第一章 襲来と変貌

1.



 街の中心にある噴水広場に円を描くように立ち並んだ布張りの店の数々。

 早朝、市が立つここは濃厚な食物の匂いと人々の喧騒とが混ざり合い、圧倒されそうな空気が満ちあふれていた。

 おれは逸る心を抑えながら、流れる人々に紛れて眼についた店に顔を出しては山積みにされた食材を眺める。

 けれど周囲の活気に影響されて興奮してはいても、頭の中はいたって冷静だった。

 昨日もらった初めての給金は昨夜のうちにしっかり計算してそれぞれの経費に分配していたので、懐には食費として割り当てた分の中から今日使える分しか入っていない。慎重に選ばないともったいない使い方をして後悔したくはなかった。


「でも、とりあえず肉。安い鳥でもいいから肉食わないと動けねえわ」


 あちこちの店を覗いて値段を比較し、じっくりと考慮して買いつけて行った。


「そういやあいつ、普通に人間の飯が食えるって言ってたけど、食材地味なもんばっかでもいいかな?」


 おれは抱えた袋の中を覗き込んで、今夜のメニューを思案する。

 昨夜約束したとおり、今日の晩餐にあいつを呼んでいるのだ。

 金髪碧眼の見目麗しい男。

 月を背景に、物腰がやわらかくて穏やかな笑みを湛えている姿は、見る者を一気に惹き込んでしまうほどに美しく……。


「って、訳わかんねえ……」


 そんな詩的な言葉で表現しても仕方ない。

 ようするに人間離れした綺麗さって言うのかな?

 おれとは正反対の見た目だ。黒髪黒眼のおれは童顔に見られるけど派手さの欠片もなくて、人を惹きつけるなんてことはまずない。

 まあ、あいつの場合人間じゃないんだからな。そのせいで妖しさ満点、決してお近づきになりたくない。

 しかも獲物を引っ掛けるために、そんな容姿と漂わせる色香ってものを持っているんだろうと思うとむかつくし。

 女を惑わすための武器なんだから、あの外見は。

 誘惑して虜にして、その命を喰い尽くす、あいつはヴァンパイアだった。

 あいつが言うには基本的に異性を好むらしいのだが、同じ血でも奴らにとって美味となる種類のものがあるそうで、これには性別関係なく食したくなるらしい。

 そこで何故かおれが出てくるわけだけど、おれの血は稀にみる高級ワインのように美味しいというのだ。

 そんなバカなって話だが、血が美味いかどうかなんておれにわかるはずがないし、ましてやヴァンパイアの好みがわかるわけもない。

 冗談じゃないが、それが本当ならおれはこの世のヴァンパイアたちにとって極上の獲物ということになる。

 あいつは自分が見つけた獲物だと主張するべく、おれに張り付いて他の連中から守ると言うのだが、果たしてどうなることやらだ。

 さて、そろそろ帰らないと朝の仕込みに間に合わなくなると思って市場を抜けようとしたら、ふとリンゴの山が眼に入った。


「そうだ、デザートがいるな」


 はちみつと砂糖でコンポートを作ろうとひらめき、ワクワクしながら形のよいものを選別していた時だった。

 突然後ろから強く押され、リンゴの山に倒れ込みそうになるのを、今度は強い力で引き戻された。

 いったい何なんだと、驚いて吸い込んだ息を吐き出していると、背後で豊かな低音が響いた。


「大丈夫かな?」

「え?」


 振り向けば穏やかな眼差しとぶつかった。

 おれは腰にがっちりと腕を回され抱きとめられる格好になっていた。


「あ、すいません、どうも。あの……」


 何が起こってこうなったのか状況を把握できず、ただ相手を見返すだけになってしまった。


「これは君のじゃないかね?」

「え、あ!」


 何と眼の前に差し出されたのは、おれの財布だった。最初に押されたのはスリの仕業だったのだ。

 おれは慌てて受け取り、取り返してくれたのだろう眼の前の人にお礼を言った。


「あの、ありがとうございます! 助かりました」

「いやいや。でも犯人を逃がしてしまったよ。咄嗟のことだったから君が倒れ込むのを受け止めているうちに姿を見失ってしまってね」


 申し訳なさそうに言う相手に、おれは恐縮しきって頭を下げた。


「とんでもないです! おかげでリンゴの山に倒れ込まずに済みましたし、何より財布が無事でよかったし、ほんとすいません。ありがとうございました!」

「なに、たまたま運良く手を伸ばしたら君に届いただけでね。もっと俊敏な人物だったら犯人を捕まえることもできただろうと思うよ」


 にっこりと微笑む表情がとてつもなく温かい人だった。

 やっと落ち着いて相手を見ることができ、おれはその容姿に少しの驚きを覚えた。

 仕立ての良さそうなグレーのフロックコートと頭にはシルクハットを被り、白が混ざった豊かな口髭とハットから覗く髪は灰色がかっていて、きっとこういう色合いをロマンスグレーというのだろう。素敵な年齢の重ね方をしてきたと想像できる気品漂う紳士だった。

 途端におれは緊張した。

 この人はどこか栄誉ある家柄の主人かもしれない。こんな下町の市場にいること自体ありえなくて驚きだが、スリから助けてくれるなんてもっと信じられない話だ。

 もしや警察関係の人か? などと一瞬で色んな想像が思い浮かんだ。

 混乱してしまったおれを落ち着かせるように、相手の紳士は深い笑みを向けた。


「何も案ずることはないよ。私も君と同じ市場を楽しみに来た者の一人だ。そうしてたまたま君がスリに遭遇する現場に出会った。咄嗟のことだったが役に立って嬉しかったよ。ではね」


 そう言って、ちょっとハットを持ち上げ会釈するさまがまた絵になっていて、見惚れているうちにその背がだんだん遠ざかってしまった。

 呼び止めたかったが、そうしたところで言葉以外何のお礼もできるはずないし、おれは心の中で気持ちを込めて深くお辞儀をした。

 ほっと息をついて踵を返そうとして、まだリンゴを買っていなかったことに気づいた。

 二個手に取り店主にお金を払おうとしたら、当然さっきのおれたちを一部始終見ていたようで、陽気に「助けてもらってよかったな」と声をかけてくれた。

 おれは笑顔で挨拶をし、やっと市場を抜け出したのだった。




 久しぶりに出向いた市場でスリに遭遇するというハプニングのおかげで、仕事には遅刻するし学校でも単位を取得するのに必要な授業で居眠りしてしまうしで、調子の狂う一日だった。

 夜の仕事を終え、溜息をつきながら裏口を開けると、暗がりからあいつが姿を現した。


「お疲れさま。それからお招きありがとう」


 なんと、手には小さな花束とワインを抱えていた。

 おれは思ってもみない奴の行動にぽかーんと口を開けて突っ立ってしまった。


「どうかした? ぼーっとして」


 奴は首を傾げて花束をおれの眼の前でさわさわと振った。

 甘い香りが横切って意識が引き戻される。


「やめやめ。おまえなんだよ、この花は」

「え? 招待されてお宅にお邪魔するのに手ぶらじゃ申し訳ないでしょ? で、こっちは差し入れ。ワイン飲めるよね? お近づきのしるしに乾杯しようよ」


 にっこりと微笑む姿は無邪気そのもの。

 招待ってほどじゃないけど、家に呼ばれたのが嬉しいらしい。

 素直にその気持ちが伝わってきたから、おれは苦笑した。


「晩飯おごるって言ったけど、そんな贅沢なもんできねえぞ。しかもワインに似合うようなさ」

「全然気にしないでいいよ。これ別に高いものでもないもん。オレって贅沢してそうに見える?」

「うん、見える。いいもん食ってそう。おまえの生活が贅沢かどうかは知らんけど、女に色々世話してもらってんじゃねえの?」


 嫌みを込めて言うと、相手はちょっとしかめっ面をした。だが口調は子供が拗ねているように聞こえる。


「世話なんてしてもらってないよ。オレって近寄りがたいみたいで、ちょっと血をいただこうにもなかなか大変なんだから」

「ほ~。別に謙遜しなくてもいいのに。おまえがいたいけなお嬢さん方を騙して栄養にしてたとしてもだな、誘惑されるほうにも原因はあると思うしな。警戒心なさすぎなんだよ、近頃の女って。自分の身は自分で守るくらいの気持ち持ってなきゃ、相手が人間だったとしても犯罪犯す奴にはどうやっても敵わねえんだから」


 何だか説教じみてるなと思いながら、オレは奴の肩を押して促すと路地を歩き始めた。

 するといきなり腕を取られた。

 パサリと音がして視線を下に向けると花束が落ちている。


「おい?」


 顔を上げると、真剣な表情でおれを見つめる奴がいた。

 もしやまたおかしな状態になったのかと警戒していると、今度は鋭い視線で周囲を見渡している。


「ちょっと、どうしたんだよ?」

「君、今日誰かに会った?」

「は?」

「今日、誰かに触られたりしなかった?」


 今度はおれの両肩に手を置いたまま、全身を舐めるように視線をめぐらしている。


「なんだよ、いったい?」

「後ろ向いて」


 強引に反転させられ、さらに頭やら背中やらをペタペタと触られる。


「ちょっ、ちょっと、なにしてんの?」

「あった!」

「へ? ……おい! おまえっ、なにしてんの!?」


 腰の辺りを触っていたと思ったら、いきなり上着をめくりシャツをズボンから引き出しているではないか。

 こんなところでおれを裸に剥く気かと、慌てて抵抗した。


「いいから、じっとして!」

「できるかっ、そんなの!」


 相手の手を引き剥がそうと掴みかかるが、逆にきつく握られて阻まれてしまう。


「見て、ここ」

「もうなんだよいったい」


 苛立ちと諦めが混ざり合って渋い顔になりながらも、おれは素直に奴の示すところを見てみる。


「……なに、これ?」


 おれは眼に入ったものに驚き、茫然と呟くだけだった。

 ちょうど尾てい骨が出っ張った辺りだろうか、何の花だかわからないが、赤くて小さな花のような模様が痣みたいに存在していた。

 明らかに描いたかに見える模様だ。どこかにぶつけてできた痣とは全然違う。


「いつのまにこんなの……。昨日はなかった、なかったはず。なんでだ……?」

男爵バロン……」

「え、なに?」


 小さく呟いた奴の言葉をもう一度聞き返した。


「これ、こういう花の紋様は男爵家の家紋なんだ。家によって花の種類は違うけど」

「男爵って、ヴァンパイアって貴族の階級があるのか? それで、なんでおれの身体にこんなのがついてんの? その男爵って奴につけられたってこと?」


 おれは奴を見てギクリとした。

 赤く染まった瞳が中空を睨みつけている。食いしばるように噛み合せた歯がカチカチと鳴り出し、犬歯が徐々に伸びていく。

 奴から痛いほど尖った気配が伝わってくる。人ならざるモノに変貌しているのだ。

 思わず後ずさりそうになるおれに、ゆっくりと視線を移してきた。


「とにかく家に行こう。説明は後でする。家のほうが外よりは安全だ」


 おまえといるほうがよっぽど危険なんじゃないかと、どれほど訴えたかったか。

 おれは息を呑み、ただ頷くことしかできなかった。





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