2.



「知ってた? 空にコウモリが飛んでたの」

「コウモリぃ?」


 おれはすっとんきょうな声を上げた。

 奴は外套と上着を脱いでテーブルのセッティングを始めようと、シャツの袖をまくっている。そうしてると高級レストランのボーイさんみたいだ。元々の服装が略式礼装みたいな三つ揃いのスーツを着ていて襟元はアスコットタイだ。あれでタイを蝶ネクタイに変えてワインなんか運んだら、さまになりすぎて女性客の注目を集めるんじゃないか。

 そんな俗な想像しかしていないおれの思考回路など知るはずもなく、奴は骨董品市場の激安セールで見つけた、材質はいいけど傷だらけのテーブルを丁寧に拭きながら、非現実的な話を続ける。


「コウモリはオレたちヴァンパイアの使役なんだ」

「しえき?」

「そう。使い魔ってこと。ちゃんと誰の使役なのか、血で従わせるから匂いである程度わかるんだけどね。今日さ、一見穏やかそうに見える垂れ眼をしてて、それとは裏腹にがっしりした体格の男に会わなかった?」

「んんん~?」


 おれは今朝市場で買ってきた鳥肉をソテーしながら首を傾げる。


(さっぱり意味わかんねえ。がっしりした体型の人なんて店のお客さんとかにいっぱいいるからな~)


 おれが人に会うといったらバイト先のお店くらいだ。学校も不特定多数の人に会うけど、新たに誰かと知り合う機会は意外と少ないものだから、心当たりになるような人物はいないように思う。とするとバイト先が一番新しい顔に出会う場所になる。


「あそこの店の客層って、出稼ぎ労働に来てる炭鉱場のおっさんたちとか、夜の仕事帰りに朝飯っていうよりは夜食感覚で食べに来る姐さんたちとか。あとはー、流れの物売りしてる人たちかホームレスか。ああブン屋関係のおっちゃんたちも来るかな」

「ふ~ん。なら、そういう店に少しでも身なりのいい奴が来たら、すぐにでもわかるよな。記憶にも残りやすいだろうし」

「身なりのいい奴?」


 塩コショウでシンプルに味付けした鶏肉を皿に盛り付け、大雑把にちぎったレタスを添える。一個のトマトを小口ぐらいの大きさに切って彩りよくレタスに紛れ込ませた。

 これがこの日一番のメインディッシュだ。今日どころかここ二週間ぐらいで一番かもしれない。

 あとはベーコンの入ってないオニオンスープと、焼きたてから二日経ったライ麦パンをスライスしたもので仕舞いだ。このパンは日にちは経っているが売れ残りを捌くために格安になっていたし何よりでかい。量的にあと三日は持つだろう。カビないようにしなきゃな。

 クロスなどなく、ランチョンマットもどきとして綺麗に洗濯してあるタオルを敷いた上に料理の皿を載せていった。


「へぇ、美味そうだな。座って、オレはこれ開けるから」


 料理を作ったのはおれだけど、何だか逆に奴が接待しているような口ぶりに疑問を覚えたが、楽しそうにワインを開けにかかっている姿に、ま、いいかと吐息した。

 ワインなんか持って来られても開ける道具がないと言うと、奴は得意げな顔をして抜かりなく用意していた。

 コルクスクリューとやらでキリキリとコルクに押し込みながら話を続ける。


「その痣の紋章からいって相手は男爵だって言ったろ? ヴァンパイアって古参の者ほど家柄や爵位に対する誇りってものが強いんだ。だから今の時代ではいくら落ちぶれようとも過去の栄光にしがみついて普段でも身なりや態度を頑なに守って貫いてる。それを思うとヴァンパイアっていう属性を持った“魔の住人”は上流階級の貴族社会に存在するといっても間違いじゃない。ある種、繁栄と富によって生まれた“歪み”みたいなもんだから」


 しゃべりながら鮮やかな手つきであっさりとコルクを抜き出した。

 ワイングラスなんかあるわけないから、ただのガラスコップに少しだけ注ぎ入れるとおれの前に置いた。

 おれは奴とコップを交互に見て首を傾げた。こんなちょっとだけ差し出されても。何でもっと入れないのやら。

 すると青い眼がやわらかく細められた。


「味見。美味いかどうか飲んでみて」

「……うん」


 わざわざ味見するもんなんかいなと、ビール以外ただの果実酒しか飲んだことがないから戸惑いつつも一気に飲み干した。

 口に含むと、ぶどうの甘い香りと舌に苦味とを感じ、思わず顔をしかめた。


「美味くない?」


 奴は自分のコップにも少し注いで、何やら匂いを嗅いだ後、すーっと飲み干した。


「うん。安いわりに悪くない味だ」

「味の良し悪しはよくわかんねえけど、まあ不味くはない、かな」


 面白味のないおれの反応に奴は笑って、今度はコップの中ほどまで注ぐと自分も席に着いた。


「じゃ、とりあえず乾杯する?」


 コップを持ち上げて言う相手に、おれはちょっとむずがゆく感じながら同じように掲げてみる。


「乾杯ってなにに?」

「そりゃやっぱり、オレたちの出会いにじゃない?」

「えええぇ。んな祝うようなもんでも」


 ぶつぶつ言っていたら、勝手に「かんぱーーい!」と、明るい音頭とともに、コップがカチンと軽快な音を鳴らしていた。




 食事をしながら、おれたちは会話を弾ませ……ていたわけでもなく、なぜかヴァンパイア講義を受けている感じになっていた。

 身を護る術として俗にいう十字架やニンニクはまったく意味がないことや、胸に杭を打ったところで動きが取れないだけで死にはしないこと、朝日など強烈な太陽の光に弱いというのも、嘘ではないのだが、それが原因で灰になって滅ぶわけではないらしい。おまけに何千年と連綿たる時を刻んで生息してきた彼らは、混血に混血を重ねてしまったため純粋なヴァンパイアというのはほとんど存在しておらず、従って、人間社会でも行われている食肉となる牛や豚、作物や花々と同じく改良化されたようなもので、何を持ってして死に至らしめられるかは個々の性質によるんだそうだ。


「なあ、それってただの化け物ってこと? こういう言い方すんの、おまえには悪いけどさ」

「優しいじゃん。最初より随分態度が軟化してきたよね」


 ニヤニヤ笑う相手におれはムッとした顔を返す。

 いくらヴァンパイアという人を襲う化け物だとしても、眼の前にいる男は普通に笑い普通に食事をする。外見はともかく、おれとの違いなんて他には何もない。こうやって話していると学校で友達と過ごしているのと変わりないから、つい気を許してしまうのだ。

 人間じゃないと知っているのに。


「んで、その男爵ってどんな奴? おれそんな貴族っぽい人に会ったっけ」

 おれは頬杖をついて、デザートのリンゴのコンポートを食みながら考え込んだ。記憶を手繰り寄せようとした時、ふっと脳裏から映像が押し出されてきた。

「彼は名をラルフ・カーティナスといって……」

「いた!」

「わっ、びっくりした~」


 驚く相手をお構いなしに凝視して、おれは身を乗り出した。


「いたいた、会ってるよ、おれ! 貴族っぽい人! ええ~? なんでおれ今まで思い出さなかったんだろ? 今朝だよ今朝。おれ、市場でスリに遭ってさ。んで掏られたおれの財布取り返してくれてリンゴの山に突っ込みそうになるのを助けてくれた人だよ。え、ちょっと待って。あの人が? いやあの人はないだろ。すごい優しい人だった。おれがびっくりして中々お礼が言えなくても、全然気にしなくて優しく声かけてくれたし、自分も市を見に来てたとかで、優雅にお辞儀して帰ってったもんなぁ。いい人だったなあ。うん、あの人は違うだろ。だとしたら、あとそれらしい人って……」

「倒れ込みそうになった時、腰触られた?」


 一気に捲くし立てながら、自分の中で整理しつつ話して勝手に納得していたおれは、奴の質問をきちんと聞いていなかった。

 ふいに顎に手を添えられて顔を上げさせられると、怖いぐらいに顔を引き締めた奴が迫ってきた。


「聞いて。そいつに腰の辺り触られたりしなかった? 支えてくれたんだろ? 身体に触れたよね」

「……うん。確かに腰に腕回されたけど……でもあの人」

「あのさ、オレって今、普通に見えるよね。君と何も変わらない普通の人間にさ」


 奴はおれに顔を近づけて自分から視線を逸らさせないように、じっと見つめてきた。

 怯んだおれは身体を引こうとしたが許されなかった。

 奴の手が顎から耳の後ろへと回り頭を固定させられる。


「見かけはどうとでもなる。本質を見極めなきゃ信じて後悔するのは自分だよ。それが普通の人間同士の関係でも言えることだろ?」

「そう、だな」


(なんでこいつ、こんな哀しい眼をするんだろ……)


 強く惹きつける眼光の奥に寂しく揺れる影がある。ほんの少し、泣きたくても泣けないような苦しい思いが潜んでいるかに見えた。

 いつのまにかおれは真剣に奴の瞳を覗き込んでいたのかもしれない。急に強い光が当惑の色を浮かべた。

 我に返った時には、おれに触れていた手は離れていて、奴が脱力したように椅子に身体を預けていた。


「……やっぱ強烈。いくら精神力の強いオレでも気を抜いたら一貫の終わりだな」

「……なに? どうした?」


 溜息をつく相手に、おれは小声で窺った。

 すると奴は苦笑して顔を上げた。心なしか疲れたふうに見える。


「君の香りはさすがにすごいなと思って。近づきすぎるとある意味毒だ」

「はあ? どういうことだよ」


 訳がわからず首を傾げていると奴は唇だけでニッと笑った。


「喰いたくなるってこと」


 絶句するおれに笑いながら手を振ると、腕を組んで態勢を立て直した。さっきまでの悄然とした空気が霧散される。

 おれは何となく神妙な気分になってしまった。

 おれが悪いことなんて何もない。

 こいつが勝手におれを高級な食べ物に仕立てて、勝手に欲求不満になって、勝手に争奪戦なんてはた迷惑なことを始めてくれたのだ。おれに責任も感謝も覚える必要などまったくないのに、こいつを見ていると妙な罪悪感を感じるから困る。


(なんでまたこんな思いしなきゃなんねえんだよ……)


 理不尽に思って溜息をついていると、奴が心配そうに言ってきた。


「どうかした? 相手がはっきりしてきたことだし大丈夫だよ。奴を倒せばその痣も消えるから心配ない」

「倒す?」


 思いもかけない言葉を聞いて、おうむ返しの如く訊ねた。


「もちろん。じゃないと、いつまでも狙われ続ける。でも今のところ一番の所有権はオレにあるから、そう簡単には手を出せないと思うけどね。たぶん今頃、刻印をしたのはいいけどオレの燐気に触れてちょっとはダメージを受けてるだろうから、すぐには仕掛けてこないと思うよ。だからその間に確実に倒す算段をつけておかないと」


 えらくにこやかに軽い口調で言ってくれるものだが、ものすごく物騒なことを言ってるぞ、こいつ。

 しかも聞き捨てならない言葉もあった。


「あのさ、一番の所有権ってなに? まさかおまえもおれの身体のどっかに痣みたいなの付けてんの?」


 すると奴ははにかみおった!

 くすぐったそうな笑みを向けながら指差してくる。


「最初にオレ咬みついたじゃん、首に。咬むことが一番効果があるの。今は小さな傷が残ってるけど、それが消える頃にオレの刻印が浮かんでくるよ。咬む次に強い効果があるのはキス。で次が手のひらで触れること。刻印をつける方法はこの三つかな。自分の生気を注ぎ込むことでその獲物が自分のものであることを主張できるわけ。方法によって威力の違いも出てくるけど、やっぱり素質の問題だな。雑多な血統になった今じゃ力の優劣は階級なんかじゃ判断できないからさ。それでいくと、オレはカーティナスより力は上だ。だから何も心配ないよ」


 おれは最後まで奴の話を聞いていなかったと思う。

 恐る恐る首の左側を押さえた。咬まれた傷が手のひらに触れる。イボのように二つぷくっと膨れていた。小さな穴になった傷を塞ごうと肉が盛り上がってきたのだろう。痛みはまったく感じないが異物感に不快な気分になった。


(これが治ったら痣が出てくるってか。腰にあるみたいなんが……)


 それが所有したという証だと。


「なんだよそれ……」

「何?」


 奴の声など聞いちゃいなかった。

 とてつもない脱力感に襲われたおれは、すべてを投げ出すかのように力なく叫んだ。

 そう力なく。どうでもいい感じで。


「なぁ~んでおれがこんな目に遭わなきゃなんねえの~~~」


 もうやだぁとテーブルに突っ伏した。

 何だか顔が熱くなってくるし頭がぐるぐる回る感じで、おれは完全に考えることを放棄していた。

 どんどん意識が遠ざかる中、奴のあせった声がかすかに聞こえた。


「え、ちょっと、どうした……まさか酔ったのか?」


 自慢じゃないがおれは酒に弱い。

 飲めないことはないが少量で気持ちよく眠ることができた。

 この日は初めてワインなるものを飲んだせいもあってか、味見含めてたったコップ一杯で酔いが回ったようだった。





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