はおれより背が高かった。顔を見るのに見上げる形になったので内心ちょっとムッとした。


「あなた、いい香りがするわ」

「は?」


 突然微笑まれて言われた台詞がこれである。どこかで聞いたなと、おれは予知夢なんて見る人間だったかと呑気に考えていたのがまずかった。

 気づいた時には頭を鷲掴みにされて力任せに首を傾けられた。グキッと首の根本でいやな音がして痛みが走る。そして視界に映るのは女の口がぱっくりと裂けて鋭い牙が光るのと、真っ赤に血が滲んだように見開かれた異様な眼。


(ヴァンパイア――!!)


 何でこんな昼間っから! なんて文句をぶちまけている場合じゃない。今まさにおれは喰われようとしている。


(この眼を見たらだめだ! 力が抜けてしまう!)


 固く目を瞑って、おれは力任せに持っていたスケッチブックで相手を殴りつけた。同時に蹴りも見舞ってやるが当たった感触がない。

 それでも頭を掴まれていた手が緩んだ隙に払い除けようとしたが逆の手で横っ面を張り倒されてしまった。

 これが強烈で、おれは簡単に噴水の縁まで飛ばされてしまう。

 肩をしたたかにぶつけて痛みに動けなくなってしまった。うずくまって荒い息を繰り返しながら激痛に耐える。


(なんだよ、もう! ……まずい、まずいぞ。早く逃げねえと。化け物を相手に敵うわけない。どうにかして逃げるんだ!)


 焦って気が逸るものの身体が動かない。


(あいつ、あのバカ! 守るなんて言っといて今ここにいなかったら意味ないじゃねえか。こんな昼間っから襲われるなんて聞いてない。好き勝手してくれて、こんな化け物のターゲットにしてくれて、恨んでも恨み足りない。ほんとにあのバカ、まぬけ、ほら吹き野郎!)


 近づいてくる化け物から何とか遠ざかろうと地面を這いながら金髪碧眼の男を罵った。

 と言っても、今朝、問答無用で部屋から叩き出したのだ。二日酔いで気分が悪かったせいもあって、遊び半分に襲われたことにムカついたおれは、傷つける言葉を放った挙句にさっさと帰るように言ったのだ。

 あいつは何も言い返さず素直に出て行った。


「また今夜、店に行くから」


 そう言い残して。


「今夜なんて、遅いだろ……」


 覆い被さってくる女ヴァンパイアを見据えながら呟いた。

 ひゅっと息を吸い込んで思いっきり足を振り上げた。今度は見事相手の胸に入り仰け反った瞬間を逃さず、おれは痛む身体に発破をかけて一気に駆け出した。


(誰か、人!)


 なのに何でこういう時に限って人通りが少ないのか。

 おれは木々の合間を縫って、せめて相手の視界を惑わせられるように道から外れて走った。

 穏やかな陽光に照らされた天気とはいえ、まだ冬の季節は過ぎ去っていない。上着や外套が手放させない時期だというのに、おれは上着が邪魔くさく感じるほどべっとりと汗を掻いていた。

 額に張り付く髪を払うのすらできないほど余裕もなく走り続けた。

 だが、化け物とは普通の人間と何もかも違っているから化け物と呼ばれるのであって、ただの女に追われて振り切れないはずがないのだ。

 女ヴァンパイアはふわりと衣擦れの音だけをさせて、おれの目の前に降り立った。


「飛んでくるって、反則、だろうが……」


 おれは懸命に呼吸を整えながらも時折激しく咳き込んだ。さっき打ち付けた肩に激痛が走る。押さえている手のひらに熱が伝わってくる。折れたか脱臼したか危険信号を放っているかのようだ。

 女はゆっくりと近づいてくる。


「おまえ、おれが、誰の、所有か、わかってんのか。く、喰ったら、そいつが怒るぞ。食べもんの恨み、怖いっていうからな、う……」


 一瞬意識が朦朧とした。膝から崩れ落ちそうになるのを何とか耐えて身体を支えようとするが、もう限界が来ている。

 女がニヤリと笑った。


「私は捕獲するだけ。喰すのは旦那さま。でも少し味見するくらいいいわよね?」

「か、勝手なこと、ほざくな」

「まったくだ!」


 またしてもおれの視界に黒い物体が頭上から降り立った。

 細くてやわらかい金髪が見える。


「おまえ……」

「ごめん、遅くなって。カリン! 貴様、あとで仕置きだ」


 誰に向かって言ったのか、奴は鋭い声を放ったかと思うと、あっというまに女ヴァンパイアとの距離を縮めた。

 女の断末魔が響き渡る。

 ここからでは奴の身体で相手がどうなっているのかわからない。

 だが、一つだけ想像できることは奴が女の首に咬みついているんじゃないかということだけだった。





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