夢患いの診療録
鏡も絵
第1話 最奥が夢馬
保健委員を務めており、保健室のベッドのそばでお手製のアロマキャンドルを
どこぞのカルトへの勧誘を行っているのでは、と生活指導の教師から苦いお叱りを受けた際、「そんなにカリカリしてますけど、なにかストレスでもあるんですか?」なんていう、〝お前がストレスだよ〟と打ち返されること必至の特大魔球を投げかけた、
そんな、奇っ怪でうさんくさい男子生徒は、なにを隠そう僕である。
桜も散った瑞々しい五月の、新たなクラスに慣れはじめるこの時期に、先の逸話を聞きつけた同級生から、僕は遠巻きにされていた。ひとたび僕が廊下を歩けば、周囲はおずおずと道を開け、話しかけようものなら、相手は
そして、その生来の欠点が祟り散らかした末、僕はいま、お馴染みの保健室にて、ベッドに横たわる、クラスでも一番に気のいい同級生男子を前に、
「僕がいい夢見させてやるよ」
これは何プレイでもないことだけは、釈明しておく。
話の発端はあの日に遡る。
眠気を逆撫でるような、風の強い午後だった。草木はしなやかに揺れ、足元三十センチには砂埃が立ちこめている。
そんな乾いたグラウンドを、蹴られたボールが右往左往する。幾人の足に弾かれてきたそのボールは、ある男子生徒のもとへと渡ったとき、勢いよくゴールネットへと吸いこまれた。どこにも反射しない、空の高さに負けるほどの歓声が、僕の鼓膜をしゃらしゃらと揺らした。
現在、意気軒高校二年の体育授業課程ではサッカーを学んでおり、持ち時間いっぱい、運動のできる生徒とサッカー部の生徒がパスを回しあうのが通例だ。そして、運動の得意でない生徒は空気を読み、サポートに徹する。僕は得点板の数字をめくる係だった。
サッカーはそんなに点数の動く競技ではない。おまけに、僕のチームは負けペースだったので、僕はほとんど棒立ちの状態だった。広いグラウンドを縦横無尽に走る彼らをじっと見ているだけ。
ついさっき華麗なゴールを決めた、爽やかな風貌の男子生徒が、また得点を入れた。これも、相手チームの得点。悔しそうな声を上げる僕のチームの傍らで、その男子生徒はチームメイトとハイタッチをしていた。
鬼林は運動神経がよく、なんでもこなせるやつだった。弓道部なんていう玉蹴りとは無縁の部活に所属していながら、高い身長を存分に活かしたパフォーマンスを発揮している。
元々、「小学校のころはクラブチームのバスケをしていた」うえ、「中学ではサッカーをしていた」らしく、今回の活躍もさすがといったところなのだとか。
僕とは反対チームの得点を管理している二人組が話しているのを盗み聞いただけなので、よくは知らない。一度眠れば忘れそうな情報だ。
ぼんやりと試合を眺めていると、鬼林の足が、クラスメイトの足に引っかかった。足を動かしあうサッカーではよくあることだ。バランスを崩した鬼林は、地面に倒れそうになる。
しかし、そのすんでのところで、鬼林はタッとステップを踏むように体勢を立てなおした。
お見事、と思ったのも束の間、彼方から飛んできたボールが顔面に直撃。ぶん殴られたような重い音が響き渡る。
数人が場外へと弾かれたボールを追う中、鬼林は片手で鼻を押さえ、立ち止まっていた。大きな手の下から、つうっと、血が垂れる。その様子を見て、幾人かが鬼林へと駆け寄った。
「げっ、鼻血じゃん。大丈夫か、鬼林」
「ああ」鬼林は体操服のポケットからティッシュを取り出す。「なんかだせー」
鼻をティッシュで押さえる鬼林に、一人が「悪い。俺のせいだ」と申し訳なさそうな顔をした。鬼林の足を引っかけた男子生徒だ。
鬼林は快活に笑って、「関係ないって。むしろ、転びそうになったときの俺、かなりかっこよかったくない?」と返す。
馬鹿言ってんな、と肩を小突きつつ、その男子生徒は笑った。
その様子を眺めながら、いいやつだな、と僕は思った。怪我を笑いに変える愛嬌と、相手の罪悪感を払拭する優しさが、鬼林にはある。男子体育の怪我なんて、ドライに片づけるのがほとんどなのに、鬼林の周りにこうもひとが集まるのは、ひとのよさが理由だろう。
場外に押しだされる鬼林に、僕の隣で得点板を管理していた二人組まで、「ドンマイ」と声をかけていた。
「全然止まんないな、血」
「保健室行けば? 先生には言っとくし」
「そうするわ。鼻血って、冷やせばいいんだっけ。上を向けばいいんだっけ」
「……どっちも違う。とにかく根元を押さえて、安静にする」
鬼林が呟くように言うので、僕はそれに返した。
そんな僕の発言に、二人組は「ぎょっ」としていた。
鬼林はきょとんとした顔で「そうなの?」と首を傾げた。
「詳しいな、枕部」
「僕、保健委員だし。それと、五時間目のこの時間は、保健室から先生が出払ってることが多いから、もしかしたらいないかも」
「まじかー」
「中に入れるとは思うけど、手当の方法とか救急箱の場所とかわかる? ついてこうか?」
「え、いいの? じゃあ、頼むわ」
今度は、屈託なく答えた鬼林に、「ぎょっ」とする二人。僕と鬼林が背中を向けるのを、なにか言いたげに、しかし、決して口は開かぬまま、見送った。
グラウンドから保健室までの距離は、そう遠くはない。運動場を出るための階段を上ると、生温くなったマーガリンのような色をした校舎が見える。保健室はその一階だった。
昇降口から中に入るよりも、テラスのように外部と接する裏口から入ったほうが、歩く距離を短縮できた。そもそも、廊下側の扉には先生も鍵をかけるが、こちら側をかけ忘れることは多い。先生が退席していても使用できる唯一の入り口だった。
道中、白詰草の密生を踏みわける必要があったが、地面は徐々に土気が多くなっていく。何年も前から、このルートで保健室を訪れ、緑を踏みわける人間がいたのだ。先達に則って歩いてゆけば、教室のドアとよく似た、硝子窓を嵌めこんだ銀扉の前に出る。
僕は運動靴を脱ぎ、その扉を開けた。無遠慮に中に入っていくのに続き、鬼林も室内に足を踏み入れる。僕が適当に座るよう促すと、鬼林は、ベッドが並ぶエリアの真ん前にある、パッチワークキルトのソファーに腰かけた。
「やっば……ティッシュ真っ赤」
「いま新しいの出してるところ。血はすぐに止まるとは思うけど、もし、三十分経っても出っ放しだったら、さすがに病院行って。けっこう強くボール当たったみたいだし」
衛生のため、保健委員は保健室にいるとき、白衣を着なければならない。ラックにかかっている白衣に袖を通し、
デスクの棚からカルテを引っぱりだした。保健室には、怪我の報告書みたいなのがあって、先生が不在の折はそれを提出しなければならないのだ。僕もソファーに腰かけて、カルテにある今日の日付、時刻、怪我をした経緯などの項目を、シャーペンで埋めていく。
「鼻血は、貧血でぼうっとすることもあるらしいけど、鬼林は大丈夫?」
「なんか眠い」
「血が止まったらベッドで横になりなよ。先生には言っとくし」
「んー、大丈夫。最近、寝不足気味なんだ。貧血っていうか、それが原因だと思う」
「……寝不足?」
「そうそう。寝てはいるんだけどな、なーんか寝起きが気怠いっていうか」鬼林はおどけるように続けた。「これって五月病ですか? 保健委員」
僕はシャーペンを走らせる手を止めた。
空を飛ぶ飛行機のエンジンの音が消えていくほどの間。近くの物音よりも、遠くの音が感じられるような沈黙のあと、僕は「そういえば、よくポケットティッシュなんか持ってたね、鬼林」と切りだした。僕の突飛な発言にも、鬼林は「ポケットに入れてるティッシュだからポケットティッシュって言うんだろ」と事もなげに答える。
「僕なら、体操服のポケットには入れない。まるで、鼻血が出るのを予知してたみたいだ」
「あー……」鬼林は口ごもり、逡巡、口を開く。「鼻血を出す夢を見てさ。実は、最近、見た夢の出来事がよく未来に起こるから、今日もなんかあるかも、と思って、体育のときも持ってたんだよ」
僕は「……へえ」と、鬼林に視線を遣る。
日差しに照らされ、染めたことのないような黒い短髪や、健康的な肌が、真っ白く輝いていた。鼻の周りには生乾きの赤がこびりついていて、眩いほどの白の中で際立っている。
シャーペンの先を、カルテの備考欄へとスライドさせる。
「ちなみに、それはいつから?」
「ん? えーと、いつだっけ。四月に入ってからかな」
「どんな夢の内容?」
「はじめはいろんな夢だったよ。失くし物が見つかるとか、小テストの範囲とか、天気予報が外れて雨が降るとか。今日みたく、どっか怪我をするとか」
「その夢は痛みや苦しみを感じる?」
「そうそう、けっこうリアルなんだよ。ちょっとしんどいくらい。寝た気がしねーの、もしかしたらそのせいかもな」
「起きたときに引きずるくらい? 目覚めても、鼻血が出るんじゃないかって、気にしてしまうくらい?」
からかわれていると思ったのか、鬼林は「悪いかよー」と苦笑いした。
僕は
継続する未来予知。
寝不足気味。
現実との併呑。
「——うん。悪いね」
僕の呟きに、鬼林は吐息のような声を漏らして固まった。双眸は見開かれ、困惑に揺らぎながら僕を射抜いている。
開けっ放しにしていた銀扉から、産毛を揺らすばかりの風が吹く。青白んだスポーツ飲料の淵には、玉の緒のような気泡。一つ、二つと、儚げに消えていった。残るはあまりにも静かに凪いだ水面。石を投げ入れるように強く、僕は鬼林に言う。
「……予知夢は、さして珍しい夢じゃない。僕の知ってる人間にも一人、予知夢を見るやつがいる。だけど、そいつのは良性の予知夢だった。お前のそれは、おそらく、悪性の夢。つまりは悪夢だ」
鬼林はおもむろに眉を顰め、「枕部?」と尋ねる。
「まだ軽度のものだから、自覚症状は薄い。だが、進行するにつれ、症状は悪化していく。悪夢の根源をなんとかしないことには解決しないけど、いまは初期治療でじゅうぶんなはずだ」
「……どうした? 枕部」
「手っ取り早いのは生活習慣の見直し。過度なストレスを避け、睡眠の質も上げること。常時服用している薬があるなら、精神神経系の副作用があるか調べたほうがいい。あとは、サプリメントを飲むとか。とにかくノンレム睡眠の時間を長くする必要がある。それから……ああ、そうだ」
僕は立ち上がり、デスクの近くにある戸棚へと近づく。戸を開け、先生に頼んで保管してもらっている私物入れから、目的のものを取りだした。
「アイマスク。やるよ」
鬼林は押し黙った。まるで石膏像のような沈黙。薄く開いた唇を動かすことなく、あるかなきかの吐息をするだけだった。
数瞬ののちに、にっこりとした笑みを浮かべ、「心配してくれてんのな。サンキュ!」と鬼林は返した。しかし、アイマスクを受け取るそぶりはない。僕はもう一度強く差しだしたが、鬼林は「お、血が引いてきたかも。そんじゃ、俺、先に戻ってるから」と保健室を立ち去っていく。
僕は、忙しないその背中を見送るだけだった。手に残ったアイマスクを見つめたあと、カルテに視線を移す。
「馬の耳に念仏ね」
突如、背後から玲瓏な声が響いた。
腰かけているソファーの後ろにあるベッドに、僕は目を遣った。カーテンで遮られていて、中の様子は覗けない。声のあったほうのベッドへと近づき、勢いよくカーテンを解放する。
そこには、やはり、
「猟ヶ寺、どうしてここに」
「知れたことを。保健室にいるのだから、当然、体調を崩しているのよ」
事実、彼女のビスクドールのようにあどけない額には、冷却ジェルシートが貼られていた。
彼女のクラス僕のクラスは、男女ともに、合同で体育の授業を行う。彼女が体操服姿であるところから察するに、授業中に不調に見舞われ、僕と鬼林よりも先に、この保健室を利用したのだろう。
僕はベッドの脇にまで近づいて「大丈夫なのか」と尋ねる。
「いつもの
猟ヶ寺は額のジェルシートをぺりぺりと剥がしていく。ぐんにゃりと丸まったそれを、ベッドの脇にあったゴミ箱に、ぽとんと落とした。
「体調不良を訴えて保健室に赴いた哀れな仔羊に、〝お前が一人目の夢見主か?〟と夢小説サイトのトップ画面のような文句をぶっこんでくると、もっぱらの噂。貴方のとち狂った所業により、来年度の身体検査では、サイコパス診断の項目も加えられるのではと、まことしやかに囁かれているわ。そんな枕部くんを、引く手数多の鬼林駆矢が、保健室への同伴にと許したことは、天変地異と言っても過言ではなく、枕部くんは、本来ならば書類選考で弾かれるであろうアイドルのオーディションに、手違いで最終選考まで残ってしまったようなものなのよ。またとない千載一遇をここまでふいにできるなんて、そのワードセンスとメンタルは、はっきり言って重症ね」
猟ヶ寺の言葉は僕には理解しがたかったが、「ディスられていることはわかる」とだけ告げた。猟ヶ寺は「加えて、私だったらアイドルになれたわ」と切り返す。僕にはいよいよお手上げで、言いたいことはそういうことじゃないんだろうな、と思いながら、「たしかに、お前のその容姿なら、芸能界でも生きていけそうだけど」と納得することにした。
猟ヶ寺の華奢な輪郭や、赤茶けた髪のまろやかさは、人類造形学的に見て、極めて魅力的に見えるよう演算され代物だった。小さなお団子を二つくっつけたヘアスタイルは子供っぽいけれど、彼女のほろ苦い態度を中和させるのに一役買っている。
猟ヶ寺は両頬を包みこむように手を添えて、そっぽを向いた。どういう心境から来る動作かは知れなかったが、ややあってから、「とにかく、口下手で唐変木な枕部くんは、運よく通過したにもかかわらず、最終選考で落選したのよ」と呟く。
「いくら鬼林駆矢のひとがよくても、己が胡散臭いなんらかに勧誘されていると誤解してしまった以上……合成脚色量無添加・原文掛け流しの枕部くんの
「……わかってるさ」
見つけだすのに一月ひとつきもかかった。不器用な自分なりに行動し、空振りをしながら、ようやっと探しあてた攻略対象——予知夢の夢見主。
しかし、肝心の鬼林には、自覚症状がないのだ。己のそれが病であることに気づいていない。だから、治したいとも思わない。
鬼林の自覚症状を待ってからでは遅い。生まれもっての僕の性質上、症状が悪化すればするほど、施術が不利になる。
「患者の負担リスクは最小限で済ませるに越したことはない……もう一度、アプローチを試みて、説得する」
「さっきの調子で説得しても、正直言って、無駄だと思うけれど」
猟ヶ寺はふとんをめくりあげた。起こしていた上体を傾けて、就寝のポーズを取る。枕の位置を整えたあと、寝入る前に、僕に告げる。
「私には貴方のやりかたを尊重する義務がある。ただし、わかっていると思うけれど、本当に危険だと見なしたときは、無理矢理にでも、私のやりかたで終わらせるわ」
おやすみなさい、と猟ヶ寺はふとんを頬まで被り、横になった。
僕はカーテンを閉ざし、いい夢を、と返した。
ひとは夢に憑かれる。
そう、祖母は言っていた。
夢見がよければ、目覚めたあともその余韻の悦に入り、悪ければ、心を惑わせ、日常生活にまで支障を
そうでなくとも、古今東西、夢に関する人類の文明は絶えない。夢占いや夢解釈はその代表例だろう。この国でも、かつて〝恋慕する相手が夢に出てきたとき、その相手もまた自分に恋慕している〟などという力技の解釈が為されてきた。内面的、心理的、精神的でありながら、
そのように人間社会に溶けこみ、ひとの生活に作用をもたらした夢という概念にも、ひとを苛むケースがあった。
夢は、記憶や感情の整理とも言われる。処理しきれなかった情報を取捨選択するとき、脳内で再生されるストーリー。本来ならば、健康維持に貢献する作用と言ってもいい。だが、薬も過ぎれば毒になる、という言葉があるように、夢は、それこそ瞬く間に、悪性に転じる可能性もあるのだ。
——そんな悪性の夢を見極め、代々治療を施してきた悪夢祓いが、枕部の血統だった。
クラスメイトである鬼林は、予知夢に憑かれている。ならば、その夢から鬼林を救うのが、枕部としての僕の役目だ。
あれから、僕は鬼林に目を向けるようになったが、さして付き合いのない僕から見ても、日ごとに元気がなくなっているような気がした。冴え冴えとした顔つきには覇気が足りず、生来のまろやかな眼尻にいたっては、いっそ脱力的とすら感じた。大した交流のない僕が勘づくくらいなのだから、親しい友人らはこぞって鬼林を気にかけたが、彼は「部活が忙しいからかな」と笑うだけだった。
偶然を装い、十分前から待機していた下駄箱前で僕が話しかけても、鬼林は以上のように
そんな膠着状態が覆ったのは、
甘ったるい湿気は生温かく、視界にあるもの全てに
僕はいつものように、隙を見て鬼林に話しかけた。
「おはよう、鬼林。昨日はよく眠れたか」
「おお、枕部、おはよう。どうだろうな」
薄くぬかるんだ会談の踊り場で、僕らは落ち合った。落ち合うもなにも、僕が完全に張っていただけである。朝練の済んだらしい、ほのかに汗を掻く鬼林は、人好きのする笑みで挨拶をし、足を進めていった。僕もそれに続き、鬼林の隣に並ぶ。
「顔色が悪い」
「朝練後だから、疲れてんのかも。俺、まだ一限の宿題やってないから、先行ってんなー」
そう言って、鬼林は、また僕の追及から逃れようとする。
そのとき、鬼林とすれ違うように、階段を駆け下りていった男子生徒が、足を滑らせた。
濡れた階段はまさしく滑走路。勢いよく転倒した彼の体は、あっけなく空中に放り出される。僕は目を見開かせた。鬼林は咄嗟に彼に手を伸ばしたけれど、その手が彼を掴むことはなかった。鬼林や僕の視界を通りすぎ、彼は階段の踊り場まで転げ落ちた。
小さな悲鳴がそこかしこで響く。近くにいる生徒は動揺し、彼へとしゃがみこんだ。上級生らしき生徒が教師を呼びに行く。あたりは騒然となった。
僕は、彼を助けようと手を伸ばしたまま硬直した、鬼林へと目を遣った。
鬼林の顔は蒼褪めていた。炯々とした目で階下の悲劇を見据え、愕然としている。唇や手が震えているように見えたのは、きっと僕の気のせいではない。
この場にいる誰よりも動揺しているその姿に、僕は確信的に告げた。
「……見たんだな、夢で」
鬼林はハッと肩を揺らした。
その様子がなによりの証拠だった。
「予知夢の頻度は高くなり、実現するまでのタイムラグも短くなっているはずだ。これからどんどん深刻化して、さらにお前を苦しめることになる」
僕が初めて声をかけたあの日ならともかく、現在の鬼林の病状は軽度のそれを超えている。目に見えた疲弊感、倦怠感がその証拠だ。そして、以上のことから、僕の
「だから、言ったろ。それは悪性の夢だって」
僕がそう告げると、鬼林は呻くように返す。
「また、その話か。やめろよ、枕部。正直、お前がなにをしたいのか、意味不明だって」
「治そうとしてるだけ。お前は憑かれてるんだよ。もう自分でもわかってるだろ」
あのときとは違い、鬼林にも自覚症状はある。
だから、僕はそう告げたのだが、鬼林は力なく項垂れるだけだった。
「……本当に、疲れてるだけなんだよ」鬼林は拳を握り締める。「こうなることを、俺は夢で見たことがあったのに、たぶん知ってたのに、なのに、なにもできなかった。一度や二度じゃないんだ。最近、こういうことばかり起きる。気づくは、いつも、取り返しがつかなくなってから。今日は、誰かが怪我をした。罪悪感で吐き気がする」
僕は、鬼林の顰められた眉を、震える睫毛を、ただじっと見つめていた。そこに滲む情緒をどこか遠く感じながら、立ちつくしていた。僕には鬼林がなににそこまで惑っているのかわからない。しかし、それは間違いなく鬼林に害を齎していることはわかる。
「そうやって悩むこと自体が、悪夢なんだよ」
予知夢と言えば聞こえはいいが、所詮は悪夢だ。
夢見主を苛み、苦しめる。夢に引っ張られ、現実を脅かす——悪い病気。
「だから、本当はしんどいのに、苦しくてしょうがないのに、僕のことを信じられないだけなんだったら、頼む、悪いようにはしない、僕の話を聞いてくれ」
鬼林は押し黙った。形のいい唇は引き縛られている。永遠に続くかと思われたその沈黙は、ややあってから、鬼林本人により打ち破られた。
「……あの噂は本当なのか?」
僕は首を傾げて「どの噂?」と尋ねる。
「アロマキャンドルとか、環境音楽とか……まあ、アイマスクが本当なんだから、本当なんだろうけど。あとは、生活指導の先生にもたてついたとかさ」上澄みでない、本心からの言葉を、鬼林は続ける。「悪いけど、俺はお前を疑うよ。お前がなに考えてんのかわかんないから。でも、お前がそこまで言うんだったら、お前を信じさせてくれ。お前の話を聞かせてくれ」
真摯な眼差しが、僕を射抜く。心臓を抉りとる鏃やじりが如き鋭さだった。けれど、きっと、そこに悪意はない。純度の高い誠意が備わっている。あまりにわかりやすいまっすぐさに、僕は無意識に目を瞬かせた。
「……アロマにはリラックス効果があるし、川のせせらぎや鳥の鳴き声はくつろぎやすい気分になる。遮光アイテムは元より睡眠のための道具だろう。全部本当だ。だけど、先生にたてついた覚えはない。ただ、疲れていそうで、よく眠れているのかな、って思っただけ」
ただ純粋にそう答えたけれど、鬼林は呆れたような表情をした。呟くように「節操ないんだな、枕部」と言うので、「こっちにも事情があって」とだけ返す。
鬼林は力なく笑った。
「枕部の言うとおりにしたら、俺のこれはよくなるの?」
「憑かれは取れる。患いは癒やせる。僕に任せてくれ」
——かくして、鬼林の治療が始まった。
まずは、生活習慣の改善。狙うは睡眠の質の向上だ。生活習慣を整えることにより、夢により疲弊した体を回復させる効果が見込まれる。また、ノンレム睡眠の時間が長くなり、深い睡眠を得られるようになる。
僕は鬼林の一日の食事と睡眠時間の管理を行った。食事のラインナップ写真を添付して僕に送ること、および、入眠時と覚醒時には一報入れることを言いつけた。特に、睡眠時間の管理に関しては徹底した。短ければ指摘し、長すぎれば調整した。
鬼林は「お前は束縛の強い彼女か」と愚痴りつつも、指示には従順だった。入眠時と覚醒時には、それぞれ「おやすみ」「おはよう」と連絡をくれる。やはり「俺は恋愛依存の彼女か」と愚痴りたおしていたが。
しかし、ある程度病が進行したいまとなっては、これらの処置だけでは足りない。
そこで、僕は、見た夢の内容を僕に話すよう、鬼林に提案した。
「夢の内容を話すと実現しなくなる、って聞いたことはあるだろ? 夢を話すというのは放すということ。迷信の類ではあるけど、古代から信仰されてきた言い伝えだ。古くからあるものがいまもなお用いられているのは、それが実際に結果を出してきたからなんだよ」
「よくわかんねえけど……俺が枕部に夢の内容を話したら、その夢は実現しなくなる、ってことだよな?」
「そういうこと。本来は予知夢に行う処置じゃないから、
それから毎朝、人もまばらな教室の隅で、涼しい朝日を浴びながら、鬼林は僕に見た夢の内容を語った。それは「ロデオで振り落とされそうになりながら部活動をした」や「絵の具になってチューブから捻りだされた」などの荒唐無稽なものから、「学校のトイレ掃除を延々としていた」ような他愛もないもの、「大地震で家が崩壊した」や「不審者に睡眠薬を飲まされた」などの危険性の高いものまで様々だった。人間は眠っているあいだに複数の夢を見るが、その全てを覚えているわけではない。鬼林の口から、一日でいくつも語られることも、あるいは一つも語られないこともあった。僕は、鬼林の語った一つ一つに相槌を打ち、時には夢解釈の字引で解き明かし、鬼林を落ち着かせた。
この毎朝の習慣は、数日続けただけで、鬼林本人が「調子がよくなってきた気がする」と実感するほど著しい効果を得られた。
「まあ、メンタル面のケアにも繋がるからね。他人に悩みを打ち明けたらちょっと楽になる感覚と似てるんじゃないかな」僕は解説する。「それに、夢だと口に出し、脳がそれを確認することで、現実のものではないのだと自分自身を暗示することもできる。そういう意味でも他人へと放すことには意味があるんだ」
「予知夢が実現する頻度も減ってきた。目覚めてからの倦怠感も薄れてきてる」
「それはなにより」
なによりだが、僕は多少の違和感を覚えた。
この方法は、予知夢に対してそれほど効く対処法ではないはずなのに。
患者自身が快方に向かっているならなんら問題はないのだが、それだけが少し引っかかった。
ただ、それは、一度眠れば忘れてしまう程度の違和感だった。
鬼林は元の凛々しさを取り戻しつつある。寝不足も解消され、部活動のほうも順調らしい。毎朝夢の内容を話す日課でも、雑談が混ざるようになった。たとえば、宿題はどうだったとか、地元はどこだとか、僕に話しかけられたときは噂のこともあって内心はびっくりしていたとか、そんな他愛もない話だ。そうやって、毎朝毎朝、夢以外のことでも対話していたものだから——僕は首を傾げた。
ある日の朝、鬼林は、僕に話しかけてこなかったのだ。
意気軒高校は定期テスト一週間前になると部活動が休止される。放課後は、教室や図書室で居残り勉強をする生徒も増える。学校周辺のファミレスで勉強会をする者、塾へと足を急がせる者もいた。なかには、ギリギリまで勉強をしない猛者や、あり余った時間をのんべんだらりんと過ごす勇者もいる。
鬼林は、学校で居残るタイプらしく、弓道部員の同級生らと一緒に、弓道場の中にある部室で勉強会をするようだった。
僕は教室の隅でそんな会話を盗み聞きながら、鬼林を眺める。
ある日を境に、鬼林とは話していない。朝、鬼林が僕に話しかけてくることはなくなり、それ以外の交流もぱたりとやんだ。
はじめは、症状が快復したからだと思った。実際、鬼林はずっと「調子がよくなった」と言っていたのだ。悪性の予知夢が快方に向かっていたのは明白だし、治ってしまえば、僕に話しかける理由もなくなる。治療の一環としての、あの日課だったのだ。雑談交じりになり、その意味合いが薄れてきてはいたけれど、悪夢を見なくなった鬼林にとって、あの時間はこれ以上必要ない。
だけど、日課がなくなって以降の鬼林は、悪夢に苛まれているときのそれだった。
テスト勉強に追われた学生とも違う倦怠感。精悍な顔つきもどこか気怠げで、それなのにどこか切迫しているような、ただならぬ様子だった。目に見えた変化としては、青黒い隈までできている。
いよいよこれは異常だと気づき、僕は、鬼林に話しかけるタイミングを伺っていた。
話しかけるのに成功したのは、鬼林が勉強会を終え、弓道場の近くのトイレに入ったときだ。同級生らに「先に行っててくれ」と告げた鬼林を尾行した功績である。トイレに入っていく鬼林に続き、僕は声をかけた。
「僕になにか話したいことがあるんじゃないのか」
鬼林は勢いよく振り向いた。驚かせてしまったようだが、僕は気に留めなかった。
「枕部、なんでここに」
「お前が入っていくのが見えて」
「帰ってなかったのかよ」
「うん。お前が居残って勉強するらしかったから、離れたところからずっと伺ってた」
「怖っ! ストーカー系彼女じゃん!」
僕は「僕に話したいことは」ともう一度告げる。
鬼林は動揺したように目を逸らした。
意外だと思った。
鬼林は、僕に追及された程度のことで、目を逸らすような人間じゃないからだ。愛想笑いで巧みに
俯きがちな視線に、僕は首を傾げる。
「……僕は、口下手だってよく言われるんだ。もしかしたら、僕の聞きかたが悪かったのかもしれない。ねえ、鬼林、まだ悪夢を見るんだろう、その内容を僕に話したほうが楽になるのはお前だって知っているはずだから、僕に話したほうがいいんじゃないか。たとえば僕のことをやはり信じられないとか、そういう理由でもないかぎり」
僕の言葉に、鬼林は顔を上げる。どこか間の抜けた表情だった。おずおずと「……怒ってないのか?」と尋ねてきたので、僕は「なんで僕がお前に憤る必要がある?」と返す。鬼林は言葉に窮していた。僕は諭すように続ける。
「そんな夢を見て苦しんでるなら、言え、僕に。そんなのは夢だから」
僕の言葉に、鬼林の様子は目に見えて変わった。強張っていた鬼林の肩が落ち着いていく。それから、じわじわと滲みでてくる、どこか清々した笑まい。その眉はへんにゃりと垂れ下がっていて、これまでの苦悩は消え失せていた。まるで、繋ぎ止められていた風船が一斉に空へ浮きゆくように、緊張の糸はあっけなく切れたのだった。
鬼林はどこか譫言うわごとのように「そっか、夢かあ、そっか」と呟いた。
「ある朝にさ、俺が話しかけたら、枕部が言うんだよ……〝いい加減、お前の被害妄想は聞き飽きた〟って」
「僕はそんなこと言わない」
「そっか……でもさ、俺、そう言われるのが怖くて、なんか、だんだんお前にも申し訳なくなってきて、話したら実現するような、お前に突き放される気がしてさ」
「だから、最近は話さなかったの?」
「だって、こればっかりは、俺が枕部に話さなきゃ実現しないことだろ。だったら、お前に話しかけなきゃいいって思って……でも、そしたら、〝いきなり無視してくるなんて嫌なやつだな〟って」
「僕はそんなことも言わない」
「そう、お前は言わなないんだよな、これは俺の夢だから……話せばよかったのに、夢だったのに、俺は……」
言葉を続けることもできず、鬼林は俯いた。
本当に思いつめていたのだろう。雁字搦めになっていることにすら気づかずに、一人で堪えてきたのだろう。夢という、夜に目を閉じることで見る、己の意思では逃れられない幻に、心を揺さぶられてきたのだろう。
――これが、悪夢だ。
夢を見るのは、記憶や感情を整理するためだと言われている。その日のエピソードやストレスを整理した過程における映像こそが夢なのだ。その中でも性質たちの悪いものが、今回の鬼林のような悪夢だ。現実世界での不安を具現化したようなシーンを夢に見るものだから、リアリティーは強く、目覚めたあとも現実と混同する。夢でよかったと思うこともできず、これから起こるかもしれないと、神経を擦り減らす。そのストレスから、また悪夢を見る。そんな、たかだか自家中毒で、ひとは苛まれてしまう。
鬼林は少しだけ顔を上げ、僕に「ごめんな」と言った。
僕は首を傾げ、「なにに対して謝ってるの?」と問いかける。
「お前を無視して。俺、嫌なやつだった」
僕が「それはただの夢だろ」と言っても、鬼林は「お前を無視したのは夢じゃない」と言った。話しかけなかったくらいで無視したとは言わないんじゃないか、と僕は混乱した。
「……お前が、なんでそこまで気に病むのか、俺にはわからない」
僕の純粋な疑問に、鬼林は純粋に答える。
「俺なら、毎日話してた友達が、いきなり自分との関わりを断ってきたら、すげー傷つくと思った」
その言葉には、僕にとっていろんな驚きに溢れていて、気づけば目を見開いていた。
鬼林が僕を友達と呼んでくれたこと。僕の心情を慮ってくれたこと。実際に指摘されてもいないことをそこまで気にかけたうえでの、さきほどの謝罪であったこと。なんて真摯な誠意だろうと、感嘆してしまった。
だけど、僕は、その真心に報いるには、あまりに薄情なのだ。
「……どうせ、眠れば忘れるから」
鬼林は「逆に傷つくわー」と苦笑した。
僕はそれに瞠目して、逡巡、いまはそれどころじゃないと我に返る。
「……鬼林。実は、お前の夢に関して、ちょっと気になることがあるんだ」
いつまでも男子トイレで
移動したのは保健室だ。夕暮れ時でも燦燦とした象牙色の光が差し、電灯を点けなくとも室内はじゅうぶんに明るかった。僕は「ベッドに座っていてくれ」と鬼林に告げ、お茶と茶請けを用意する。冷えた緑茶とチョコレートボンボンという組み合わせを見た鬼林は、「どういうラインナップだよ」と笑った。それをベッド脇の小さなテーブルに置き、テーブル下の引き出しから、あるものを取りだす。それは、黄色と黄緑の鮮やかな花弁の浮かぶキャンドルで、硝子の受け皿の上に重ね、僕はテーブルへと置く。引き出しにあったライターで火を点してから、鬼林の隣のベッドに、向かい合うように腰かけた。
「枕部。なんだこれ、なんだこの状況」
「単刀直入に言うぞ、鬼林。たぶん、お前のそれは予知夢じゃない」
「えっ?」
鬼林は首を傾げながら、チョコレートボンボンを包んでいたセロファンを剥がし、甘い匂いのするそれを口へと放りこむ。僕は緑茶のほうも勧めた。鬼林が口をつけるのを眺め終えてから、言葉を続ける。
「見た夢の出来事が未来に起こる、だっけ……お前の話を聞いてから、僕もずっと勘違いをしていた。お前を脅かしている悪夢が予知夢なんだって。だけど、診断ミスだった。お前のそれは予知夢じゃない」僕は一拍置いて続けた。「それは、正夢だ」
正夢。
夢に見たとおりの出来事が現実に起こる夢のことだ。
鬼林はしばしのあいだ神妙な表情でいたが、ぽくぽくぽくと、木魚の叩かれるほどの間のあと、「同じじゃねーの?」と顔を顰めた。
「いいや、まったくの別物だよ。未来の現実世界で起こる夢を見るのが予知夢。過去に見て、未来の現実世界で起こった夢が正夢。たとえば、正夢に〝なった〟って言うだろ? 未来で起こって初めて、あれは正夢だったと気づく。予知じゃないんだ。感覚としてはデジャビュに近いんだろうな。それに、お前の夢は、予知にしては正答率が低すぎる。ほとんど数打ちゃ当たるの確率だよ」
「そりゃ、お前に話して、放して、未来に実現する回数が減ったからだろ」
「そう。一番の理由はそこ」僕は頷く。「前にも言ったけど、あの処置は、本来は予知夢に行うものじゃない。正夢に対する処置法なんだよ」
だからこそ、鬼林には著しい効果が見られたのだ。もし、鬼林が見ているのが予知夢なのだとしたら、あんな初期治療では気休め程度にしかならない。予知夢ではなく、正夢だったからこそ、正夢の症状も一時は鳴りを潜めた。
「正夢は、夢の段階ではただの夢だ。それが現実世界で実現してはじめて正夢になる。現実世界で対処できる程度の病なんだよ。だから、鬼林が僕に話して、放したから、正夢にならなくなった。だけど、奴やっこさんも馬鹿じゃないね。治療という攻撃を受けてから、抵抗を見せ始めた」
「抵抗……?」
「僕に飽きられたり、軽蔑されたりする、最近のお前の夢だよ」僕は続ける。「これまで夢よりも顕著に、夢見主であるお前を害する内容だった。お前の不安を煽ることで、放し相手である僕との関係を断絶し、お前を苦しませるに至った。相手も必死なんだ」
「なんか、変な言いかただな」鬼林は困惑していた。「夢って、俺の妄想の産物だろ? お前の言いかただと、まるで正夢っていう病原体があるみたいだ」
「ああ、悪夢は妄想の産物だ。けれど、病であり、お前は憑かれている」
悪夢。Nightmare——直訳すると、夜の雌馬。語源を辿れば少し違うようだが、それでも、実際に世界の各地で、悪い夢や、それを見せる霊的な存在は信仰されている。ただの妄想であって、妄想ではない。
「お前を苦しめている病原体はお前の中にいるんだ、鬼林」
鬼林は、黒いベストの上から自分の胸のあたりを撫でた。実感が湧いていないであろう、どこかすっとぼけたような顔をしている。目を瞬かせて、鬼林は「なあ、」と僕を見る。
「これが病気で、俺が病原体を持ってるなら、お前に伝染うつることはないのか?」
僕はほうと驚いた。いい
「結論から言うと、ない」
「よかった。やっぱ夢だもんな。伝染るわけないか」
「いいや、夢は病気だ。病気は伝染る。ただし、体質的に、僕には伝染らないんだ」
途端、訝しげな表情をする鬼林。首を傾げて無言で問うので、僕は簡潔に答える。
「僕は夢を見ない」
レムとノンレムを往復する睡眠活動をしている以上、夢を見ない人間はおらず、夢を見ていないように感じるのも、ただ覚えていないだけ——と解明されている人間科学では言われているが、僕の場合、夢を覚えていないのではなく、真実見ない。
夢を見ることがないから、悪夢さえ見ない。天性の才だ。なんせ、病にかからない医者なのだから、事実上の無敵状態と言える。
「僕に夢の内容を話せと言ったのも、この体質によるところが大きい。いくら僕に放そうと、僕が夢に患うことはないからね」
「よかった。俺のせいでお前も苦しむことがあるなら、やっぱ悪いなって思ってたんだけど」
「いくらお前が話そうと、それで僕が苦しむことはないよ。あるとしたら、話してくれないからだ」
僕の言葉に、鬼林は笑った。もう一口茶を啜り、続けざまに、「じゃあ、俺はまたお前に夢の内容を話せばいいってことだよな?」と尋ねられる。
「いいや」僕は首を振った。「実のところ、それじゃもう効かない。焼け石に水もいいところ。当て馬にすらなりゃしない」
ここ数日、病状を放置していたのがまずかった。重篤化する前ならその処置法も有効だったが、鬼林の病状は進行しており、初期治療ではどうにもならない。
「もちろん、このまま匙を投げ、
沈黙を貫きながらも、鬼林の目は雄弁だった。どうするつもりだという鋭い視線で僕を射抜いている。僕は脇のラックから白衣を取り、袖を通した。そして、鬼林に笑まいを返す。
「現実世界での処置は不可能。ならば、夢の中での施術へと移行する」
僕は、自分の鞄から、ある道具を取りだした。
無骨なヘッドセットだ。チェストピースからチューブが伸び、プラグを通してVRゴーグルへと繋がっている。レンズの部分は漆黒ながら、光に当たると遊色した。大仰で奇抜なフォルムだが、見た目ほどは重くはない。僕に必要不可欠な相棒である。
「お、おい、枕部。なんだそれ、なにをする気だ」
「これは
「……は?」
宇宙人に話しかけられたときのような絶妙な表情で、鬼林は半身引いた。目つきは心底訝しそうで、口元もやや引き攣っている。
「夢に、入る? なに言ってるんだ?」
「特殊な言い回しじゃない、文字どおりの意味合いだ」
「文字どおりの意味合いが特殊すぎんだけど」
「眠ればわかる。お膳立ては、いや、寝支度を整えたから。おやすみ、鬼林」
「いや、いきなり寝ろとか言われても、そんなすぐには……」
そこで——おそらく、鬼林は、自分の身に起こる異変に気づいた。
うつらうつら。重く落ちようとする瞼。熱で乾いた瞳。鬼林の体は傾きはじめていた。
僕はおもむろに
鬼林はふわふわと朧おぼろい滑舌で、「枕部、お前、なにをした」と唸る。
「大丈夫。処方箋で出されるような、れっきとした睡眠導入剤だよ。体に害はない」
鼻唄の合間、僕は、鬼林の飲んでいた緑茶のグラスを、人差し指で撫でる。
ただの飲料と盛るだけでは効果は薄く、アルコールと合わせて飲むほうが効き目も早い。まさか酒をもてなすわけにもいかず、とりあえずチョコレートボンボンで代用しておいたのだが、うまくいったようだ。
この野郎、と恨み言のように鬼林の唇は蠢いたけれど、眠気が勝ったのか、それが声を伴うことはなかった。僕が鬼林の胸板をトン、と押しただけで、その体は容易くベッドに倒れる。身を捩る鬼林に、半ば無理矢理アイマスクを装着させた。散々に拒まれたアイマスクを鬼林がついに使用している姿には、どういうわけか胸がすくような感慨を覚えた。
「……お前の悪夢は、今日で終わりだ、鬼林」
僕も眺診器を装着する。ゴーグル越しの僕の目に、すやすやと夢の世界へと漕ぎだす鬼林が映る。僕はチェストピースを掴んだ。
「僕がいい夢見させてやるよ」
チェストピースを鬼林の額に当てると——僕は没入した。
沈む。沈む。
紺碧の沼に潜るようでも、絹織物の海に溺れていくようでもあった。
僕は目まぐるしい暗闇に吸いこまれる。
その黒が一面に広がる様は、まるで千鳥格子だ。羽ばたきが如く広がり、果てしない。その間隙を縫うようにして落ちていき、いずれ底に着くころ、重たく纏わりついてきた暗闇が揺れる。
見えたのは、夢見主の姿——鬼林が、星座のように折れ曲がった道の上で、棒立ちになっていた。
「鬼林」
返事はない。呆然とした意識の中にいる鬼林には、僕の声は鈍すぎたようだ。もう一度、僕が大きく呼ぶと、鬼林は「——えっ」と肩を揺らした。
「その声は、枕部か?」鬼林はきょろきょろとあたりを見回す。「どこにいるんだ?」
「お前の夢の中には、どこにもいない」僕は答える。「眺診器を使って、客観的に覗き見ることができるだけ。だから、僕の声も、ただの現実世界からの呼びかけだ。お前の耳が僕の声を拾い、それを脳で再生しているにすぎない」
鬼林はぼんやりとした声で「ここは俺の夢の中なのか?」と紡ぐ。
「ああ。まだ浅い眠りだから、睡眠活動が活発じゃないけど、きっとすぐに始まるよ。意識を引っぱられないように気をつけて」
そうこうしているあいだに、夢の世界は歪む。歪むといっても、次第にピントが合っていくような感覚だった。明度と彩度も引き上げられ、視界が研ぎ澄まされていく。
そこにあったのは、薄緑の門に、葉桜並木——我らが意気軒高校の校門前の景色だった。生温くなったマーガリンのような色をした校舎も見える。時間設定は曖昧で、朝とも夕暮れどきともとれる空をしていた。風や匂いは感じられず、温度さえない。情報として感じられるのは視覚と、内臓や脳波が蠢くような、わずかな聴覚だけ。
そのとき、上空から、ぽろりとなにかが降ってきた。鬼林の足元で一度だけバウンドして落ち着く。それは〝cannot believe one's eyes〟という英単語だった。
鬼林は「なんだこれ」と呟く。
「夢は記憶の整理だからね。発生源はお前だよ、心当たりあるんじゃない?」
「あー……今日のテスト勉強、イディオムの暗記だったっけな」
それを皮切りに、いくつものイディオムが空から降ってきた。雪のように降り積もり、地面を覆っていく。ただそれだけだったはずが、いつしかそのイディオムたちは、立ちつくす鬼林の足を這いあがってきた。
「う、わ、なんだ、これ! 気持ち悪っ」
鬼林はしがらみを振り払うようにして逃げる。校舎のほうへ駆けだすも、イディオムは鬼林を迫ってきた。鬼林は必死に手足を動かしていたが、思うように進まない。
僕は諭すように告げる。
「落ち着け、鬼林。これはお前の夢だ。だから、お前は自由に走れる」
そう言うと、さっきまでが嘘のように、鬼林のスピードは上がった。鬼林は校舎の中に入り、階段を駆けのぼっていく。鬼林は息を切らしながら呟く。
「いつも夢って、走っても走っても逃げられないんだよなあ」
「明晰夢の訓練を受けていないからね」
「明晰夢?」
「夢であることを自覚しながら見ている夢のこと。明晰夢の夢見主は、自分の夢を自由にコントロールできる。自分の体だって思いどおりに動かせるんだ」僕は続ける。「今回は、僕がお前の夢に介入することで、お前を導く」
鬼林は胡乱な目をして言葉を返す。
「導くって、どこに? 枕部は、睡眠薬を盛った相手に、なにをさせようって?」
「悪かったって。だけど、鬼ヶ島に乗りこんですることなんて、一つしかないだろ」
そのとき、いくら駆けあがっても階段に途切れ目がないことに、鬼林は気づいた。
途端、
そんな鬼林がハッと振り返ったのは、甲高い嘶いななきが空気を
向き直った先にいた、一頭の馬。
月長石のように青白く光沢した逞しい体に、きらきらと閃く
息を呑むほど幻想的な姿に、僕も鬼林も数瞬だけ見惚れた。
安っぽく毒々しい世界には不釣り合いな、月光を思わせる葦毛の牝馬。
そいつは、あまりにでたらめな存在感で、あからさまに立ちはだかっていた。
「……文字どおり、馬脚を
牝馬は土を蹴るようにして蹄を鳴らす。耳を後ろへと萎ませて、歯を剥きだしにした。
「悪夢退治だ。あれを討ち取れ、鬼林」
「……えっ」鬼林はあてもなく振り向く。「俺がすんの?」
「うん。がんばって」
「いや、タイムタイム、なんで俺。枕部がなんとかしてくれる流れだったじゃん」
「言ったろ。僕は夢を見ない。夢を見ることができないから、他人の夢にも干渉できない。できることと言えば、眺診器で観測し、夢見主のサポートをすることだけ」
だから、本当は、こうなる前にかたをつけたかった。夢を見れない僕にとって、夢に潜らねばならないほどの重篤はハンデ戦だ。僕自身は悪夢にまったく干渉できないうえ、悪夢退治の実戦の一切を患者に委ねることになる。患者への負担は甚だしい。現実世界での施術方法もないことはないが、僕は一身の都合上、その選択を選べない。
となると、特攻にして特効の、この策しかない。
「枕部、お前、」鬼林は目を眇める。「いい夢見せてくれるんじゃなかったのか」
「大丈夫。いい夢にする」
「けっこう俺ありきの策じゃん。あの、お前の言うこと聞かなかった俺の自業自得だとも思うんだけど、もうちょっと自動的に助けてくんない? いきなりがんばれとか言われても」
「まあ、落ち着けって。夢は外部刺激に左右されやすい。それに、どうやら、お前は真に受けるタイプみたいだから、むしろ勝手がいいくらいだよ」困惑する鬼林に、僕は呪文のように囁く。「いいかい、鬼林——弓道部エースのお前は、悪夢退治にはうってつけだ。その手に持つのは、扇の的を射抜いた
すると、鬼林の左手に、大きな弓が現れる。弓だけじゃない——右手には
僕の囁きを真に受けた鬼林は、武装を完了させる。
「さあ、射貫いてやれ、鬼林」
鬼林は震えを歯噛みしながら、獰猛に笑った。
牝馬が襲いかかってくると同時に、鬼林は矢を番える。美しき弓構えののち、空気を割くような矢が放たれた。牝馬がそれを避けると、矢は瑪瑙の空を穿った。空は、貝殻のような波紋状に割れ、甲高く砕け落ちていく。その断口からイディオムが落ちてきては、次々に校舎を破壊した。舞う粉塵を掻き分けながら、鬼林は牝馬の猛攻から
鬼林の手の内には再び、すうっと、破魔矢が握られた。夢ならではの、辻褄の合わない、永久機関的な現象だった。その都合のよさは、鬼林自身も無意識に自己を催眠している、興が乗っている証拠だ。
鬼林はそれを番え、また牝馬へと放つ。
しかし、牝馬を庇うようにして、穴の開いた空から、カラフルなピニャータが降った。
矢はピニャータを穿ち、中に入っていた紙吹雪やキャンディーをきらきらと舞わせた。鬼林は舌を打つ。すると、またもやピニャータが空から落ちてくる。鬼林はそれを弓身でいなすも、次の瞬間、いなしたピニャータが爆発した。鬼林は「なんでもありかよ!」と呻きながら後退し、焼けた左手をぶんぶんと振った。
「夢の世界だからね。だけど、これじゃあ埒が明かない……鬼林、将を射んと欲すればまず馬を射よ、だ」
「その将がじゃじゃ馬のときは?」
「この夢の世界フィールドをぶっ壊せ。病原体が牝馬でも、症状はここだ。悪夢ごと討ち祓うんだ」
鬼林は、降り注ぐイディオムの山を、ジャングルジムのように登っていく。そのてっぺんにまで到達したとき、鬼林の右手には三本の破魔矢が宿った。鬼林はそれを天へと掲げ、連続で射る。
花火が打ちあがるような鋭い音色のあと、空は割れて、ステンドグラスの小片のように崩れ、合唱する。
そこへ
牝馬が、鬼林の立つイディオムの山に、突進してきた。
振動で転びそうになり、踏鞴たたらを踏んだ鬼林は、「こんにゃろ」と唸ったかと思うと、山からジャンプした。見事、牝馬の背に飛び乗る。
牝馬は暴れた。鬼林を振り落とさん勢いで疾走する。鬼林は乱れる鬣たてがみを掴み、腿で胴体を挟みこむことで、やっとしがみついているような状態だった。
このままでは危ういと、僕は囁く。
「馬に乗るなら、ちゃんと手綱は握っておけよ」
たちまち、牝馬の口には
それはまさしく騎射うまゆみによる厄祓い——流鏑馬のようだった。
馬を馳せる、精密で正確な射手により、悪夢は次々と射貫かれていく。
度重なる爆風を物ともせず、鬼林は颯爽と駆けた。
その英姿は劇的で、ただ眺めている僕でさえも見惚れた。超幻想の神事は、熱も冷めやらないまま、爽快のクライマックスを迎えていた。空も、校舎も、イディオムもピニャータも、全てが瓦礫のように崩れ、壊れていく。鬼林を苛んだ悪夢が、次々と射貫かれ、消え失せていく。
その様に、僕はこの悪夢の終わりを悟った。
夢見主である鬼林もそうなのだろう。鬼林は馬の背から飛び降りて、雪崩れこむように着地する。解放された牝馬は大きく旋回し、これまで己の手綱を握った、狼藉者の鬼林へ、嘶きながら突進していく。
鬼林は立ち上がり、まっすぐに牝馬を見ている。
そして、緩慢な動きで矢を番え、美しい弓構えで静止した。
永久にも似た刹那のあと、ついぞ鬼林はその矢を放つ。
ひときわ甲高く鳴り響いた音を置き去りにする速さで、放たれた矢は、牝馬に、
「……――おはよう」
鬼林は、覚醒した。
一瞬にして息の根の止まった映像を振り払うように、僕は眺診器を片手で外し、保健室のベッドの上で目を見開いている鬼林を覗きこむ。アイマスクはつけっ放し。黒いベスト越しの体は息を呑んだまま強張り、その左手は弓を掴んでいたときのまま、固く握りしめられていた。
「……なーにが治してやる、だ」鬼林はアイマスクをずらし、僕を睨みつけながら、ゆっくりと乾いた口を開いた。「正夢になったわ」
すっかり薄暗くなった宵時の青い影が、僕たちの熱を冷ます。凝り固まった体をほぐすように体を捩らせる。鬼林の言葉に「なにが?」と尋ね返すと、鬼林は答える。
「睡眠薬を飲まされて、ロデオしながら矢を射る夢」
やっぱり僕はわからなくて目を瞬かせたけれど、そのあと、首を傾げて笑った。
「そいつは良性だ」僕は続ける。「いい夢だったろ?」
——かくして、鬼林の正夢は、幕を閉じたのだった。
さて。鬼林の手術は成功。鬼林の病後についてだが、ある程度安定するまで、引き続き診察を続け、その経過を見る必要があった。
病後と言ったけれど、完治したというわけではない。鬼林曰く、悪夢を見ること自体はめっきりなくなったそうだが、正夢を見る頻度はあまり変わらないのだとか。それもそのはず、病原体を駆逐しても、症状はすぐには治まらない。牝馬を射殺してもまた然りだ。
なので、僕と鬼林の朝の日課は、相変わらず続いていた。
今日も今日とて、瑞々しい白金の光が差しこむ教室で、鬼林の他愛もない夢について語らう。朝練後の熱気を帯びた鬼林は、ベストを脱いで鞄の上にかけていた。そうでなくとも最近は暖かくなってきていて、僕も着ているカーディガンを薄手のものに変えなければならなかった。鬼林の話題が、夢から今日の天気へ、気温から制汗剤へと移ろっていく。
そんなとき、ポケットにあった僕の
アプリを起動させて画面を確認すると、廊下から隠し撮っただろう、僕と鬼林のツーショットが送られてきていた。ご丁寧に加工までされていて、フィルター処理でフォトジェニックに仕上げられ、且つ、洒落た書体で「一人目おめでとう!」の文字まで添えられていた。
なんだこれ。
僕は廊下のほうへと目を遣る。
そこには画像の送り主である猟ヶ寺がいて、にこりともせずに手を振っていた。
登校したばかりなのだろう。背には淡い色合いをした革製のスクエアリュックを背負っている。小豆色の髪を際立たせる、プレッピーなラインの入ったアイボリーのカーディガンは、近頃の気温を意識した薄手のものだ。大きめのサイズなのかゆったりしたラインで、しなやかな体を覆っていた。
同じクラスのくせに、教室に入ってくる気配はない。どころか、用は済んだとばかりに去っていこうとするので、僕は鬼林に断って、猟ヶ寺の後を追った。僕が廊下に踏み出した瞬間、キュピッ、という、ぬいぐるみの鳴き笛を思わせるシャッター音。踵を返した猟ヶ寺が、横向きにした
「なんで撮った」
「一人目おめでとう記念よ」
「もう送ってくれたと思うんだけど。ていうか、その珍妙なカバーケースはなに」
「スペースキャット」
猟ヶ寺は答えるすがら、また僕に画像を送りつける。ついさっき撮られた写真のようだったが、今度も劇的な加工が施されていた。生来の色素の薄い眠たげな僕の目は、別人のように見開かれ、きらきらと輝いていた。頭からは犬耳がぴょこんと生えており、愛らしくはあるものの、所詮は僕、といった仕上がりだ。
「……二人目以降も、こんなことをするのか?」
僕はため息をついて、問いかけた。
「そこまで考えてはいなかったけれど、いいかもしれないわね。次はコラージュでも作ってあげましょうか? 言っておくけれど、私の技術では動画編集までが限界」
僕が「女子ってすごい……」と呟くと、猟ヶ寺は「アプリがすごいの」と返す。
「だけど、一人目はビギナーズラックってところでしょうね。今回、枕部くんが彼を攻略できたのは、これがアイドルのオーディションだったからよ。宝塚なら落とされていたわ」
「どっちの倍率のが高いかは知らないけど、お前なら宝塚にも受かりそうだな」
「私だから受かる、というよりも、貴方だから落ちるのよ、枕部くん」
その言葉に、僕は閉口した。
僕だから——夢を見ない、僕だから。
ひとは夢に憑かれる。そう、祖母は言っていた。そして、悪夢に魘される夢見主の心を守るのが、悪夢祓いの役目だとも。
そんな悪夢祓いである枕部一門の当主である祖母・枕部
そんななか、臥せる床で、祖母は言った。
直系の孫である狩月を、次期当主に指名する——と。
僕の体質は悪夢祓いにはうってつけだ。しかし、今回の一件からも明らかなように、施術行為にはひどく不向きだった。僕が次期当主の座に就くことに、一族は賛否両論の嵐だった。そんな風当たりの悪さを悟っていたかのように、祖母は僕への使命と同時に、とあることを僕に言い渡したのだ。
——枕部一門の次期当主に、悪夢祓いに、お前が本当にふさわしいか、証明してみせよ。
それこそが、祖母から僕に与えられた継承試験。
この高校にいる、悪性の夢見主の四人を治療すること。
期間は一年。夢見主は不明。なんの夢に魘されているかもわからない。ただこの意気軒高校にいるということだけは明らかである、四人の夢見主を見つけだし、その悪夢を祓うことが、僕に出された次期当主になるための条件だった。
「夢見主・鬼林駆矢。病状は、正夢による心身のストレス。治療はこれからも続くとはいえ、一人目はこれで達成ね」猟ヶ寺は淡々と告げる。「正直に言うとね……どうせ無理だろうと思ったわ。私は、貴方に、一寸の期待もしていないから。だけど、あの方が選んだのは、あくまで貴方。そして、試されているのも貴方。だから、私は、あの方が選んだ貴方を尊重する。たとえ貴方が、どれだけの病よりも重症な、薄情者だったとしてもね」
予鈴が鳴る。話し声で騒がしかった廊下に、
猟ヶ寺は身を翻した。その背中に「どこに行く」と声をかけると、「トイレ。枕部くんに引き止められて、行けなかったから」と返ってきた。申し訳ないと思って見送ったが、よくよく考えてみたら、別に僕は引き止めてなかった。
——病床に臥せる祖母は、僕に言った。
「施術を不得手とすることが気がかりなんじゃないよ、狩月。悪夢祓いの役目は、悪夢を祓うことじゃない。夢見主の心を守ることさ。だから、思うんだよ。お前は誰よりも悪夢祓いらしく、そして誰よりもらしくない、ってね」
そのとき、僕はよほど不服な顔をしていたのだろう。
祖母はいじらしいものを見るように目を細め、僕に続けた。
「何故なら、お前は夢を見ないから。だから、夢見る患者の心がわからない。もちろん、まったくの無理解というわけではないだろうけどね。それでも、お前はよく言うじゃないか。眠れば忘れる」
ひとが夢を見るのは、記憶の整理をするため、感情を整理するためと言われている。
しかし、夢を見ない僕にとって、それらは整理するまでもなく、定着せずに淘汰していく。
一夜で紛れる、儚い代物なのだ。眠れば自然と忘れてしまう。
「だから、ひとの心が震えることのわけを、お前は理解できない」
それこそが僕の致命的な欠点だと、祖母は言うのだった。
「心を知りなさい、狩月。喜びとはどんな色なのか、悲しみとはどんな温度なのか、苦しみとはどれほど深く、怒りとはどれほど気高いか。そして、それらが、ひとによって驚くほど違うことを知りなさい」
僕にはまだ、なにもわからない。
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