自己好定感

七戸寧子 / 栗饅頭

本編

「自分の部位、どこが一番好き?」


 変態という言葉は、こういった質問を何気なく振ってくる人種に使うのだと悟った。ペン回しに熱中している者に投げかける質問ではない。そもそも、何が一番好きかというのを問うのはナンセンスだ。物事の良さや、それに対する感情を比較するのは好ましくない。ハンバーガーと寿司は同じ秤に掛けるべきではないのだ。


 それはそれとして、部位。自分の好きな部位など意識したこともない。当然のように問うてくる友人の常識を疑う。ひょっとしたら、常識がないのは自分の方かとさえ思う。常人は普段から自分の好きな部位を答えられて、それが出来ない俺は奇人あるいは狂人に分類されるのかもしれない。常識のない俺は問うた。


「お前は自分のどこが好きなんだ?」


「オレ? 全部」


 自信満々の返答に、自分の頭の悪さを呪った。この男に訊けばそういう答えが返ってくるというのはよくわかっていたことだった。もっと萎縮した返答を寄越すこの男よりも、金魚鉢で船外活動をする宇宙飛行士の方が現実的に思えた。


「全部好きだと思った方が幸せだからな」


「俺もそう思えるアホになりたいよ」


 自分を好きか嫌いかと問われれば嫌いな方だ。これという理由はないが、他人を見れば羨ましい部分ばかりで、自分はダメな人間だと痛感させられることが多い。ルックスもスタイルも、頭も運動も自分より上がいる。当然なのは当然だが、そこでどう自信を獲得しろというのか。そうやって落ち込むあたり、ハートも雑魚だ。


 しかし、問いには答えるのが筋だ。クルクルと指の間でシャーペンを踊らせながら、回答を練る。強いて言うとすれば――


「首、かな」


「首? なんでまた」


「そこらの人間より綺麗な形かな、と」


「はは、そうかもな」


 言ってみると、少々恥ずかしい。それでも、口に出した分はきっちり自信として自分のモノにできた気がした。たまには自分を褒めてみるのも悪くないかもしれない。そんなことを思った刹那。


 カラン。


 指先から、ペンがすっ飛んだ。床とぶつかって、乾いた音が人気のない教室に響く。


「お前が失敗するなんて珍しいな」


 友がけらけら笑う。認めるのは癪だが、反論の余地はない。黙って床のペンを拾おうと手を伸ばす。ふと、違和感が体内を跳ねる。


 ペンを拾えない。指に力が入らない。


「どうした?」


「いや、なんでも……」


 何かの間違いだ。もう一度、指先に動けと命じる。しかし、指はぶらんと重力に引かれたままだ。指に力が入らないなら、絡めとろうと試みる。あえなく失敗ホトトギス。何回チャレンジしてもペンは取れない。嫌な汗が額を伝い、首裏でひやりとした感触がもぞもぞと寝返りを打つ。


「そういえば、お前の指って綺麗だよな」


 俺が床のペン――自分の指と言った方が正しいかもしれない――と格闘しているところに茶々が入る。


 それどころではないのだ。見た目がいくらよかろうと動いてくれないのでは仕方がない。しかし、ふと意識して自分の指を眺めてみれば、細くて長い様は綺麗とも呼べる気がした。


「……そうかもな」


 思えば、この指にはずっと世話になってきた。生きている中で指を取り替える機会などそうそうないだろうが、それでも「自分の指」というのは妙に愛着が湧くものだった。


「俺、指も好きかもしれない」


 口に出した瞬間、心臓が脈打つのを感じた。血液が流れ込んで指の先まで浸透する。生を取り戻したような指先がペンの輪郭をはさみ、器用に持ち上げた。手を開いたり握ったりしても問題なし。クルクルとペンを回してみると、いつも通りに円形の残像を描いた。ほっと額を拭った。焦って喉が乾いたので、リュックサックからアイスティーのペットボトルを取り出す。キャップを回す指は完全に本調子だ。


 アイスティーは微糖が好きだ。ホットは無糖だが、アイスは微糖。食事につけるにも、喉を潤すにも丁度いい。喉を鳴らしながら一気に飲んでも甘すぎず、口に溜めて味を楽しんでも紅茶の渋味が目立たない。そういえば、さっきの指が治ったのは「指が綺麗」だとかの話がきっかけだった気がする。指の不調と会話に因果関係があるとはにわかに思えないが、とりあえず友人の茶々には感謝しておこう。アイスティーだけに。くだらない言葉遊びに自分でにやけながら、アイスティーを頬袋に含む。そこで脳を過ぎる違和感。


 甘くない。


 さっきまではちゃんと俺が好きな微糖のアイスティーだったはずだ。ペットボトルのラベルだってそう訴えている。しかし、口内で舌を浸らす液体はまるで無糖。否、無味。水よりも味がない。思わず吐き出したくなるくらいに不味い。


 悲しい味がする液体を飲み下し、なにかの間違いだろうと再度ボトルからアイスティーを摂取する。残念ながら無味。


「なぁ、このアイスティー飲んでみてよ」


「間接キス?」


 実に変態的な返しにデジャヴを感じる。少々気が進まないが、ペットボトルを押し付け味を確認させる。


「どう?」


「ドキドキした」


「キモすぎだろ。有罪、懲役三百年」


「冗談だって。ジャパニーズジョーク。欧米式の懲役じゃなくて普通に終身刑にしてくれ」


 この男が社会人になったら、三分も経たないうちにセクハラで処罰されるのではないだろうか。


「そんなことはどうでもいいんだよ、味は?」


「普通にうまかったよ」


 つまり、無味じゃないと。おかしいのは俺の舌のようだ。さっきの指にしても何かが変だ。冗談話をさっさと切り上げて帰って寝た方がいいかもしれない。


「全く冗談がお上手だな。そういう舌もいい所だと思うぜ」


「さっきから指やら舌やら褒めて気持ち悪いな。ムショ暮らしプラス五十年な」


「勘弁してくれ。で、舌は好き?」


「……お前に免じて好きということにしておこう」


 馬鹿馬鹿しい会話の末に何気なくペットボトルに口をつける。口内に流入した液体はほんのり甘かった。しばらくはその甘さに甘えていたが、ハッとしてポケットからミントのタブレットを取り出して口に投げ込む。痛快なメンソール味。ひりひりと痛む舌は至っていつも通り。胸を撫で下ろす。そして、ポツリ。


「……今日はなんか変な日だな」


「なにが? 天気いいじゃん」


「独り言。あと天気の話は関係ない」


 そういえば確かに、今日はよく晴れていた気がする。登校する時、空の青さが眩しいくらいだった。強めの日差しで滲む汗のために、俺はアイスティーを買ったのだ。


 空の話をすると、空を見たくなるのが人の常だ。窓の外に目を向ける。目に飛び込む一面の闇。


 え、今、何時? こんな遅かったっけ?


 腕時計を確認すべく、目線を下ろす。それでも闇。窓の外を見ていたはずが、どこもかしこも闇。見渡しても闇。


 普通だったら焦るシチュエーションにも俺は冷静だった。というか、ここまで来て気づかない方がおかしい。今度は目がダメになった。憐れな俺。


 さて、状況を整理しよう。最初は指だ。指が動かなくなった。次は舌。味覚が死んだ。どうやって解決しただろうか。短時間で起こったことなだけあって、情報は少ない。故に、共通点も絞られる。解を見つけるのは簡単だった。


「そうそう、俺、目も好きだった」


 口にした瞬間、目に広がる青空。青というには橙がかかっており、放課後の「今日も疲れたなぁ」に似合う色。瞬きしても、同じ光景。目が見えるって素晴らしい。


「お前、なんだかんだ言って自分のこと結構好きじゃん」


「まぁ、仕方なく」


「仕方なく好きってなんだよ。妬けるな」


 はっはっは、そりゃどうも。


 と言いたかったわけだが。今度は声帯が仕事をしない。さて、口に出すのが条件っぽかったけどどうしようか。おもむろに取り出したルーズリーフに、俺の素敵な指でペンを滑らせる。


 実は、声も好き。


「……んん、うん、ん。あー、テステス」


「……は?」


「いや、なんでも」


 今日は本当に変な日だ。俺の体はどれだけ愛に飢えているのだろうか。次から次へと、どこかを好きという度にどこかが拗ねる。「妬ける」という表現は意外と合っているかもしれない。あまり忖度というのは好きではないのでやめてほしいものだ。


 じゃあほら、次はどこだ? 俺が愛してやるから、拗ねてみせるがいい。


 ため息混じりにそんなことを脳内で呟く。瞬時に、嫉妬が俺に襲いかかる。


「まっ……て、それは聞いてな……」


 ため息をついたことを後悔した。苦しい。持久走の後よりも、水の中にいるよりも苦しい。息を吸っても酸素が入ってくる感じがしない。違う。吸おうとしても、空気が肺に入ってこない。『肺』に『入』って……やばい笑う、この状況で笑うのは酸素使い果たしてマジで死ぬ。いやなに、マジでなに? 肺? 肺だね?


「は……肺も……好……キ」


 さて、これで空気が。入ってこない。肺に。入ってこない。あーこれは死んだな。なに。マジで何。嫉妬してんの誰だよ。よしよししてやるから。愛してやるから俺を生かしてくれ。頼むって。誰だよ。誰。肺じゃないなら、誰。あーーー思考が止まりそう、死ぬか? 死ぬな。肺と関連付けてなにか……。


「オ……おう……かくまく……好き……」


 胸が膨らむ感じがした。比喩ではなく、物理的に。深呼吸をすれば、新鮮……でもない室内の空気が肺に吸い込まれて酸素を体内に提供する。三途の川が見えるところだった。半分くらい見えていた気もする。


 正解でよかった。縁の下の力持ちならぬ、肺の下の力持ち。横隔膜ちゃんも欲しがりなんだからまったくもう。


 そしてその正解を導けた俺の脳も相当優秀だ。好きだぜ。先手を打っておかねば、脳が働かなくなってしまっては本当におしまいだ。


 全く、どうして俺の体はこんなに俺からの「好き」を求めているのだろうか。頬杖をつきながらそんなことを考える。なんだか、自分が愛を欲しているようで嫌になってくる。ただでさえ自分が好きでもないのに、余計に嫌いになりそうだ。


 途端、ガクンと視界が落ちる。


 頬杖がズレたらしい。次は腕か、世話が焼ける。机にピタリとくっついた視界で、我が友が俺の事を心配して立ち上がるのが見えた。


「おいおい、大じょ


 そこで言葉は消えた。無音。今度は耳も同時らしい。勘弁してくれ。


 ひとまず体を起こそうと、座り方を変えようと試みる。しかし、脚は言うことを聞かない。重心の移動も許されない。


 待て待て、やめてくれよ。


 先程愛を囁いた目は、俺の顔を覗き込む友の顔をありありと俺に伝えた。相当心配されているらしい。口を動かしていても、何を言っているのか俺には聞こえない。


 彼が俺の体に手を回す。肩を担いで、立たせようとしてくれる。でも、俺の体はほとんど力が入らない。みんな愛に飢えている。動くのは首と指先くらい。気が遠くなってきた。多分どこかの内臓もサボりはじめた。全く、俺ってやつは。言えばいいんだろう。


「……ほんとは」


 口を動かしても、耳が聞こえないので本当に発声できているかは怪しい。でも、友が俺を担ぎながら俺の顔を振り向いてくれるから、多分大丈夫だろう。


「俺は、俺のことが好き」


 そして、脚は地を掴んだ。いい姿勢、凛とした立ち姿は俺の自慢だ。乱れた髪を直すよう手に命令すれば、従順に働く。くるりとその場で回ってみても、いつも通り。靴が床と擦れて、キュッと音を鳴らし俺の鼓膜を揺らす。間違いなく、俺の体だ。


「……お前、大丈夫か?」


「ああ、ちょっと一瞬貧血になっただけ」


 友が心配せぬよう嘘をつく。そういう所も好きだぜ、俺の舌。声。脳。


「……ま、いいか。俺もお前のこと好きだぜ」


「ガールフレンドに言えアホ。懲役五百年」


「げ、また伸びた」


 不思議なこともあるものだ。自分が自分からの愛に飢えて、ボイコットを起こすなんて。自己管理も楽じゃない。


 しかし、自分に愛の囁きを送ってみるのも案外悪くない。思い返してみると気色が悪くて鳥肌が立つが、とにかく悪い気はしない。肩の荷を下ろしたような、はればれとした気分。


 さて、心が楽になったら腹が減った。


「なぁ、コンビニ行こうぜ」


「お、ケチなお前が珍しいな」


「胃が食い物ほしいと駄々こねるもんで」


「なんだそれ」


 さぁ、なにが食いたい。自らに問うてみれば、無数の答えが返ってくる。全く、俺というのはどうしようもないやつだ。口元と財布の紐が緩む。


 寒々しい懐をよそに、心とホットスナックはほかほかと暖かかった。

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