4.



 女が奴の足元に倒れ込んだのを見て、おれもまたその場に崩れ落ちた。

 もう限界だった。激しく脈打つ肩を押さえて痛みに耐える。

 ぼんやりした視界の中で、同じように横たわった女の顔が徐々に形を失っていくさまを見つめた。それこそ灰になって風に吹かれているのだ。


(死んだ、ってことなのか? あれって……)


「大丈夫か!?」


 鋭い声を放って、あいつが傍らにしゃがみ込んできた。

 おれは視線を上げるのも億劫で、女が纏っていた黒い服までも細かな塵となって風に乗っていくのを見つめているだけだった。


「ごめん、来るのが遅くなって。すぐには仕掛けてこないだろうって甘く考えてた。念のために使役を付けてたんだけど、あの馬鹿! 助けない上にヴァンパイアが出現したことをオレに知らせも寄越さなかった! 刻印を付けてるから獲物に血が流れると感知することができるんだけど。それじゃあ遅いのに、ほんとごめん」


 勢いよく捲くし立てていたけど、おれは半分も聞いちゃいなかった。というか聞く気力を失っていた。でも何とか一言でも文句を言ってやりたくて懸命に声を出そうとするが、出た言葉は文句じゃなくて世の中と決別しようとしていた。


「疲れた……おれ、もう、このまま死ぬわ……」

「何言ってんの」


 ゆっくりと身体を抱き起こされる。動くことで肩だけじゃない身体のあちこちで軋みを感じて息を詰めた。

 こらえるおれの耳元で奴が囁く。


「……折れてるかもしれないけど大丈夫。今すぐに痛みは取ってやるから」


 そう言うと、おれの口元に何か固形物を押し当てた。


「飲んで。痛み止めだから。即効性があるからすぐに効くよ」


 しかしおれは何を飲ませる気なんだと、奴を信用できなくて口に含もうとしなかった。

 普通に考えて、こんな痛みがすぐに取れるような薬があるなんて聞いたことがない。世間一般に売られている痛み止めはせいぜいが頭痛や歯痛を抑えるぐらいだ。骨折しているならそれに対する根本的な治療がなされていない状態で痛みが治まるなど考えられなかった。

 ということは、こいつの世界で勝手に処方したものであり、普通じゃ手に入らない魔の要素が加わった代物に違いないのだ。そんなものを口になんかできるか。

 ところが奴は頑なに拒んでいるおれに脅しをかけてきた。


「自分で飲まないならオレが飲ませるよ。どうするかわかるだろ? 心配しなくても痛みを抑える意外に害はない。君が不安に思うようなことは絶対ないから、騙されたと思って飲めって」

「……もうとっくに騙されてるじゃねえか、おれ」

「屁理屈言わない」

「おれ、ほんと不幸だ……おれの運命は狂わされたんだ……」


 熱に浮かされたように、いや実際、怪我のせいで体温が上がっていたと思う。意識が朦朧としてきたのだろう。自分でも何を言っているかわからなくなっていた。


「ほら、しっかり。飲んだら楽になるから。そしたらいくら寝ててもいいから飲みなさい」

「命令すんなよぉ」

「しょうがないな。後で怒ってもオレのせいじゃないからな」


 確かに何をされるかわかっていたが、これ以上拒否する力は残っていなかったし、どうでもいい気持ちになっていた。

 頬に手を添えられると唇が押し当てられた。わずかに開いていただけの唇の間に奴の舌が入り込んできて歯列をなぞる。さらにその奥へ進もうとしているのだ。

 おれはすぐに観念した。いつまでも男のキスを味わっていたくなんかない。

 すると開いた口腔内に固形物が転がり込んできて、あっというまに喉に差し掛かったものだから慌てて飲み込む。水もなしに飲み込んだせいで食道を通過していくさまがありありとわかるし、道内の壁に当たって痛みまで生じた。

 おれは喉を押さえて咳き込んだ。


「カリン、噴水へ行って水を持って来い」


 背中をさする優しい動きとは逆に低く威圧的な言葉が頭の上で聞こえる。

 それまで奴以外、誰の存在も感じなかったのに、かすかに何かが動く気配がした。

 その方向へと視線を向けると、うっすらと影が飛び立つのが見えた。

 だがそれ以上は目を開いていられなかったし、少しずつ身体の痛みが溶けていくのも感じて、深く長い息が漏れていく。目を閉じて自然と奴の胸に頭をもたせかけた。ほんのわずかでも動くことを拒否したい気分だった。


「寝てていいよ。ちゃんと家に連れて帰るから」


 その囁きが耳に心地よく響き、おれは静まっていく痛みと一緒に訪れる脱力感に包まれながら眠りに落ちた。






 次にきたおれの覚醒は決して穏やかではなった。

 というのも、自室にいて普段ならありえない喧嘩をしている怒声が目覚めを促したからである。


「おまえはオレをなめてんのかっ!」

「ご冗談を! それは確かに舐めることができればこの上ない喜びですけれど、そ・ん・な・こ・とっ。わたくしたち主従関係でありながらそのような行為に挑みましたらば、いかな気高いお血筋の旦那さまとて品位を疑われてしまいますわ。もちろんわたくしは拒みは致しませんけれども」

「気色の悪いこと言ってんじゃねえよ! おまえの脳味噌は太陽の熱にやられて煮え切ってんのか!」

「あらやだー。わたくしは改良に改良を重ねて随分と現世に順応しておりますのよ。旦那さまのほうこそこの度は目覚めが遅うございましたから、もしかしてカビが生えていたりしませんこと?」

「カビぃ!? おまえよく主人に向かってそんなことが言えるな!」

「だってぇ、しっかりと獲物を確保しておきながらとっととお召し上がりにならないんて。それもかなりの上物を! わたしくを始め、みんなおこぼれを頂戴しようと心待ちにしておりますのにー。焦らせてばっかり」

「……だから、しなを作るな。気持ち悪い」

「んまぁ! こんなに可愛らしい姿を気持ち悪いだなんて! 旦那さまといえど暴言は許せませんわよ!」

「ったく、コウモリが何言ってやがる」

「ひどいっ!」


 金切り声が響き渡る中、おれは飛び起きた。


「なんだっ、今の叫びは!! ……んあ、目ぇ回る」

「大丈夫か? いきなり飛び起きちゃだめだよ。しばらく安静にしていないと」


 おれは頭を押さえて目眩をやり過ごす。押さえた手に布地の感触がして慎重に頭や額のあちこちを触ってみる。

 横合いから声がした。


「包帯が巻いてあるんだ。後頭部を打ち付けたらしいのと額にすり傷があったから。肩はやっぱり折れてたけど、ちょっと言い方は変だけどさ、綺麗に折れてたみたいできちんとくっついたよ。腕も含めてしばらく固定させなきゃいけないから不自由だろうけどね。後は全身に打撲と擦過傷があるけど問題ない。みんな数日で綺麗に治るよ」


 腕が固定されていると聞いて、ようやくそちらへ意識が向いた。

 恐る恐る右手を動かしてみる。握ったり開いたりじゃ何ともない。今度は少し力を入れて腕を持ち上げようとしてみる。肘までは何も痛みを感じない。しかし二の腕に意識を持ってくると筋肉が震えたと同時に肩に違和感を覚えた。鈍く重い得体の知れない感覚だった。これ以上動かすのはまずいと警告が放たれている感じがする。

 おれはゆっくりと腕を元に戻した。ゆるゆると息を吐き出して眼を閉じる。


「……あの女もヴァンパイアなんだよな? 主人がどうの言ってたけど、それっておれを狙ってるあの紳士のことか?」

「そうだよ。……ラルフ・カーティナスは隷属させている下級貴族のヴァンパイアを何人も保有している。使役もコウモリ型、オオカミ型、ミイラ型と多種多様だ。でもこれは彼の能力に見合った保有力ではないから調べてみたら、かなり無理な契約をしているみたいなんだ。契約は自分の魔力をそぎ落とすものだから放っておいてもいずれは自滅する。それを避けるには上等な獲物が必要でね。だから危険を冒してでも君を狙おうとしてるんだ。奴は追い込まれている。今回のやり方で確信したよ」

「……そんな知識いらねえよ」

「え?」


 おれは次第に苛立ちが募るのを感じていた。

 そもそもおれは何が原因でこんな目に遭っているんだ?


「おい、どうした? どこか痛むのか? 痛み止めはまだ効いていると思ってたんだけど……」


 額に触れてこようとした手を、おれは思いっきり払い除けた。


「触んな!!」


 驚く奴を睨みつけて、身体の痛みなんかお構いなしに飛び起きる。


「さっき誰かとしゃべってたよな。なんでおれを喰わねえのかって。そいつの言うとおり、さっさと喰えばいいだろうが! 中途半端に咬みついたせいで余計なもんがうろちょろしやがって! 痛めつけられるばっかりじゃねえか! さっきからおれを守ってやるとか言ってるけど、元々の原因はおまえだろうが。あの日、おまえに会った時点でおれの命は終わってんだよ。だったらそれでもういいよ。とっとと喰っておまえの栄養にすればいい! 強い奴特有のオモチャにして遊んでやろうとか思ってんのかもしれねえけど、おれはそんなもんにいつまでも付き合う気はないからな。自分の始末は自分でつけてやる! なめてんじゃねえぞ、こら!」


 茫然とする奴を押し退けてベッドから降りると、おれはキッチンに向かい釜戸に残っている炭に火をつける。貴重な木屑をあるだけぶち込んで火掻き棒を突っ込む。くすぶり始めた火が徐々に温度を高めて大きくなるのを待った。

 後ろから訝しむ声がする。


「おい、何をしてるんだ?」


 おれは無言で火掻き棒を動かす。右腕が固定されているおかげで左手でやるものだから上手く扱えず舌打ちをした。乱暴にやるせいで灰が舞い散っている。

 赤い中に青白い炎が見え出したので熱が上昇したのがわかり、炎にかざしていた火掻き棒を抜き出した。

 おもむろに振り上げ首に当てようとする。奴が咬みついて小さな傷になっているそれに。

 とにかくこの傷を消してしまいたかった。それであいつが付けた刻印とやらまで消えるのかどうかわからなかったが、このムシャクシャした気分も全部一掃したくて焼き潰そうと思ったのだ。

 どれほどの痛みに苛まれようともうどうでもよかった。

 そのまま痛みにのた打ち回って死んだっていいとさえ思った。

 なのに。


「やめろ!!」


 耳元でジュッと焼ける音がして、同時に突き飛ばされたらしいおれは瞬時に右肩を庇ったが倒れ込んだ衝撃で全身に痛みが走り悲鳴を上げた。


「ぐうぅっ、ば、かやろ、つくづく、なにしてくれんだ。てめぇ」


 痛みをこらえながら見上げると、奴は俯いたまま小さく呟いた。


「ごめん。……けど、こんなこと二度としないでくれ」


 震える声におれは眉をひそめた。次いで何やら焦げ付いた臭いに顔をしかめる。

 視線を下げると奴の右手に火掻き棒が握られていた。うっすらと煙が立ち昇っている。


「おまえ? まさか……」


 おれが目を見張って奴を見ると、込み上げる何かを抑えているのかしきりと肩で息をしている。


「はっきり言っておく。オレは君を喰べたりしない。約束したはずだ。咬みついてしまった責任は必ず取る」

「おい……?」


 喰べないってどういうことだよ。おまえはヴァンパイアなんだろう?

 人間を喰わなきゃ生きていけないんじゃ……。

 おれが茫然と見つめていると、奴はキッと顔を上げて言い放った。


「全身全霊を懸けて君を守る! だから二度とこんな真似はするな!」


 身を翻して出て行った奴を追いかけるどころか何も言えずに、その場に落とされていった火掻き棒を見つめて、おれはただ座り込んでいただけだった。


「人間とは本当に低能な生き物なんですのね」

「え?」


 突然聞こえてきた声におれはのろりと首を動かした。

 するとおれの鼻先を何かが掠める。羽ばたきの音にその物体を認めて思わず声を上げた。


「なに? コウモリ?」


 しかし瞬きをした次に映ったのは女の子だった。全身真っ黒のワンピースを着ていて金髪の巻き毛と子供には不釣合いな真っ赤な唇が人形みたいで可愛いより先に戦慄を覚えた。

 見下ろしてくる眼は赤くてガラス玉のように無機質だ。


「餌になるだけしか能のない輩が無駄な足掻きをするでないわ。おまえが未だ生きていられるのはあの方の気まぐれに過ぎぬ。余計な勘ぐりをせずともおまえの命運はもう尽きているというのに、傷を負わすような真似をするとは。この場で息の根を止めてやりたいほど腹立たしいわ」


 勝手なことを言う女の子もどきに気持ちが冷めていったおれの脳裏には、投げつけるように吐き出したあいつの言葉と表情が浮かんでいた。


(なんでそんな泣きそうな顔するんだよ……)


 苦しげに歪んだ瞳に涙が見えた気がした。





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