とてもよいところ

園田汐

第1話

 こんなに軽い命なのに、賭けられるものなんて何もない。壁際に積み重なった小説たちは墓石のように思えた。誰のって、私の。読んだ本よりも読んでない本の方が多い。一番下のやつなんて取るのも一苦労だし、そもそもそんな重労働、しようとすら思わない。他の本の下敷きになるために書かれたわけじゃないのに、と私だったら嘆き悲しんでいるだろうな。なんてことを予定のない日曜の午後に考えている。季節は春の暮れ、網戸だけを閉めた扉の向こう側からは親子らしき声が聞こえてくる。向かいのマンションからだろうか、私の住む建物とは違って部屋が三つも四つもあるのだ、きっと。

 綺麗なものをもっと見れる。そう思っていた。歳を重ねて、一人暮らしを始め、自由になったらお金を貯めていろんな場所に行っていろんな人と会って、そして綺麗なものをいっぱい見るんだと十七歳の頃の私は決めていた。大学に入学してもうすぐ三年が経とうとしているけれど、海外はおろか国内旅行にすら行っていない。学校とワンルームのこの部屋、たまにホテル、それか誰かのワンルーム、そんな狭い場所ばかりを三年間行ったり来たりしている。正確には今年一年は休学していたし、来年も休学する予定だから学校はその場所たちから排除すべきかもしれない。

 ベッドの脇に横たわっている二リットルのペットボトルに口をつけて水を身体に流し込む。床は日曜日の健康的な光に照らされるには散らかりすぎている。昨日、バイトからの帰り道、食べ物を買い込んで胃に詰め込みそしてトイレで吐き出してを三回繰り返してそのまま寝たのだった。赤地に黄色いMのハンバーガーチェーンでハンバーガーを五つ、スーパーでプリン、ロールケーキ、菓子パンを買い込んだ気がする。胃は空っぽなはずなのに、何も食べる気が起きない。でも、何かエネルギーを摂取しなければ今日を始めることもできない。散り散りになっていた気力をかき集めて冷蔵庫を開ける。りんご入りのヨーグルトを取り出して二十秒程で胃に収める。もう一度冷蔵庫を開けて昨日買い込んだ食べ物の残りを全てゴミ袋に捨てる。きっと、世界一無駄なお金の使い方だ。二、三千円分の食べ物を買って食べて吐いて残りを捨てる、週の半分はそんな生活を送っている。

 換気扇を回してタバコに火をつける。スマートフォンから音楽を再生してバイトのシフトを確認する。今日も明日も休みらしい。オフの日を何もせずダラダラと過ごすのは好きだ。だけど、なんだかこの二連休をこのまま一人で終わらせるのは悔しい気がして、通知の溜まっているメッセージアプリを開いて知り合い達を物色する。男に会う気分ではないな、可愛い女がいい、そう思ってヒナに通話をかけてみる。スマホを握りしめていたのかコール音が鳴る隙もなくヒナの声が聞こえてくる。

「久しぶり〜どうしたの?」

「ん、今日暇してる?予定なければ会わない?」

「え〜!嬉しい。もちろん会うよ〜」

 甘ったるい声だ。男にモテて女に嫌われるタイプってやつ。こんなこと言ったらフェミニスト?って人たちから怒られそう。どうでも良いじゃないかバカな男にモテてバカな女に嫌われるような女、でも私はヒナを可愛いと思う。私が誰かに向ける感情にいちいち難癖をつけられてはたまったもんじゃない。

 待ち合わせは自由ヶ丘に一時間半後。シャワーを浴びながら歯を磨いて髪を乾かし目元にだけメイクをする。顔全体にメイクをするのが苦手、なんか息苦しいし、化粧品の匂いで酔いそうになる。目元にメイクをするのは好き、その日の気分に合わせてアクセサリーを選んでいるような気持ちになる。口紅を引くのも好きだけど今日は気分じゃないからやめておく。ノースリーブとスラックスのセットアップを身につける、色は黒。香水を首元と腕にワンプッシュ、そのあと空間にワンプッシュして香りの中をくぐり抜ける。寝起きの気怠さはどこかへ姿を隠して気持ちは上を向いている。好きな香りを身に纏うのは私が自分の機嫌を取るときに良くとる行動だ。

 吊り革に捕まって大きな鉄の塊に揺られる。いくつかの視線が自分に集まってるのを感じる。その理由は分かっている、私の右腕を覆っているタトゥーをみんな見ているのだ。たしかに自分にとって異質なものを見てしまうのは理解できる。私だって街中でタトゥーが入っている人を見かけると二度見してしまう。けれど、ずっと凝視するのはいかがなものだろう、気分がいいとは決して言えない。時たま、若い女の子が勿体無い、なんて言われることもある。そんなことを言うのは大抵中年のサラリーマンか老人、ケバケバしいオバサン、あとは自分に酔ってる大学生の男どもだ。みんな総じてつまらない人間。勿体無いってなに?それは私自身が決める。そんなことを毎回思っては毎回飲み込む。

 改札を抜けるとすぐにヒナの姿が目に飛び込んでくる。フリフリのロリータファッション、甘ロリというやつだ、前にヒナから教わった。

「ウミネちゃん!久しぶり〜」

 同じくすぐに私を見つけたヒナが駆け寄ってきて腕に抱きつく。

「わ、すごくいい香り、どこの香水?」

「ギャルソンのブラックペッパーっていうやつだよ」

 背伸びをして私の首元に鼻を寄せて息を大きく吸い込む。

「クラっときちゃう匂い。すごく似合ってる」

 トロンとした目で私を見つめる。そんな目をするにはまだ明るすぎるんじゃないか、なんて思いながら私も私でヒナの頬を手の甲で撫ぜる。今すぐキスしてしまいたくなって、軽くその唇に私のそれを添わせる。

「サンローランのリップ。私この匂い好き」

「知ってる。だから付けてきたのよ」

 やっぱり可愛い。ああ、なんでこんなに可愛くて私のことが大好きな子を私は好きにならないのだろう。可愛いし、愛でたい、キスもしたいし触れたい、でもヒナが消えたって死んだって一ミリも傷つかない、そう確信できる。大事にしたいどころか粗末に扱いたくなる。

 五分ほど歩いて入店した喫茶店はヒナによく似合っていた。コーヒーカップとヒナの洋服はもとはセットで売られてたものなんじゃないかと思うほどだ。多分私はこの店内ですごく浮いている。

「ウミネちゃんの腕の花とそのティーカップすごく合うね」

 私の心を見透かして、それをフォローするようなことをさらりと言う。ヒナと会うと気分が落ち着く、褒めてくれるから、大嫌いな自分をベタベタに甘やかしてくれる。そんなに言うならまだ死なないでおくか、って気分になれる。

 暖かな照明の中で、私たちは二時間ほどひそひそとお喋りをした。別にナイショの話でも聞かれて困る話でもないのに。チョコレートケーキは洋酒が沢山入っていて、鼻から抜ける香りが気持ち良かった。最近仕事が上手くいってるの、とその場の勘定はヒナが持ち外に出た。ヒナといて私がお金を払う機会はほとんどない。ヒナの仕事はドール職人、リアルな質感の綺麗な女の子と人形用の服を作って売っている。以前一体あたりの値段を聞いた時は驚かされた。多分仕事が上手くいっているというのは嘘じゃなく本当に稼いでいるのだ。

「ごちそうさま、ありがとう」

「こちらこそ、ありがと。この後どうする?」

 外は、昼というには柔らかく夕暮れというには明るい。宙ぶらりんな時間。

「とりあえずタバコ一本吸わせて」

 ソフトのピースをポケットから取り出して火をつける。ぬるい煙が舌にまとわりつく。

「おうち、行ってもいい?」

 自ら誰かの家に行かせてほしいと乞うことは私にとってとんでもなく恥ずかしいことの一つ。だって、そいつを求めてるみたい。実際のところ求めているのはその人自身なのか、誰でもいい誰かなのか、分からない。分からないけど求めていることには嘘はない。そんな自分の弱さを見られるようで恥ずかしいのだ。だからボソッと呟く、タバコの煙に紛れるように。

 ん?とヒナは聞こえなかったフリをする。この女、絶対に私のことが大好きで今すぐにでも抱いてほしいくせに。今、この場でめちゃくちゃにしたい衝動に駆られる。

「おうち行かせて」

 ハッキリとした発音でもう一度俯きながら言葉にする。指先からタバコを地面に落として爪先で執拗に踏みつぶす。燃え切らなかった葉っぱがアスファルトに広がる。汚い。

「いいよ」

 意地悪しちゃった。そう言って、クスクスと嬉しそうに笑う。

 東横線から井の頭線に乗り換えて急行で一駅、そこから徒歩六分の2LDK、大きくてフカフカのベッドにヒナを押し倒す。

「暗くして」

 眼下には火照った顔でこちらを見る可愛い女。

「ダメ。消してあげない」

 ついでにカーテンと窓も開け放つ。優しい色の夕暮れと初夏の涼しさが部屋に流れ込む。

「立って」

「いや、、」

「立て。そのまま脱げ」

 鋭い声で命令すると嬉しそうに従う。惨めで可哀想で、たまらない。だんだん見えてくる白い肌に今すぐにでも舌を這わせたい。毛細血管が透けるほどの白は火照りなのか夕暮れに染まっているのか、白なのに薄桃色をしている。

 ああ、ダメだ。欲に乗っ取られてしまう。そう思ってから何分、何時間?経ったのか、窓の外は暗くて私は横たわっている。ヒナは私の脚の間に顔を埋めて一心不乱に音を立てて舌を動かしている。別にそんなことしなくてもいいのに、女の子を抱く時、自分の身体的快楽は要らない。ただめちゃくちゃにしたいだけ。舐められながらさっきまでの出来事を反芻する。汗で塩辛い首筋、脚の指、脇。大きくてだらしのない乳輪。ふわふわの身体に噛み付く感触、首を絞められて苦しそうでブサイクで充血した顔。窓が開いてることなんて頭の隅にもないような喘ぎ声。なんで私の股の間には男にだけついているアレがないのだろう。女の子とセックスをするたびにその違和感を感じる。なんでないの?だって、この穴に、こんなにもアレをぶち込んでぐっちゃぐちゃに溶け合いたいのに。どんなに願っても私の身体は女のソレ。もどかしくて頭が狂いそうになる。どんな男どもよりも私が一番その棒を有効活用できる自信があるのに。指がいくら粘膜に触れたって虚しくなる。そんなんじゃ溶けない。粘膜同士を擦り合わせたっておかしなお遊びみたいだし。

「あ、そろそろイク」

 考え事をしている間に身体は絶頂の手前まで来ていた。数秒後、全身が痙攣して思考が途切れる。

 隣にヒナの身体がドサっと仰向けに倒れ込んでくる。それでもまだ、もう一人横になれそうなぐらいのスペースがベッドには残ってる。自分のスペースをちゃんと確保できるからこのベッドが好きだ。

「ウミネちゃんは可愛いね」

 こちらに身体の向きを変えて私の鎖骨に触れる。彼女の手首、普段はファンデーションやら何やらで隠している傷跡が、汗に濡れてあらわになっている。どんなふうに血を流したのだろう。その白くてスベスベな肌からプツプツと赤い水玉が浮き出て線になって流れていくところを見てみたい。

 この女になりたい。強くそう思う。自分をどこまでも女だと確信して生きている、そんな女になれたら楽なんだろうな、私はナニなんだろう。男なのだろうか女なのだろうか、男、女、男、女、頭の中でそう繰り返していくうちに、その言葉は意味を失ってただの音になる。おとこ、おとこ、オトコ、おトコ、おんな、おんナ。自分の左腕を持ち上げて眺めてみる。筋張っていて、線が細くて指が長い、ほとんど毛の生えていない腕。もっとプニプにしてたら、それかもっとゴツゴツして毛も生えていたらな。コレは誰の腕なんだろう。自分のものと思うことは難しい。この髪の毛も足も全部が自分じゃないみたい。座り心地の悪い椅子に腰掛けてるみたいだ。しかも縛り付けられてるから、立ち上がることも叶わない。こんなの拷問みたいなものだと思う。

 お腹が空いていることに気づく。喉も乾いている。

「おなかすいた、のどもかわいた」

「そだね、もう喫茶店でケーキ食べてからずいぶん経つもんね。食べたいものある?」

「んーー、なんかジャンクなものが食べたい」

 自分が今何を食べたいのか分かる人っているのだろうか、いっつも何が食べたいか分からない。だから何を食べても違う気がするし、何を食べても満足な気もする。

「アメリカンピザでもとろっか」

「うん。そうしよ」

 ヒナはイタリアっぽいピザとアメリカっぽいピザを別物だと思ってる。イタリアっぽい方をピッツァと発音してアメリカっぽい方はアメリカンピザと言う。ヒナの言うところのアメリカンピザはまあまあ今の気分にマッチしてる。

「どれがいい?」

 スマホでサイトを開いてメニューのページを私に見せる。

「なんか、この前、生地が薄くてすっごく大きいやつ食べたんだけど、それ美味しかった」

「あ、これじゃない?ニューヨークピザってやつ。いいね美味しそう。これにしちゃおうか。わ、具材倍量とかあるんだ、どうする?倍にしちゃう?」

 小学生のようにはしゃいでいて楽しそう。

「うん、任せる」

 じゃあそうしちゃうね〜、と軽快に画面をタップする。当たり前のように代金はヒナのクレジットカードから引き落とされる。なんだろ、なーんか私って死んじゃったほうが良くない?なんて口に出しそうになるけど甘えてるみたいで嫌だったから言わない。

 裸のままじゃ少し肌寒くなってきてヒナの部屋着を借りる。

「似合うなぁ、スタイルいいなぁ〜」

 ヒナが私を見てそう言うから、鏡に映る自分の姿を見てみる。

「似合うかな、なんか馬鹿っぽくない?犬が服着てるみたい」

 左右反転して映るあなたは誰?と問いかけたくなる。どう考えてもそれが自分とは思えない。

「何その例え、全然馬鹿っぽくないよ〜。それに犬が服着てるの可愛いじゃない」

 手で口を隠して笑う。そういうところ。私にはできないな、羨ましい。鏡に向かって口を開ける。ぽっかりとした黒い空洞があるだけ、空っぽな感じ。だけど本当は空っぽなんかじゃないって知ってる。赤だったり白だったりする肉達でギッシリだってことを知ってる。本当の空っぽになってそのまま風に流されて知らない場所まで行きたい。でも、きっと空っぽになれたって私はその辺の電線に引っかかってカラスにでもつつかれるのがオチだろうな。

「何ずっと口あんぐりさせてるの?変なの。なんかわたしの服着てるとお揃いみたいで嬉しいな」

 インターホンが音を鳴らす。

「あ、届いた!」

 上機嫌でほとんどスキップみたいな足取りで玄関へと向かっていく。その後ろ姿をぼんやり眺めている。服に付けられたフリルが揺れている。

「ねえねえ!本当に大きいよ!凄いね」

 テーブルの上に置かれて蓋を開けられたピザを見て私も驚く。以前見たことがあるはずなのに、こんなに大きかったかなと疑いたくなるほどに大きい。鼻に届く匂いが食欲をそそる。

「いいね。私大きいものって好き。なんかテンション上がる」

 食べ物に関わらず大きなものはいつも心を躍らせてくれる。特に大きな建造物が好きだ。大きければ大きいほど良い、圧倒的な存在感で私自身の存在なんてこの世に初めから無かったかのような気持ちにさせてくれる。

 何か観ながら食べようかとどちらかが言い出して、サブスクで映画を漁ってスーツに身を包んだ男たちがエイリアン退治をする映画をながす。

 何にも感じずに笑える映画を観ながら、ピザを胃に詰めていく。初めの一切れは美味しい、だけどそのあとからは作業みたいなもの。空洞を埋めていく。ヒナが一切れでお腹いっぱいと言い出して結局私がほとんど全部食べた。映画はまだ中盤、空洞が埋まって満たされたと思った途端に、それが吸収されて肉になる恐怖に襲われる。

「吐かなきゃ」

 ヒナにではなく、その辺の空気に向かって話す。

「吐きたいの?まだ過食嘔吐治ってないのね。いいよウチのトイレ使いな」

「水ある?できれば2リットルのペットボトルとかあると嬉しい」

「あるよ。この前ウチで吐いてた時にも聞かれて、その時なかったじゃん?だからウミネちゃんがいつ来てもいいように常備してあるの」

 ありがたい、普通なら家で過食嘔吐なんてされたら、もう二度と来るなって言いたくなるだろうに。

 立ち上がって台所から水を持ってきてくれる。それを受け取ってトイレにこもる。パンパンの胃にさらに水を流し込んで舌を出来るだけ出して人差し指と中指を喉の奥に突っ込む。飲んだばかりの水が勢いよく吐き出され、その後を追うように噛み砕かれたピザたちが出てくる。何度もその作業を繰り返していくうちに苦しさは消えて頭がボワッとしてくる。だんだん出てくるものが少なくなって、緑色の胃液らしき液体が出てくる。ここまできたら胃の中にはほとんど何も残っていない証拠。ようやく安心して座り込む。空っぽになりたいと願うのに胃に物を詰め込んでは満足して、そうかと思えばまた空っぽにしなきゃと躍起になる。いったい私はどうしたら正解なんだろう。

 立ち上がり、蛇口を捻って口周りを綺麗にしてうがいをする。四分の一ぐらいまで減ったペットボトルを持ってトイレを出る。

 映画は途中で停止されている。ヒナはこちらの方を向いて体育座りで健気に待っている。その顔は心配しているように見えた。

「ごめんね、嫌な音聞かせて」

「んーん、もう大丈夫、、?」

 大丈夫ってどんな状態のことなんだろう。

「タバコ吸いたい」

 換気扇の下で吸っていいと言うからその言葉に甘える。遠慮する体力もない。床に座り込んで、水の残ったペットボトルを灰皿代わりにして、左手で灰を落とす。床に垂れ下がる右手にはヒナの左手が重ねられている。生温い体温が気持ち悪い。気持ち悪いと思う自分が心底嫌い。泣きたいと思うのに苦しさは水に姿を変えずに全身の血管を暴れながらうごめいている。何か喋ろうと思っても言葉が出てこない。叫びたい。自分の顔を拳で殴る。横から私を抱いて、大丈夫だよ大丈夫だよと女が言う。

「ああ、もうやだ、なに?この身体、誰のもの?私?嫌だよ。苦しい、生きてるのが苦しい、死ねないのが苦しい、でも本当は何が苦しいのか分からない。それも苦しいし、訳分かんないよ。もう無理、耐えられない、何歳まで生きなきゃいけないの?誰のものかも分かんないこの肉の中にあと何十年居なきゃいけないの?あーー、もうほんと無理。ねえ、ヒナ、アンタは可愛いね、可愛くて可愛くてしょうがないや、殴ってもいい?ねえ殴らせて、お願い。だめ?いいよね?お願い。じゃないと私壊れそう。てかもうこれが壊れてるって感じか」

 自分の口から発せられた声がうるさい。黙れよって叫びたいけど、どこにも届かない。

「うん、いいよ。好きにしていいよ」

「じゃあ今すぐ服脱いでベッドに寝転がって」

 立ち上がってベッドに向かって歩き、私の言葉のとおりにする。指が震えているのか上手くブラジャーのホックを外せずに苦戦している姿を見てるとむしゃくしゃする。

「寝ろ」

 肩を突いて押し倒す。馬乗りになって、力のままに顔を殴る。お腹も、何度も何度も殴る。それでも大丈夫だよと繰り返すからもっともっと殴る。喋れないように思いっきり首を絞める。もがいて暴れるから締める力をもっと強くする、長い爪に引っ掻かれて手の甲から血が出る。そのうちヒナの手から力がなくなって意識がなくなったらまた殴って起こす。

「どうしたらいい?ねえ、どうしたらいいの!!」

 誰かがそう叫んでいる。ヒナの声じゃないからきっと私の言葉だ。

 髪をすく指の感覚に目を覚ます。いつのまにかヒナの上に覆い被さって寝ていた。顔が腫れている、鼻の下で血が乾いている。

「ごめん、私、ヒナのこと、殴ったよね、」

 記憶が途切れ途切れで言葉もうまく繋げない。

「大丈夫」

 だいじょーぶ自分の口の中でもその言葉を転がしてみる。味がしない。

 眠たい、そう思った。もしかしたら口に出してたかもしれない。うん、寝よっかってヒナが言ったから。壁際に身体を転がして移動する。遠いところでヒナがゴソゴソ動いてる音と水の流れる音、それと泣いてる音が聞こえた。夢は見たくない、寝ている間だけでも消えていたい。

 翌日は雨だったと思う。ヒナの顔は見るに堪えなかった。見てるとゲロを吐いてしまいそうで、顔を見せないでほしいとお願いしたら、ヒナは何度もごめんねと謝った。謝られるたびに何かが痛かった。すりおろされる野菜みたいな気分、誰が誰に謝るべきかなんて神様じゃなくても仏様じゃなくても知ってるはずなのに。誰も私には教えてくれなかった。煙たい空気は私から朝を奪っていくように感じた。

 

 目覚ましの音よりも朝が早くやってくると気分がいい。スマホで時間を確認すると、まだ午前四時過ぎらしい。こんな時間に起きてしまったのは、珍しく昨夜は日付の変わる前に寝たからだろう。ベランダに出て青い空気を吸い込む。もう夏なのに、この時間は部屋の中よりも外の方が涼しい。ちょっぴりびっくり、得をした気がして嬉しい気持ちになる。なんとなくバイトを辞めた。辞めたというよりお休みをもらったって感じ。辞めますと言ったら、いつ戻って来てもいいから在籍はしてることにしておくねと店長は優しく応えてくれた。長く働いていた店だったからなんだか嬉しくて、柄にもなくハキハキした声でハイッと返事をしてしまったのが今更になって恥ずかしい。ちょっとずつ貯めてきたお金もあるし、親からの仕送りもまだ貰ってるから何ヶ月かはバイトをしなくても余裕を持って暮らしていける、と思う、多分。

 バイトを休んでから身体の調子も気分も良い。バイトをしている時よりも朝ちゃんと起きて夜ちゃんと寝てる。毎日散歩してるし、気が向いたらストレッチとかジョギングまでしちゃう始末。好きな本を読んで、気になる映画があれば好きな時間の上映に足を運ぶ。これってみんなが言う有意義な時間の使い方ってやつだと思う。

 タバコを吸うためにベランダに出たのにタバコを持ってくるのを忘れてたやと、一旦部屋に引き返す、ついでにすぐに暑くなってしまうだろうから冷房もつけておく。ベランダに戻ってタバコに火をつけると道路のネコと目が合った、二秒ぐらい見つめ合ったけど、プイと私に興味を無くしたように顔を背けてどこかに行ってしまった。ネコも私も早起きだ。いや、もしかするとネコの方は夜更かしさんなのかも知れない。アパートの他の住人がベランダに出てくる音が聞こえる。こんな時間に起きてる人が他にも居たのか、そりゃ居るよな、なんか私だけの世界を邪魔された気がして残念な気持ち。そのまま二度寝しても良かったけど、勿体ないから映画をハシゴすることに決めて今日の上映情報を漁る。新宿の映画館達だと、いい感じにハシゴできるな、休憩を挟みつつ五本も観られる。体力が持つだろうか、分からないけどウキウキする。

 ついでに溜まっているメッセージにも返信する。ヒナから、何も気にしてないからまた会おうね!と送られて来ているメッセージには三週間も既読をつけていない。返事をしてしまった方が楽になれるのは知ってるけど、なんて言えばいいのか全く分からない。あの日から二ヶ月近く経つ、その二日後にバイトを休み始めたから、バイトを休んでからも二ヶ月ぐらい経つってこと。あの日あんなにココロはぼろぼろになったと思ったのに一週間も過ぎないうちにケロッと元気になってしまった。きっともう一生ヒナから連絡が来ることもないと思ったし連絡先も消されてると思ってた。だから私の人生からもヒナの人生からもお互いが消えた気がして気持ちは穏やかだった。だったのに、どうしてあの子は私を許しちゃうんだろう。許されない方が楽なことを知っていて、それであえて許したのならば恐ろしいと思う。絶えずヒナの存在は頭の片隅に居つくことになってしまったのだから。

 滅入ってしまいそうな気持ちを振り払うためにシャワーを浴びる。ザーーーッと頭に水を受け続けていると気持ちが落ち着く。冷たい水を顔に受けると、息が止まって溺れてしまいそうになる。苦しくはなくて、ちゃんと二本足で立ってることを思い出させてくれる。身体も頭もシャッキリした。冷水を浴びたあとだと部屋が寒く感じたから室温を上げて何をするわけでもなく裸で部屋をうろつく。最初の上映は八時五十分、今の時刻は四時四十分、どれだけゆっくり身支度をしたって間に合う。どうせだから朝ご飯も外で食べちゃおう、喫茶店のモーニングにしよう、モーニングって素敵な響き、口に出して発音したくなる。きっと今日はグッドなモーニングになること間違いなしだ。頭の片隅にある暗い部分は見えなくなった。髪を乾かして身支度を始める。

 近所にある朝六時から営業している喫茶店に向かうため、五時五十分に家を出る。ここ最近足繁く通っている店だ。十五時から十七時までの一時閉店を挟んで夜の十一時まで営業している。その間、マスターはずっと店にいるのだけれど、ちゃんと寝られてるのだろうか、いつか倒れてしまわないか心配になる。素敵な店だからそんな形でお別れはしたくない。

「こんな時間に珍しい」

 開店より二分早く着いてしまってドアの前で開店を待っているとマスターが顔を出していつもの柔らかい声でそう言う。この人、朝も昼も夜も同じなんだな、何も変わらない。その事に不思議と安心する。

「今日、謎に早起きしちゃって、一日中映画をハシゴしちゃうつもりなんです。最初に観る映画までもまだまだ時間あるんで、どうせだから朝ご飯はマスターのモーニングにしちゃえって思って」

 入りな、と手招きされるままに店に入り、誰もいない店内のカウンターに腰を下ろす。マスターの気配だけが充満した店内は全ての調和が取れている。ピリついてもなく緩んでもいない、拒まず擦り寄っても来ない、好きな空気。

「キミが来るのはいつも遅い時間だし、早くても昼下がりだから朝に会うのはなんだか違和感があるね」

 キミ、と呼ばれるのは好きじゃない。なんか見下ろされている気がするから。けれど、この人の言うキミは違う。何もこもってない、音としてだけ存在するキミ。

「モーニングはね、三種類あってバタートースト、ピザトースト、ジャムトースト、どれがいい?」

「んーー、バタートーストでお願いします」

 本当は最初からバタートースト一択だった。最初からと言うより、いつもメニューの隅にあるモーニングの欄を見るたびに、いつか朝にここのバタートーストが食べたいなぁと何度も考えていた。でも、すぐ答えちゃうのは恥ずかしくてわざと悩むフリをしてみたのだ。

「コーヒーはいつも通りホットで良いよね?」

 はい。と頷いて灰皿を引き寄せてタバコに火をつける。季節を問わずコーヒーはホットしか頼まない。別に深いこだわりがあるわけじゃなく、冷たい飲み物が苦手ってだけ。

 黒縁の工夫のないメガネ、綺麗に剃られたヒゲ、短くて密度の濃い髪の毛、側頭部には白い毛がまばらに生えている、高くもなく低くもない身長、骨張って毛のない腕。

「このお店っていつからあるんですか?」

「このお店はね十歳。それと僕は六十歳」

 フィルターに注がれるお湯に目を離さずに口だけを動かして答えてくれる。

「ずっとやってるんだと思ってました」

「僕はね、銀行員だったんだ。でもねえ、楽しくなくてね、お金にまみれた人生を送って、それで五十になった時にようやく今までの人生に意味なんてなかったって気づいてねえ、始めたんだ。いけない、年寄りの自分語りをしてしまった」

「嬉しいです。聞けて。あんまりプライベートに踏み込んで欲しくないのかなって思ってたので」

 その言葉に返答はなく、お待たせしました、とコーヒーとトースト、小さなサラダがトレンチに乗せられて運ばれて来る。

 いただきます。そう呟いて薄くスライスされたきゅうりにフォークを突き刺す。

「いつも、いただきますって言ってくれるの。僕ね、とっても好きなんだ。誰からかは分からないけど、良い習慣をもらったんだね」

 毎回聞かれていたのかと思うと、照れ臭くて耳が熱くなる。赤くなってはいないだろうか、心配になりおしぼりでこっそり冷やす。習慣をもらう、身につくのではなく、もらう、初めて聞く表現なのにすうっと身体に馴染んだ。多分、親からだろう。何もしてない私に毎月仕送りをしてくれる親、嫌いじゃないのに、避け続けてしまう親、私と親は別々の存在と思ってはいるけど、繋がりを否定出来ない事は自分にとって嬉しい事なのか悔しい事なのか、判断しかねる。

 厚切りのトーストの上にはほとんど立方体のバターが乗っている。じんわり溶けてパンに染み込んでいく姿は愛くるしい。幸せという言葉に形をあげるとしたなら、それはトーストの上で溶けていくバターによく似たものになる気がした。

 会計を済ませて外に出ると、早朝の空気は完全に夏に追いやられてしまっていた。吹く風も身体にぺったりと張り付いてくる。結局私が店にいる間は他の客は誰も来なかった。ありがとうございました。気をつけていってらっしゃいませ。と送り出してくれたマスター、どうか私がこの街から離れるまでは元気でいて欲しい。影がほとんどない駅までの道をスーツ姿の人たちが早歩きで歩いている。私は踵を弾ませて一歩を踏み出す。夏っていっつも長い。イヤホンから流れる歌は私よりも歳下の女の子が世界を恨む詩を叫んでいる。そう言えば、定期的に散歩やジョギングをするようになってからは食べるっていう行為に罪悪感を抱きにくくなった、過食嘔吐の頻度もかなり下がっている。普段から運動している人たちがあんなに明るい理由がようやく分かった。

 深夜二時過ぎ、疲労困憊で映画館を出る。明らかにキャパを超えた脳みそはパンク寸前、だけどフル回転していて眠気は一切ない。一日に映画五本は流石に詰め込みすぎだったかも、にしても二本目のあの映画はクソ映画だった、金を客から巻き上げるためだけに作ってんじゃねーよって不満を言いたかったけど、ひとりじゃ誰にも言えない。

 肩に伝わる軽く叩かれるような衝撃が、自分を振り向かせるためのものだと気づくまで時間がかかった。誰かの荷物が当たっただけだろうと思って無視をしていたけれど、明らかに一定のリズムを刻んでいたから振り返ってみると細い人が立っていた。そう、細い人、どのパーツから目に入ったとしても細いという第一印象を抱かれるだろうその体型。少し経つと、細い人は細い男の人になって、細い男の人は口を開いて喋り出す。

「オレら多分だけど、今日同じ映画三つ観てると思う」

 意味がすぐに理解できなかった。映画の観すぎで頭がぼやけていたのと、たまたま三本も同じ映画を同じ映画館で見知らぬ二人が観ていたなんていう現象が起こったということが飲み込めなかった。細い男の人は続けて、私が二本目と四本目とさっき終わった五本目に観た映画の名前を口にする。

「観てたっしょ?」

「はい」

 判断力やら思考力がようやく手元に帰ってきて、冷静に今の状況を噛み砕く。なぜこの人は初対面なのに敬語を使わないのだろう、なぜ私はそんな人間にちゃんと返事なんかしているのだろう。

「始発までどうやって時間潰すの?」

「すぐそこにある二十四時間営業の喫茶店に行くつもりです」

 まただ、またちゃんと返事をしてしまった。

「あーー、あそこね〜。良いよね!じゃあ行こ。あ、それと全然タメ口使って良いよ」

 どうしてコイツにタメ口を使う許可を勝手に出されているのだろう。私は許可した覚えなんてないけど、コイツはタメ口なのに。

 結局、一緒にテーブルに着いている。目の前にはベーグルサンドとチョコレートケーキ、それとコーヒーが二つ。

「ここのさ、ベーグルサンド美味いんだよな。もちもちしてて」

 ここのさぁ、美味いんだよなぁ、と語尾を伸ばすように喋る。大きく口を開けて三分の一ほど一口で消してしまう。口元についたソースを親指で拭って、舐めとっている。なんか全部が全部腑に落ちない状況だけど、まあいっかなんていう気持ちになってきた。どうせなら楽しい時間にしたほうがマシだ。

「今日観た映画、どうでした?」

「ん?映画ねー、オレね映画とかよく分かんねーのよ。感想とかないんだよなー、たまーーにね、うぉーーぶっ飛んだーって思えるのがあるからそれを探すために観てる。今日のは無かったな」

 感想を語り合おうとする試みは失敗に終わったらしい。

「ねえ、てかさ、タメ口で良いって」

「分かった、分かった。じゃあタメ口にするね。ならさ、今までに一番ぶっ飛んだものはなに?」

 タメ口で話すと無理やり仲良くなってしまう気がするのが嫌だ。この男、存在そのものが無理やりなのだ。

「バスキア」

 即答が返ってくる。しかも聞き間違いでなければ私が一番好きな画家の名前が。

「バスキアってバスキアだよね?」

「うん。それ以外のバスキアなんて居ないっしょ?」

「でも、映画の話してたからさ、映画の名前が返ってくると思ったの」

「あーーー、なるほどね。映画だとねえ、んーー、思いつかねーや。やっぱバスキアだわ」

 この男の話し方というか、話しぶりが、段々とクセになってきてしまっている。

「やっぱバスキアか、私も好きだよバスキア。カッコいいよね」

「え!だよな!!かっこいいなんてもんじゃないな。神だねオレの」

 口に溜まってるベーグルを押し流すようにコーヒーを一気飲みしている。ここのコーヒー美味しいのに、味もへったくれもないような飲み方だ。

「そういえばさ、名前なに?オレはね、ユージ、でもジェリーって呼んで」

 ジェリー、、ユージ、共通点が見つからない。

「私はウミネ、海に音って書いてウミネ。どうしてジェリー?」

 よくぞ聞いてくれたな、とでも言い出しそうな顔で喋り出す。

「トムとジェリーのジェリーだよ。あいつは絶対に捕まんないじゃん?だからジェリー」

「まあ確かに絶対に捕まんないけど、何かから逃げてるの?」

「それはね、よく分かんねー。老いとか?死とか?でっかくてこえーものたちからよ」

 コイツ、この男、改めジェリーに興味が湧いてきた。ただの無作法なナンパ野郎だと思っていたけれど、面白そうな匂いがする。最近、生活は安定して健康的で、満足はしていたけれど面白味には欠けていた。欠けていたものを差し出されると手を伸ばしてしまうのはしょうがないことだ、と自分に言い聞かせる。

「ねえ、そのタトゥー良いね。どこで入れたの?」

 私の腕を眺めている。普段向けられるような嫌な視線ではない。

「代官山のタトゥースタジオで入れてもらってる」

「え、もしかしたら同じとこかも。オレもね入れてるんだよね。長袖だから見えないけど、そろそろ手の甲とか首にも入れたいな」

 私の通うタトゥースタジオの名前を伝えると、そうそうそこ!一緒じゃん!と大きな声を出す。店員の視線がこちらを向くのが分かる。

「少し声抑えて。何入れてるの?」

「あー、ごめんごめん。それはねー、今は見せたげない」

 なんだそれは、まあ良いけど。今は、なんて言うと次がある事を勝手に決められているみたいで少し癪だ。

 予想以上に会話は途切れる事なく、楽しく続いた。適当なようでいて、たまにハッとするようなことを言ってくるのが面白い。ふと窓の外を見ると夜の暗さは消えかけている。

「明るくなってきたね」

「お、本当だ。今日予定は?」

「特にないかな、毎日特にない。起きたらその時決めてるの」

 目の前では思いっきり伸びをして、首を手で捻っている。ボキボキッという音が聞こえてきて折れないのだろうかと心配になる。

「じゃあ行くかー」

「行くって?」

「そりゃあオレの家っしょ」

 そりゃあって、なんでそこでそりゃあが口から出てくるのだ。まあ、行くと決めてしまってる私も私なのだけれど。

「近いの?」

「三茶とシモキタの間らへん」

 そう言って伝票を持って席を立つ。当たり前のように会計を持ってくれて、外に出てタクシーを捕まえて乗り込む。

「会計いくらだった?ちゃんと出させて」

「や、良いのよ。金あるのよ。使わないと意味ないしさ、でも使い道あんまりないんだよ」

 お金があることをここまで嫌味なく言える人間も珍しい。私がジェリーに好感を抱いているのは間違いない。けれど、これは恋とは少し違う。

 部屋は想像していたよりも片付いていた。と言うよりも、物が少なすぎて散らかりようがないって感じだ。リビングには座卓、その上には灰皿とパソコン。テレビもイスもソファーも無い。実際に広いその部屋がさらに広く見える。

「座るもんとか無いから適当に床に座ってて」

 なにやら、クローゼットに頭を突っ込んでゴソゴソしている。出てきたのは小さなジップロックに入った白い粉と天秤とオモリ。慎重に重さを測って、机の上に粉で白線を引く。鼻の穴を一つ塞いで、もう片方から勢いよくその白線を吸い込んでいく。

「それって大丈夫なやつ?」

「くぁーーーー、キクー!大丈夫?本当に大丈夫なものってこの世界にある?」

 なんてことを言うんだ。無い。無いに決まってる。ほら、とテーブルにはもう一本白線が引かれている。カーテンの隙間から入り込んだ朝日にその一本の白は何よりも白く輝いている。歪まず、まっすぐ、どこまでも続いていくように。

「どうやるの?」

「見てたっしょ?あんな感じで鼻の片方の穴で吸い込むんだよ。ヒヨって吸い込む力弱いと効きわりいから、思いっきり息を吐き切った後に、奥まで吸い込め」

 言われた通りに身体の中にある空気を出し切る。鼻の穴を押さえる親指が少し震えているのが分かる。テーブルに顔をくっつけるようにしてキラキラの白線を全部吸い込み切る。鼻の奥?眉間?脳の手前?が溶けるように熱い。

「おーー、良いね。初めてでそこまで完璧にできるなんて才能あるよ」

 もう、ヘラヘラと笑うことしかできない。どうでもいい。どうでもいいけど、めちゃくちゃ幸せ。理由はないけど幸せに包まれている。ジェリーは他にも錠剤を何錠か飲み込む。

「よっしゃーー!じゃあセックスすっか!」

 うまく立てない私を引っ張って寝室に連れて行く。ベッドに投げ飛ばされるように寝かされるとそのままどこまでも沈んでいく。

 何時間続いただろう、もしかすると数分だったかもしれないし、数日かもしれない。ほとんど記憶がない。途中また白い粉を吸ったような、口移しで錠剤を飲まされたような、よく分からないペラペラの紙をベロの上に乗せられたような。その全部が曖昧で形を成さない。

 目を覚ますと頭がグラグラしていた。シーツには乾いた吐瀉物がへばりついている。

「おー、起きたか。ヤバかったね〜、途中オマエ死ぬかと思ったよ。はじめてのドラッグでほぼ全部コンプリートしちゃったからね。体調どうよ」

 屈託なく笑っている。何も知らない小学生だけがその笑顔を作れると思ってた。

「頭がボヤッとしてグラグラする」

「うんうん、まあ、水飲みな。多分めっちゃうめえから」

 渡されたコップの水を一息に飲み干す。飲み干して、またもう一杯飲み干す。三杯飲み干してようやく乾きが潤う。カラッカラだったのだな、と自分の身体の状態に気づく。

「全然覚えてない」

「だろうね、思いっきりとんでたもん。あれは相当高いところまで行ってたよ。でもめちゃくちゃ気持ちよかったっしょ?」

 めちゃくちゃ気持ちよかった。それは確かだ。死ぬかと思うほどの快楽だった。こんな快楽、もう手放すなんて無理だ。

「いやー、サイコウだったわ。オマエのカラダまじでサイコウ。一日半ぐらいぶっ通しでやってたよオレら。アフターピルあるから飲みなよ」

「大丈夫、できないから」

「あら、普段から服用してる系?」

「違う。できない身体なの。だから大丈夫」

「何それめちゃくちゃ良いじゃん。じゃあ毎回生でやり放題だ」

 ジェリーの言葉には嘘がない。全部が本当のこと。誰かが聞いたら怒り狂うような内容の言葉でも本当すぎてすんなり受け入れてしまう。それに私が子供ができない身体になった理由なんて聞いてこない。きっとどうでもいいのだ、そんなこと。自分にとってサイコウなカラダの穴に毎回何もつけずに思いっきり精子を流し込める、その嬉しさ以外ないのだ。それはある意味気持ちがいい。雲のない空から降る日差しのような言葉をジェリーは口から吐く。

「今、何時?」

「八時、夜の方の」

 いつ眠りについたのか分からないが、一日半ぶっ通しでセックスしてたのは嘘じゃなさそうだ。

 テーブルの上にはジップロックに入った粉がある。朝日に照らされていないそれをもう一度見てみると、本当は少し黄色かった。だけど、あの時、私にはそれが本物の白だった。

「なんか着る物ある?」

 なんの声も発さずに、短パンとTシャツを投げてよこす。ベランダのドアを開けようとすると慌てて止められる。

「おいおいおい、やめろよ。あぶねーな、、匂いで通報されたらどうすんの?」

 確かに独特な匂いのするタバコを吸ってるなと思ったけれど、その慌てようと通報という言葉からすると、それはタバコではないらしい。大麻の匂いなんて初めて嗅いだ。

「吸う?」

「一口ちょうだい」

「一口じゃ足りねーよ。巻いてあげるから待ってな」

 本当にこの家は違法薬物のオンパレードだ。半透明の紙に乾燥した茶色とも緑ともいえないものを乗せて手際良く巻いていく。

「ほら、吸い方はタバコと一緒。最初は味が違和感かも知んないけど、慣れるよ。とりあえず半分くらいまで何回か深く吸ってみ?」

 ライターで火をつけて、煙を吸い込む。確かに変な味だ、土みたいな雑草みたいな。実際に土も雑草も口に入れたことはないけれど、そんな味がする。ジェリーの指示通り半分ほど燃えるまで吸う。でも、別に何も変わらない。

「んー、何にも変わんないよ?」

「ウィードはそんなにすぐは効果現れないよ。十分とか十五分待ってみな。焦って吸いすぎると最初はバッドトリップしちゃうかもだから、今日はこのぐらいにしときな」

 昨日、意識がとんじゃうまで人に薬物を摂取させたヤツのセリフとは思えない。

「あ、タバコもやめときな。まわりが良くなりすぎてゲロ吐いちゃうよ」

 まさに今効果が出るまでタバコを吸って待っておこうとしていたところだ。箱に伸ばした手を引っ込める。言う通りに大人しく待っていると、意識の端の方がちょっとぼやけていくような感覚になってきた。これがそうなのだろうか、それとも気のせいだろうか。

「効いてる?」

「これ効いてる時の感覚なのかな、フワッとはしてきた」

 嬉しそうに笑って私の顔を覗く。

「うんうん、効いてきてるよ。目がトロンってしてきてるもん。もうちょっと経ったら、もっと深くまでいけるから待ってな」

 フワフワして、世界がボヤける。視界がボヤけてるわけではない、認識がボヤけてる感じだろうか、思考もボヤけてくる。

「寝転がってイヤホンつけて音楽聴いてみな。ベッドまで運んだるわ」

 実際に物理的に身体が浮く。昨日とは違って、ゆっくりとベッドの上に降ろされ、私のスマホを渡される。

「イヤホン持ってる?」

「多分、カバンの中、」

 おーけー、という声は遠いところから聞こえてくる。ほら、と肩を揺すられ目を開けると私のイヤホンがジェリーの指から垂れ下がっている。耳に装着して、スマホに挿し込み、KPOPアイドルの曲を再生する。

 え、、と声が漏れる。きっと漏れてた。ジェリーが振り向くのが見えたから。ニヤッと笑っている。音の聴こえ方が普段と全く違う、全部の音がハッキリと輪郭を持って聴こえてくる。ジェリーがこちらを見て何か話しかけているけど、何を言っているのかわからない。適当に頷く。

 ああ、気持ちがいい。昨日のとはまた違う気持ちよさだ。落ち着く。身体は沈んでココロは揺蕩っている。

 下半身に生暖かい温度を感じる。薄く目を開けて見てみると、股の間にジェリーが顔を埋めていた。もう一度目を閉じて何もない世界に戻る。

 眠りから覚めていくように、意識が鮮明さを取り戻していく。時計を見ると午前一時前、四時間ほど経っていた。

 大麻も昨日吸わされたり飲まされたりしたモノ達も、それら全ては身の回りの苦痛を忘れさせてくれる。男の身体になりたいだとか、女の身体が嫌だとか、考える余地もない世界に私を引き連れていく。そこには快楽しか存在しない。純粋な快楽に浸っていれば、身体に対しての違和感なんてどこかへ姿を消す。

「おかえり〜」

 隣に寝転がっているジェリーが私が目を開けているのに気づいて声をかけてくる。今度はちゃんと聞こえる。イヤホンを外して、身体の向きを変える。

「いいね、これ」

「でしょ〜ハマるよね。後でまたエムあげるから飲んでからセックスしような」

「喜んで」

 ここは楽園。もうどこにも行かなくていい。

 

 ジェリーの家に来てから一週間が経つ。というより、久しぶりに日付を確認したら一週間経っていた。ほとんどの時間はクスリかウィードで思考は消えていて、カーテンはずっと閉めっぱなしだから時間の感覚が狂う。ジェリーはたまに外出してるっぽい、知らないうちに家を出ては、知らないうちに帰って来ている。

「もうさ、住んじゃえば?」

「ここに?」

「ここ以外どこがあんのよ」

 大きな声で笑う。そんなに大きな声で笑うような事だろうか。

「ジェリーがいいなら」

「良いよ。使ってない部屋あるからそこに服とか置きな。引っ越し代出したるし」

 本当にお金が余ってるのだな、羨ましい。もうジェリーにお金を出してもらうことに罪悪感は微塵も感じない。

「じゃあ今日は引っ越し祝いって事で外に飯でも食いにいくか〜」

 カーテンが久しぶりに開かれる。途端、日光が目を刺す。

 顔を覆って目眩に苦しむ私をほったらかしにして、ジェリーは、うぉーーーまぶしぃー!生きてるわー、と叫びながら全身で光を受けとめている。たしかに、その姿は生きていた。

「ってことで、シャワー浴びて来な」

 シャワー、そうか、思えばこの家に来て一度も身体を洗っていない。鏡を見ると頬が痩けて、薄黒い顔が映っている。それにクスリで嗅覚が鈍くなっているとはいえ、さすがに少し匂う。この状態の鼻で少し匂うのならば、普通の人が嗅いだらかなり臭いのだろう。

 シャンプーは普段の三倍ぐらいの量を出してようやく泡立った。ボディーソープも同様に全然泡立ってくれない。身体を洗い終えると今までにないぐらいサッパリした。脱皮した直後のヘビなんかはきっとこんな気分なのだろうと想像する。

「白!!顔!めちゃくちゃ白いやん」

 鏡で確認すると、たしかに笑ってしまうほどにさっきとは違う。

「ドライヤー貸して」

「おう、洗面台の横にかかってるよ。化粧水とかもその辺にあったと思う」

 洗面台の脇には上等なドライヤー、そして、揃いすぎなほどに使いかけのスキンケア用品が並んでいる。まあ、どうでも良い。感情なんていう不確かで濁っているものをジェリーに向けたりはしないから。真っさらでいい、真っ白でいい、余分なものはこの部屋に要らないし、私の中にも要らない。鏡に映る私はほとんど骨と皮だ。この一週間ほぼ何も口にしてないのだからそうなって当然だ。ハリガネみたいでカッコいい、そう思った。こんにちは新しい私。声には出さずそう語りかける。

 そういえば、ジェリーの身体はバスキアの作品で埋め尽くされていた。バスキアばっかだね、私はそう言った、死にてえと思うたびに入れてんのよ、彼はそう答えた。この会話が交わされたのは何日前のことだろうか、思い出せない。

 

「ゼリー食えよ」

 栄養補給用のゼリーを投げてよこす。ジェリーと知り合って一年以上が過ぎた。

「いい、別にお腹空いてないし」

「良くねーんだよ。この部屋で餓死されても困るから食え」

 クスリをやってたらお腹が空かない。大麻は別、あれを吸って食べるファストフードのハンバーガーは最後の晩餐にしたいぐらいに美味しい。結局食べ過ぎてもどしちゃうけど。仕方なくキャップを捻って開け、ちびちび身体に流し込む。食事なんてしなくていい。でも死んじゃったら快楽を享受できないから身体を生かすためだけに栄養を取る。基本的な栄養素は全部錠剤で、カロリーはゼリーで。味なんて要らない。食の喜びなんてものは本当の快楽を知らない人間が日々のストレスを誤魔化すために作り上げたモノだ。

「今日アンジー行くけど、どうする?」

「んーーー、いつ出発?」

「二、三時間後かな」

「行く」

 吸いかけの大麻に火をつける。今ではちょっと吸ったぐらいじゃ動けなくなったりしない。感覚が鋭くなって感情が麻痺するだけ。

「ウミネちゃん!久しぶり〜」

 アンジーはジェリーや、その周りの人間たちの溜まり場。まあ、バーみたいなもの、そこにいる奴らは大抵薬物だったり違法なものに手を出してる。下品なオンナと下品なオトコしかいない。ジェリーは違う。ジェリーには品とかそういう概念すら存在してないから下品も上品もない。甘い声を出して私の腕に触れるオンナの髪の毛はガサガサだ、見ただけでわかる。名前は忘れた。最初から覚えてないだけかも。

「久しぶり」

 カウンターに座ってジントニックを注文する。この店で唯一飲める味、ほかのカクテルなんて雑に作られすぎてて飲めたもんじゃない。このジントニックですら、飲めるというだけで不味い。

「珍しいじゃん」

 カウンターの向こう側から私に話しかけてくるこのオトコはケイさん。本名かどうかも歳も分からない。みんなからケイさんと呼ばれている。黒くて長い髪を一つに括っている。

「何となく。相変わらず美味しくないカクテル」

「だってここに来る奴らなんて、味を求めてないからね。求めてるのはアルコール」

 その細い指で私の咥えるタバコに火をつける。ついでに自分のタバコにも。手の甲には読めない文字のタトゥー、爪は黒く塗られている。

「なにそれ、作ろうと思ったら美味しいカクテルが作れるんだぜ、みたいな言い方」

 待ってな、と言いたげな目で私を見てから、作業に移る。いつもとは全く違う指の動きで。きっと、この人に愛している人がいたら、こんな感じで、優しく丁寧に触れるのだろうな、そんな想像をさせる。

「ほら」

 差し出された泡立つ液体を喉に滑り込ませる。

「なにこれ、全然違う。お酒変えた?」

「酒も氷も何も変えてないよ」

 もう一度、不味い方のジントニックを飲む。やはり不味い。

「昔はちゃんとバーテンダーしてたんだよね。でもね、働いてた店でさ、酔った客同士が揉めて、片方死んじゃったんだわ。ちゃんと美味しい酒をさ、丁寧に作っても、それを飲んだ奴らが殺し合うのかよって思ったらもうね、やる気なくなっちゃってさ。だからここで頭空っぽの奴らの頭をさらに空っぽにしてあげる液体を作ってる方がラク」

 ちょっと長い話、聞かれてもないのに自分の過去を話す人間とは仲良くなれない。でも、不味い酒よりは美味しい酒がいい。

「じゃあ、私にはいつもこのクオリティで作って。誰も殺さないから」

「ホントかなぁ、ウミネちゃんはいつか誰かのこと殺しちゃいそうだけどね」

 口角を上げただけの笑顔を作ってから、冗談だよ、良いよ特別ね、なんて言う。つまらない。ウィードの効果が切れてきて少し気が立ってきた。テーブル席で、内容のない会話を延々と繰り返してる集団の中にいるジェリーに話しかける。

「なんかない?」

「んーー、今はエルしかねーな」

「いいよそれで」

 渡された薄い切手みたいな紙を舌に乗せる。幻覚なんて見ても、何も変わらない。変わらないけど変わらないことを考えなくて済む。これ、いつ解散するんだろう。帰りたくなってきた。でも、紙食っちゃったし、自力で帰れる気はしない。

「散歩してくる」

「おーー、でもオマエいまエルやってんじゃん。失踪しちゃうよ?ケイさん着いてってくんない?持ち帰っちゃってもいいからさ。あ、でもちゃんと返してね」

 人をモノみたいに言ってんじゃねーよと思うことは出来た。でも、口の動かし方を忘れてしまって言葉には成らなかった。

「オジサンの使い方が荒いなぁ、鍵、カウンターに置いとくから閉めて出ろよ」

 外に出ると世界がうねっていた。ゴッホの絵の中に迷い込んだみたい。どこでもないところに私はいる。隣を歩くオトコが邪魔だ。たまに触れてくる指を振り払いたくなる。

「ジェリーがさ、ウミネちゃんとのセックスやべーよ。しかも中出しオッケーとか言ってたけどホント?」

 うるさい。私はいまここにいないのだから話しかけないで欲しい。

「うるさいな、抱きたいなら勝手に抱け」

 目も合わせずに吐き捨てる。

 目を覚ますと知らない場所にいた。アルコールもクスリも、効果は切れている。正常な脳みそで見る世界は異常さが堂々と君臨していて耐え切れない。

 テーブルに書き置きと万札が二枚。タクシー代とホテル代、とだけ書かれている。誰が書き残したモノなのかも分からない。

 用を足すために便座に座ると股からドロっとしたものが垂れるのが分かる。気色の悪い感覚。誰だか思い出せない人間の精液。吐き気がする。足早に服を身につけ、会計を済ませタクシーを捕まえて家に帰る。

 シラフでは手が震えてしまって鍵穴になかなか鍵が刺さってくれない。やっとの思いで鍵を開け、現実から逃げ帰る。何でもいい、何でもいいから思考を殺すものを摂取しなければ壊れそうだ。

 コカインを棚から取り出し、急いで吸引する。ベッドに寝転がり自慰に耽る。腕を動かすのはめんどくさいが、ひとりならこうする他ない。今度電動で動く男根もどきでも、ジェリーに買って貰おう。思考は身体から引き剥がされて天井から身体を見つめる。しばらく見つめた後、何処かへ姿を消した。

「おーおーおー、起きた?凄いことになってたよ」

 夕焼けが眩しくて目を開けると、ジェリーが立っていた。

「凄いって?夕焼け眩しいからカーテン閉めて」

「帰ってきたらさ、とんでもない勢いでオナニーしてんだもん。シーツビッチャビチャだし。あまりにも凄かったからオレもそれ見ながらオナニーしちゃったわ。それと、これは朝焼けね。この部屋からはね夕焼けは見えないって何度も言ってるだろ?」

 そうだった。赤い光は全部夕焼けに見える。

「最中に帰ってきたならセックスしたら良かったのに」

「いやいや、そんな隙もないオナニーだったのよ。あーーー、動画撮ってたら良かったわ、」

「撮ってくれてたら私も見たかった」

「今度は絶対撮ったる。なあ、ピザとマック注文してさ、ウィード吸って食おうぜ」

「採用」

 穏やかで優しい朝。どこかで誰かが死んで生まれてる。その音は私たちには聞こえない。

 冬、肉のないこの身体で外に出るのは自殺行為だから、ずうっと部屋にいる。随分とタトゥーが増えた、手の甲、指、首、スネ、足の甲、至るところをインクが埋め尽くしている。親が見たらどう思うだろうか、もう一年以上連絡を取っていない。ジェリーの家に転がり込んだ時に、もう仕送りは大丈夫です。退学手続きも適当にやっといてください。と連絡したっきり。それに対しての返信は見ていない。見るのが怖い。

 最近、どうしようもなくつまらない。何もない。何者でもない。ただの身体、思考もない。様々なデザインで埋め尽くされている肌はパッチワークの様だ。まるで私そのもの、つぎはぎ、何かを切り取って、盗んで、縫い付けて、ボロボロで、ガタガタで、どれが本当の私か分かったもんじゃない。きっと、どれも本当の私じゃない。私なんてものはどこにもない、いなくなっちゃった。

 多分、寝起きに天使がやってきて、死にますか?なんて聞かれたら、ホイホイ付いてっちゃうんだろうなぁ、、 

「なにそれ、意味わかんねえ」

 心の中で呟いたと思った言葉は、どうやら声に出していたらしく、ジェリーが反応する。その言葉にとても苛立ってしまう。

「分かれよ。なんで分かんないの?」

「あ?オマエどうしたの?イラつくなよ。生理か?」

「生理なんて一年以上来てないわ。うるさいなぁ!ぶっ殺すよ」

 口から爆発するように声が出る。大きすぎて自分のものとは思えない。瞬間、顔面が吹き飛ぶような衝撃が私を襲う。目を開けるとジェリーが私に馬乗りになっている。多分殴られたのだろう。

「オマエさ、なんか勘違いしてね?オレを殺せるのはオレしかいないし、オマエを殺すかどうか決めるのもオレだよ?」

 拳が降り注ぐ。顔に、お腹に、抵抗する力も気持ちもない。両の腕は身体の脇にダラリと置かれたまま。

 身体が重さから解放されたと思ったら、腕に小さな痛みを感じた。ヂューーーっと液体が流れ込んでくる。明らかに規定量を超えている。熱が全身を駆け巡る。目の裏が焼けて、どろりと中身がこぼれ落ちそうだ。視界がバチバチと火花を散らす。きっと、このまま死ぬ。全身を駆け巡って、脳を溶かそうとするこの感覚が、快楽かどうかもはや分からない。ただ、どこか遠くまで飛んで行けることは確かだ。降り注ぐ拳も、首を絞める手も、内臓に入り込む男根も、全ては遠い世界で起きていることに感じる。

 音が聞こえる、瞼に光がぶつかるのも分かる。きっとここは地獄だろう。だって死んだ後に目を覚ますってことは死後の世界、つまりは天国か地獄、なら私が行くのは地獄に決まってる。ゆっくりと目を開けると見慣れた天井だった。痛みが教える、生きていると。それは絶望だ。地獄よりもさらに恐ろしい場所に戻って来てしまった。ついこの間までは楽園だと、天国だと信じていたこの部屋はこの世界は紛れもない苦しみそのものだった。生きてしまった。

「あ、生きてた。死んだと思ってた、ラッキ〜」

 声のする方に顔を向ける。声を発する力はない。ただ、どうしてだろう、今までで一番この男が魅力的に見える。私を死に一番近い場所まで連れて行ってくれた男。

「動ける?てか、動け。もうオマエいらねぇから出ていきな」

 服と輪ゴムで束ねられた札束を投げてよこす。動けずに、ただぼうっと天井を見上げる。

「早くしろ。聞こえてただろ?」

 悲鳴も出せないほどの激痛が股の間を襲う。痛みの方向に目を向けると、ジェリーが吸いかけのタバコを私の性器に押し付けている。自分の意思ではなく、恐怖で身体を動かす。よろよろと服を着て、渡されたお金をポケットに入れる。部屋を出ると夜だった。どこかに行かなければ、でも、どこに行けばいい?タクシーを拾って行き先を告げる。

「井の頭公園まで」

 なぜ井の頭公園なのだろう。自分の脳内がどんな状況なのか理解できない。口から出る言葉に思考は宿っていない。タクシー運転手は私を怪訝な目で見る。きっと顔も腫れているだろうし、血まみれかもしれない、それに匂うのだろう、最後に身体を洗った日を思い出せない。

 空気は皮膚を刺す。痛みは麻痺するどころか増していく。私を囲む空気も世界も社会も全部私に敵意を向けているように感じる。

 ニヒルに笑ってみる。だけどそんなの誤魔化しだ。全部誤魔化し、全部嘘、何もかもを誤魔化して嘘をつかなければ正気を保てない。いや、保とうとしている正気すら本物かどうか定かではない。

 助けて欲しい。誰か私を助けて。沈んでいく、煙で薬でドロドロになった身体と意識が沈んでいく。深くまで誰もいないところまで、怖い、震える、涙は出ない、その代わりに口から胃液が流れ出す。言葉は出てきてくれない。ただの叫びしか出てこない。分からない。苦しい。初めから私なんて存在しなければ良かったのに。

 両方の肩に手のひらの温度を感じる。今回は本当にお迎えに来てくれたのだ、天使が。悪魔ではない、だって暖かいのだから。天国じゃなくても良い、地獄でも、ここよりはマシだ。早く連れて行って欲しい。瞼は重く、天使の姿を見ることは叶わない、声が聞こえる気がする、意識は消える。

 

「綾乃さん、明日休み?」

 あの日、私の肩に手を置いたのは天使でも悪魔でもなくて、今隣で私の作ったハヤシライスを食べている人だった。

「ん、休み。どっか行く?」

 口に物を入れながら喋るから、ん、やふみ。ふぉっふぁいく?と聞こえる。私より六つ歳上のこの人はみんなが失っていくはずの優しさを失っていない。七月、梅雨が明けてアスファルトからメラメラと陽炎が昇る季節。あの日から半年以上が過ぎた。覚えている部分もあれば抜け落ちている部分も多い。なぜなら最初の三ヶ月はほとんど禁断症状との戦いの日々だったから。眠れず、幻覚を見て叫び、綾乃さんの腕に幾つもの引っ掻き傷をつくり、ようやく意識を失うように寝られても、悪夢でまた叫び声を上げる。よくもまあ、そんな人間を家にずっと置いておけたものだ。

 元気になるまではウチに居なさい、ちゃんと元気になれたらその時自分でどうするか決めなさい。そう言われたことはちゃんと覚えている。今の私はちゃんと元気なのだろうか、禁断症状は今でもたまにやってくる。けれど、人が常に側に居なければやっていけないというわけではない。ずるずると彼女の優しさに甘えている。働きもせず、彼女の稼ぎで飯を食い、ほとんど家からも出ずに、家事も軽いものしかしないのに決して出て行けと言わない。

「ねえ、聞いてた?どっか行く?」

 今度はちゃんと口が空の状態で喋るから明瞭に聞こえる。

「ごめんごめん、んーーー、暑いから私は家に居ようかなぁ、綾乃さんどこかお出かけしたりするの?」

 今なら分かる。この場所こそが楽園ってことが。あの場所にはもう二度と戻りたくない。思い返せば、あの期間私は一度も本当の意味で笑ったことなんてなかった。クスリの作用で勝手に顔が笑顔になって勝手に声を出していただけ。どろっどろの何かに沈んでいた。今でもその何かは私にこびりついて離れない。身体の内側、毛穴の中、べっとりとこびりついている。擦っても流しても落ちることはない。

 私の皿に盛られているハヤシライスはなかなか減らない。隣の皿はもう空だ。

「何か買うものとかあったかなぁ、多分ないと思うから明日は家で二人で映画でも観よ〜」

「いいの?」

「いいに決まってるじゃん。ほら早く食べちゃいな。食べたらお風呂溜めてゆっくり入ろ」

 立ち上がり浴室に消えていく。水が勢いよく浴槽にぶつかる音が聞こえてくる。その音に応えるように、私の目から鼻から水が溢れだす。止まらない。

「あーー、ほらほら、大丈夫よ」

 テーブルを動かして、正面から私を抱きしめる、あの時と同じ体温。触れない方がいい、こんなに綺麗な人間が、私なんかに触れちゃいけない。そう思うのに、私は彼女にすがりつく、その肩をベトベトに濡らす。以前は泣いたら絶対に過呼吸になっていたのに、今はこうするだけで簡単に落ち着いてしまう。大丈夫、大丈夫、ずっとここに居ていい。海音ちゃんはここに居ていい。耳元で囁き声が聞こえる。

「ゆっくり、呼吸して、大丈夫」

 肩の震えがだんだん治まっていく。何分間彼女にしがみついていただろうか、ようやく声が出せるようになってくる。

「ありがとう、ねえ、お湯、、」

「お湯?え!本当だ!!溜めっぱなしじゃん」

 ドタバタと風呂場にかけて行く。その後ろ姿だけで私を笑わせてくれる。ねーねー、来て!という声に呼ばれて私も風呂場に移動する。浴槽いっぱいのお湯を指差して私に笑顔を向ける。

「盛大に溢れてた」

「たっぷりだね。ごめん、私のせいで」

「いいじゃんなんか貴族みたいで。入っちゃおっか」

 ほらほら、脱いで。と私の服を引き上げる。私はバンザイの体勢でされるがまま、幼稚園児になった気分だ。私の方が十センチ程大きいから、彼女は背伸びをしながら私のTシャツを脱がす。狭い視界から、つま先立ちをする足元が見える。水色のペディキュアが塗られた小さな爪。昨日私が塗った水色。

 二人して浴槽に足を入れて、せーので座る。ザッパーンとお湯が溢れる。綾乃さんの家は広い、浴槽も広い、二人で入っても窮屈に感じない。

「タトゥー、水に濡れると色が濃くなって綺麗」

 綺麗、という言葉を正面から受け止められていたのは、何年前までだったのか思い出せない。インクまみれの私の身体よりも、目の前にある、さらりとした白い肌、滑らかな曲線で作られた身体の方が綺麗だ。ミロのヴィーナスが頭に浮かぶ。

「いつ見ても細いね」

「そっちはいつ見てもスベスベ」

 本当は手を伸ばして触れたい。肌に、肉に、毛に、手を添わせたい。だけどそれは私じゃダメだ。

「あのさ、あの日どうして私を助けてくれたの?それに、どうして私を今でもここに居させてくるの?ヒモじゃんこんなの。しかも恋愛関係でもないのに」

 ずっとしたかった質問、もう聞くタイミングも失ってしまった質問をなんとなく、だけど勇気を出して問いかける。

「長くなるかもしれないし、ワタシの身の上話にもなっちゃうけど、聞く?」

 しっとりとした目で私を見つめる。

「うん。聞きたい」

「海音ちゃんを見つけたあの日、ワタシ地元からこっちに帰ってきた日だったの。地元にさ、妹の葬式に行ってきたんだ。駅からの帰り道にさ、わんわん大きな声で泣いてる女の子いるなって思って、その泣き方がそっくりだったの妹にね。顔とかじゃなくてね、泣いてるその姿が昔の妹にそっくりだった。あの子、自分のやりたいことがうまくできない時、いつもそうやって泣いてたの。びっくりしちゃった。妹は自分で自分の人生を終わらせてね、その選択は尊重した方がいいのかもしれないけどさ、もしワタシが何か助けられることがあって、それであの子の選択が変わったのならば、そうしてあげたかった。そう思って歩いていた時にアナタを見つけたの。駆け寄ってしまった。だから、ここに海音ちゃんを居させるのもワタシのエゴ。本当はさ、もっと早くにこの話をして、謝らなきゃなって考えてた。ごめん」

 私はいつも謝らなくていい人に謝らせる。私がここにいる理由がちゃんとあったことに安心する。

「でもね、妹と海音ちゃんを重ねてるわけじゃないの。この子を守らなきゃ、ワタシの全部をかけても守らなきゃって思っちゃったの。ボロボロでグチャグチャで、それでも泣いている声と流れる涙は透き通って綺麗だった。それは妹じゃなくてアナタ自身に対してそう思ったの。それだけは忘れないでね」

「ありがとう。まだここに居ていい?もっと家事とか頑張るから」

「ダメな理由がないよ〜、家事もしてくれたら確かに助かるけど、苦しくならない程度にしてね」

 勝てない、圧倒的な優しさの前で私はただひれ伏すだけだ。雰囲気を変えようとしてくれたのだろう、綾乃さんは私の両脇に手を差し込みくすぐりだす。隣の部屋に聞こえてしまいそうなぐらい大きな声をあげて笑ってしまう。笑い過ぎて風呂場の壁に後頭部をぶつけた。

「わーーー、痛かったね、大丈夫?」

「うん、大丈夫。痛いけど」

 泣いたり笑ったり痛かったり、今日は忙しい。でも、全部がちゃんと感じられる、それはきっと私の脇をくすぐるその両手のおかげだ。

 長風呂を終えた綾乃さんの頬はピンクに染まってる。台風の翌朝の空みたいな色。二人並んでスキンケアをして、お互いの髪の毛を乾かし合う。肩につきそうでつかない、たっぷりとして艶のある黒い髪の毛。私の髪とは大違いだ、ケアもせずにただ伸ばし放題になっていた髪。この家に住まわせてもらってからは毎日ケアをしてるから、少しはマシになったけど、それでもやっぱり痛みきっている。それと、毎日ってのは嘘、めんどくさくてお風呂に入れない日も週に二日ぐらいはある。

「はい。乾いたよ」

 ドライヤーを渡して場所を交換する。次は私が乾かしてもらう。

「海音ちゃんの髪の毛、長いね〜、ワタシもこのくらいまで伸ばしてみたい。でもいつも耐えらんなくて切っちゃうんだよなぁ、今だってもう切りたいもん」

「長いのも絶対似合うよ。短いのも似合うけどね」

「もーー、褒めても何も出てこないよ!」

 後ろから私を抱きしめて、頬を擦り付ける。

「ねえ、まだ乾いてないから服濡れちゃうよ?」

 クーラーをつけていても夏だ、風呂上がりにくっつくのは暑苦しい。だけど、それでいい。気をつけてないとふとした時に涙が溢れてしまいそうになる、この生活は暖かすぎる。

 お風呂に浸かって代謝が上がったのか空腹がやってきた。

「なんかお腹すいちゃった」

「さっきのハヤシライス、温め直して食べちゃいなよ。それか、コンビニ行ってお菓子買って、今から映画観ちゃう?そして明日は二人で朝寝坊しちゃう?」

「なにその魅力的すぎる提案、私という私が賛成してる」

 この部屋はふかふかだ。床でもベッドでもなく、空気が。ふかふかで柔らかくて、包み込んでくれる。転んでも怪我をしなくて済む。

 夏の夜は好き。湿気があるからなのか、空気の重さを感じられる。空気を吸ってる実感がある。しょっぱい袋菓子と甘い袋菓子を二つずつ買って、二時間ぐらいの恋愛映画を観た。鉤括弧に括られた、幸せ、って感じの映画。誰かが決めた理想的ってやつ。だけど、そういうのも嫌いではない。幸せを押し付けられるのは絶対に嫌だ、でも、こういう映画があるのは私にとって救いだ。誰かがそれを夢みて、それを実現させようとして、ある程度の人々は実現させている。そのことは、私がこの世界を諦めるのを踏みとどまらせてくれる。遠くにある星みたいなものだけど、それがあると安心するのだ。こんなにクソな自分がいる世の中なのに、ちゃんと「幸せ」になってくれている人がいるのなら、まあ生きてても良いか、と。

「良かったねー、泣いちゃった」

 彼女は目の周りを赤く染めて鼻をかんでいる。

「なら良かった」

「えー、海音ちゃんはあんまり感動しなかった?好きじゃなかった?」

「んーん、こういう映画も好きだよ。あったまる」

 感動する場面よりも感動している綾乃さんを見てた、とは言わずにおく。

「あったまるってお風呂みたい」

「お風呂っていうよりも、焚き火かな。主人公たちは恋に愛に燃えてて、私はそれに手をかざして暖をとってるの」

「海音ちゃんの、たまに出るそういう詩的な表現好きだな」

 欠伸をしながら、私に寄りかかる。ああ、今すぐにキスしたい。だけど、そうしてしまったらきっと私は彼女を壊そうとしてしまう。だから絶対にしない。

 空は夜の色を失いつつある。

「外、明るくなってきたね。綾乃さん、眠い?」

 夏の明け方は夏の夜よりも、もっと好き。

「そうだねぇ、」

 それは、明るくなってきた事に対する返事なのか、眠い?という問いかけに対する返事なのか、分からない。ただ彼女の吐く息は湿っていて、その湿度だけを持って天国に行けたらいいな、なんてことを思った。

 赤ちゃんみたいに暖かくなってる綾乃さんをベッドまで連れていって寝かせる。

 なんとなく、今日を終わらせることが勿体無くてベランダに出てみる。陽が昇る一歩手前の空気は青い。それは水の色でも空の色でもない。世界がこっそり、素顔を見せている気がした。こんな時間に起きている変わり者にだけ特別に、ほら、これが本当の青だよと、みんなにはナイショだよと、そう言っている。このベランダは東を向いているから朝焼けが良く見える。今だって、あと数分待てば雲が朝に染め上げられるのを見れるだろう。それはきっと息を呑むほどに綺麗な景色。でも、要らない。見なくても大丈夫、このベランダから見えるのは夕焼けじゃなくて朝焼けだって事を私はちゃんと分かってるから、それだけで充分だ。

 肺がパンパンになるまで空気を吸い込んで息を止める。そうしたらこの青が私の中に留まってくれる気がした。ゆっくり息を吐いて部屋に戻る。広い寝室に広いベッド、優しい体温に身体を寄せて目を瞑る。ベッドに空いた余白は私の弱さと彼女の強さの証拠。

 

 最近の私の朝は早い。綾乃さんを起こさぬよう、静かにベランダに出てタバコに火をつける。夏は終わろうとしている。きっと、そのうちに急に秋が来て、知らぬ間に冬になってるのだろう。ラジオ体操の動画を見ながら真似して体を動かすと全身が目覚めていくのがわかる。小学生の夏休み、無理やりやらされていたこの動きが、これほどまでに考え抜かれていたものだったのかと今になって感心する。

 頭も身体も目覚めたら朝食の準備を始める。と言っても、簡単なものばかりだ。目玉焼きとウインナーを焼いて、バナナを切ってヨーグルトに入れる、それだけ。冷凍されている玄米をチンして作り置きのおかずと一緒に弁当箱に詰めて冷めるまで蓋をせずに置いておく。弁当は詰めてすぐに蓋をしてはダメだということをつい最近知った。掛け時計は後十分で綾乃さんの目覚ましが鳴る時間を指している。お湯を沸かしてコーヒーを淹れる準備をする。初めてコーヒーを淹れた日のそれは飲めたものではなかった。あれは黒い色をした何かだった。だけど、彼女は牛乳で割ればいける!!と言って全部飲み干してくれた。今は、まあ飲み物と呼んでも良い味にはなってると思う。

 ちょうど二杯分のコーヒーを淹れ終わった時、寝室から目覚ましの音が聞こえてくる。ノソノソと可愛い生き物がリビングに姿を現す。

「おはよ」

「おはよう。コーヒーいま淹れたとこ」

 テーブルに朝食とコーヒーを並べる。薄く上がる湯気。

「いつもありがとうね」

 チビチビと二人並んでコーヒーを啜る。

「なんか、ちゃんとしたダイニングテーブルと椅子欲しいねえ。この広さに座卓って違和感ない?」

「そうかな?私はこのスタイルも好きだよ並んでテレビとか観れるし」

「じゃあ、そのままでいっか。でもソファーは買おう。今度一緒に家具屋さん行こ」

 カフェインで目が覚めてきたのか饒舌になっている。

「もう秋が来るね。もうすぐ今年が終わっちゃうよ〜、、早いなぁ。そりゃおばさんになるわけだ」

「まだ若いでしょ?」

「何言ってるの?次で三十だよ!三十路だよ!!」

 無害で誰も傷つけることのない会話が朝の部屋にこだまする。

「海音ちゃんは年末年始どうするの?」

「私はどこにも行かないかなぁ、実家とは絶縁状態だし人の多い場所は苦手だし」

「じゃあ、どっか二人で旅行にでも行こ」

「いいの?綾乃さんの家族、仲良いんでしょう?」

「いいの。実家に行くと色々思い出しちゃうかもだし」

 少し寂しそうな顔をしている。もう思い出してしまっているのだろう、大事な大切な妹のことを。私が決して触れることのできない彼女の記憶を。

「今日帰ってきたら一緒に調べよ!ごちそうさまでした。ありがとう」

 会話をしている間に皿もコップも空になっていた。お皿を持って立ち上がり、台所へ消えていく。

「私が洗うからいいよ」

「だめ!作ってくれた人は洗わなくて良いの。逆に朝バタバタしてる時はいつも洗わせちゃってごめんね」

 出来ればする事があった方が嬉しい。何もする事がないと、自分が消えても何も変わらないことを再確認させられて苦しくなるから。私の皿にはまだまだ食材が残ってる。ゆっくり口に運びながら、彼女の身支度の音を聞く。

 結局完食は出来ず、いつも通り残りは昼食に回すことして、ラップをかけておく。

 アイラインを引く綾乃さんの横で歯を磨く。

「化粧って本当にめんどくさい」

「しなきゃいいのに」

「女なんだからってうるさいクソジジイどもがいるのよ」

 たまに彼女の口から吐かれる暴言が私は好きだ。

「そいつらには、お前らこそクソジジイなんだから気をつけろよ臭いんだよって言ってやりなよ」

「ねえ、笑わせないで!アイライン歪んじゃうじゃん。良いの。ワタシが耐えて稼いで成り上がって次の世代が働きやすい会社に変えるから」

 そう言う彼女の目はギラギラしていて黒いアイラインがとても良く似合っている。私の目の下には消えないクマ、澱んだ白目。

 身支度を終えて玄関に立つ彼女は寝起きの姿からは想像がつかないほどに凛としている。

「じゃあ今日も戦ってきます」

「頑張ってきてください」

 ハグをして見送る。見送った後、急いでベランダに移動して道を歩く彼女の後ろ姿を眺める。私がいつもそうしていることをきっと彼女は知らない。伸びた背筋がグングン離れて角を曲がって消える。

 軽い掃除と洗濯を済ませて、ぬるま湯に浸かって本を読んでいる。今日は天気がいいからシーツと枕カバーも洗って新しいものに変えた。洗ったシーツも夜までには乾いているだろう。

 家事を終えて、綾乃さんが帰宅するまでの間、ぬるいお風呂に浸かるのが最近のブームなのだ。というより、最近読み漁っている小説家の作品の影響を受けているだけ、柔らかく綺麗な文章なのに心のどこかを深く刺してくる物語を書くのだ。この作家の小説に出てくる女性たちはよく昼にお風呂に入っている。私もその真似をしてみたらまんまとハマってしまったのだ。おかげで最近買った小説たちはみんなふやけて波打っている。

 年末年始に二人で旅行か、本気で言っているのだろうか。もし本気だとしたらとてつもなく嬉しい。ただ、このままでは旅費までも彼女に全部負担させてしまうことになる。いい機会だし、簡単なバイトでも始めてみようかと思った。私みたいに全身タトゥーまみれの人間でも出来て簡単なバイトってなんなんだろう。花屋とかで働いてみたいけど、きっと採用なんてしてくれないだろうな。思考は独り言のようにつらつらと語る。

 最近スマホを手に入れた。連絡取れないの不便だから、と綾乃さんのお古を渡されて使っている。電話番号とかはないからWiーFi環境下でのみツイッターやインスタが使えるのだが、ほとんど家から出ない私にとってはそれで充分だ。小説を読むのに疲れて、スマホで音楽を再生する。英語や韓国語の曲が好き。何を言ってるか分からないから聴いていて疲れない。

 通知音がしてスマホを開く。今日は定時で帰れそうです、とのことだった。いつも丁寧に連絡をくれる。こうしているとまるで専業主婦みたいだ。あの人たちは人生を諦めた人間だと以前は思っていた。けれど案外そうではないらしい。誰かの帰りを待つ生活というのは思っていた以上に生活に色をつける。定時で帰れるということは、帰ってくるまであと一時間半、そろそろ髪の毛と身体を洗ってお風呂を出たほうがいい。

 すっかり乾いた洗濯物を取り込んで、ベランダから外を眺めている。犬を散歩させている人、白いシャツとセーラー服、きっと来週には冬服に変わっているのだろうな、夕飯の匂いを含んだ風が吹く。そのどれもが以前の私を苦しめていたモノたち。今はそれぞれの幸せをちゃんと認めることができる。髪の毛を乾かすのがあまかったのか、風が吹くと襟足の部分がヒヤリとする。

 タバコに火をつけたところで角から私の待ち人が姿を現した。すぐに私に気づいてこちらに手を振る。ブンブンという音が似合うぐらい手を伸ばし切って手を振ってくる。道ゆく人は彼女をみた後に、私の方を振り返る。私は小さく手を振りかえす。半分も吸ってないタバコを灰皿に押し付けて部屋に戻って鍵を開けて玄関で待つ。

「ただいま〜!ハーゲンダッツ買っちゃった!後で食べよ」

 その声と姿で部屋が明るくなる。明るくなって、照明を点けていないことに気づく。

「お疲れ様、一週間よく頑張りました」

 わーー、ありがと〜、と靴も脱がずに私を抱きしめてくる。

「アイス、冷凍庫に入れちゃうから貸して」

 渡された袋の中を見ると、ラムレーズンとクッキーアンドクリームが入っていた。どちらも私の好きな味、本当はストロベリーが好きなくせに。


 久しぶりに、本当に久しぶりに一人で外出をしている。バイトを始めてみようと思う、と綾乃さんに言うと、体調崩さない程度になら、応援するよ。でも無理はしちゃダメ。そう言ってくれた。バイトをするなら家から歩いて行ける場所がいい、求人サイトで色々調べてみたけれど、惹かれるものがなかった。実は、近くの花屋さんが気になっている。綾乃さんはいつもそこで買った花を部屋に飾っている。私も何度か一緒に着いて行ったこともある。華奢で黒い髪は短く、ふわりと舞ってどこかに行ってしまいそうな女性の店主さんがいる。だけど、指には小さな傷があったり土がついていたりしていて、外見とミスマッチ、でもそこが好き。

 花屋さんの前に着いて、十分ぐらいだろうか、入る勇気が湧かず入り口の前でウロウロしている。

「まだ昼は暑いでしょう?涼んで行きますか?」

 カラン、と音がなってドアが開けられる。涼しい空気と花の香り。恥ずかしさで自分が赤面しているのが分かる。俯いたまま軽く頭を下げて店内に入る。名前の知らない綺麗な花たち。黙ったまま、店内をぐるぐる歩き回る。

「花は、何も言わないけど、何でも聞いてくれるんですよ」

 その言葉は、あなたが何かを話したがっていることなんてお見通しよ、と私には聞こえた。

「あの、、ここで働きたいです」

「あら、そう。いいですよ」

 全く予想していない答えが返ってきた。

「え、いいんですか?」

「はい。いいですよ」

「でも、私、こんなふうな見た目だし、、精神的に不安定な時もあって迷惑をかけちゃうかもしれない」

 口元を少しだけほころばせてクスクスと笑っている。血をそのまま塗ったみたいに赤い唇。

「自分から働きたいって言ったのにネガティブキャンペーンばっかり。見た目?タトゥーのことなら気にしなくていいです。それにとっても綺麗。身体中に色んな花が咲いているのね」

 嘘みたいに簡単に話が進んでいった。彼女の名前はマリさん。週に二、三度の出勤で良いし、苦しくて来れない日は電話をしてと言ってくれた。店は火曜水曜が休みだけれども、植物の面倒を見るために出勤してもらうこともある、とのことだった。

「今日ね、バイト決まった。綾乃さんがいつもお花買ってる花屋さん。明日から働くよ」

「え!おめでと〜。しかもあこそなんだね。じゃあ今日はお祝いだ、後でコンビニでケーキ買お」

 いつも通り並んで夕ご飯を食べている。今日のメニューは青椒肉絲。バイトが決まってコンビニのケーキ、ちょうどよい大げさ。今日の私はなんでもできる気がして、隣にある手を握る。

「どうしたの?」

 無防備なその唇にキスをした。ごま油と醤油の味。私が味付けをした味。

「どうしたの?」

 さっきと同じ言葉を繰り返す。同じ言葉だけど違う響き。怯えているのか、少し震えている。

「ずっとこうしたかった」

 何か言おうと開かれた口を塞いで舌を滑り込ませる。咀嚼されている途中の肉とピーマン、玉ねぎを舌の上に感じる。

 今日の私を私は止められないと思う。彼女の顔を真っ直ぐに見つめる。

「私が怖い?」

 首を横に振る。

「じゃあなんで涙目なの?」

「わかんないよ」

 手を取り、寝室に連れて行く。

「暗くして」

「いつもお風呂でお互いの裸見慣れてるでしょう?」

「でも、暗くして」

 ああ、なんて嬉しいんだろう。恥ずかしさでいっぱいになっている表情を目に焼き付ける。暗くして、だって。嫌だ、とか、やめて、じゃなくて暗くしてと彼女は言った。噛み締めてゆっくりその言葉を飲み込む。

 耳の穴から足の指の間まで、彼女の味を覚えていく。まだお風呂入ってないから、とかなんか言っている声は遠い。

「わーー、しちゃった、、、」

 事を終えて二人天井を見上げている。

「嫌だった?」

「嫌じゃなかった」

「気づかないようにしてたのにな」

「私の気持ちに?」

「んーん、自分の気持ちに。これは保護したいって気持ちだって言い聞かせてたんだけどね」

 好き。と私の方を向いて彼女は言う。私はその言葉に返事ができない。

「海音ちゃんは、ワタシのことが好き?好きだから、こういう事をしたの?」

「そうだよ」

「でも、好きって言ってくれないね」

「言えないの」

「どうして?」

 恋人たちが、あるいは、恋をする誰かが、もしくは、愛も恋もない音として、囁かれ叫ばれ人を救い人を傷つけるその二文字の言葉が私にはどうしても言えない。音としては発音できる。けれど意味を持たせて言うことができない。綾乃さんに対しての気持ちはきっとその二文字で表すことができる。だけど、意味を持たせてその言葉を口に出した瞬間から、それは鮮度と意味を失っていき、私の心の中から彼女を失ってしまうと、そう確信しているから、言えない。

「言ったら、言葉から意味が逃げて行っちゃう気がするの」

「そっか。じゃあ言えるようになったら言ってね」

 言える日が来るのだろうか。もしその日が来たとして、その日が私が綾乃さんを失う日になってしまうんじゃないか、そう思うとやはり言えない。

 どちらかのお腹が鳴って、二人とも大きな声で笑い、冷めた青椒肉絲を温め直さずに食べた。ささっと二人でシャワーを浴びていつも通り並んで眠りにつく。

 二時間ちょっとしか眠れなかったけど目覚めはとても良い。今日は有給を取ると言って二度寝した綾乃さん用に軽い食事を用意して、バイトに行くために身支度をする。スニーカーの紐をいつもよりきつく結んで玄関を出る。きっと、今朝は新しい朝だ。あるいは、今朝の私は新しい私だ。これからもっともっと大丈夫になっていく、そんな気がした。蝉の声はもう聞こえず、季節の変わり目の風は寂しい香りがした。背筋を伸ばすとポキポキと気持ちの良い音がする。

 

 冬、年の瀬、綾乃さんと会って一年が過ぎようとしている。花屋のバイトも辞めずに続けられている。綾乃さんは偉い偉いと褒めてくれるけど、辞めないでいられるのは綾乃さんと店主のマリさんのおかげだ。私はちっとも努力していない。

「やっぱ温泉旅館にして良かったねぇ、ベタだけど景色もいいし」

 最初は温泉旅館に反対だった。だってタトゥーが入ってたらお風呂に入れないから、そのことによって綾乃さんに気を使わせてしまうと思ったから。でも、そんなの内風呂のある部屋にしちゃえばいいだけじゃん、と私の不安は一蹴された。どうしてそんなことにも気づかなかったのだろう。部屋の外には檜風呂がある。その向こうには海。灰色だ。

「ねえ、この部屋いくらだったの?」

 結局、私がどんなにお金を出すと言っても、綾乃さんは一円も受け取ってはくれなかった。

「ご飯何時って言ってたっけ?その前にひとっ風呂しちゃう?」

 私の質問は無かったことにされて、彼女は外に続くドアを開ける。ピリリとした空気が流れ込んできて頭がスースーした。彼女に続いて外に出て並んで海を眺める。

「寒いね」

 横からは返事が返ってこない。目を瞑って深呼吸をしている。私も真似をして匂いを嗅いでみる。海風は生臭い。

「部屋のお風呂もかけ流しなんだね、すごいね」

 私が目を瞑っている間に彼女はお風呂の方に向き直って、しゃがみ込んでお湯に顔を近づけている。

「ねえ、すごい。檜の匂いってするもんだねえ」

 また彼女の真似をしてしゃがみ込んで鼻から息を吸う。

「本当だ。初めて嗅いだかも」

「よーし。今日から三日間はこれでもかってぐらいにだらだらするぞ」

 今日は大晦日、三泊四日で三日には家に帰る。

「私、幸せかも」

「え?え?なに〜もう一回言って」

 絶対横でニヤニヤしている。立ち上がって部屋に戻る。

「ね〜拗ねないでよ」

 後ろから抱きしめて私の身体をまさぐる。

「それ以上触ったら抱くよ」

 手の動きは止まらない。そちらがそういうつもりなら、と私も応戦する。まだ外は明るい、部屋の電気も消されていない。波の音は部屋の中までは入ってこないらしい。

「ねえ!さっき危なかったねえ」

 食事も終えて、二人で露天風呂に浸かっている。

「危なかったっていうか、あれはアウトだよ。思いっきり最中に従業員さん来たじゃん。絶対ふすま越しに聞こえてたよ。慌てて浴衣着たから二人ともめちゃくちゃ乱れてたし」

「海音ちゃんって案外そういうところ気にするよね」

「綾乃さんこそ、そんなキャラだった?隠してた?」

「隠してはないけどー、なんだろ、吹っ切れたというか、好きって気持ちに嘘をつくのをやめたの」

 にやけそうな口元を隠すためにタバコに火をつける。露天風呂でタバコを吸うなんて、なかなかに風流だ。

 お風呂から上がって年末のテレビ番組も観ずに、もう一度二人貪り合う。最初の頃は受け身だった綾乃さんがこんなにも積極的になるなんて、あの時の彼女も可愛かった分、嬉しさ半分寂しさ半分だ。

 冬だっていうのに二人とも汗だくになって呼吸を整えている。

「ねえ、もしかして年越しちゃった?」

「もしかしなくても越したよ」

「えーー、海音ちゃんと一緒に年越しの瞬間迎えたかったのに」

「一緒に迎えたじゃん。シックスナイン中だったけど」

 ああ、下品で楽しくて幸せだ。この人とならおばあちゃんになってもこうやって笑えるんじゃないかなとさえ思える。二人とも正座で向かい合って新年の挨拶をし合う。今年もよろしくお願いします、と。先のことを約束することは昔から苦手だった。けれど、来年もきっと同じ挨拶をこの人にするんだろうな、だなんて考えてる自分がいる。彼女といると恥ずかしいことばかりだ。

 安らかな日々はとんでもないスピードで駆けていく。朝も夜も昼も分からなかった時よりもずっと速い。あの期間は私の人生の空白、心臓は動いていたけど死んでいた。明日も昨日も今日もなかった。

 年末年始の旅行から帰ってきて、六日からはバイトも再開した。冬の花屋は案外混むってことを初めて知った。街から花が消えるからだろうか。そんな季節も終わろうとしている、ポツポツと路上に咲く花が増えている。

 路上や公園で夜を明かす、家のない人たちも現れ始めた。みんな冬の間はどこに隠れてたのだろう。家から花屋までの道のりには公園が一つある。小さくて、遊具もない、公園というよりも空き地と呼んだ方が正しいが、一応入り口に表札があって名前があるから公園と呼んでいる。近頃そこに住み着いている老人が一人いる。白くて長い髭が生えていてボロボロのキャップをかぶっている。私は密かにその人のことを老師と呼んでる、綾乃さんにもマリさんにもその人の話をすることはない。通りかかるといつも居る、寝てたり、どこからか拾ってきた新聞を読んでいたり、コンビニの廃棄品なのか弁当を食べていたり、おぼつかない足取りで歩いていたりしてる。ただ、どんな行動をしていても老師は健やかに見える。生活の苦しさは一切伝わってこない。不思議だ。帰り道に老師を見ていたらついつい一時間ぐらい経ってしまってることも多々ある。

 最近綾乃さんは、愛してる、とよく口にする。その代わり好きだとか大好きだとかはあまり言わなくなった。

 今日は閉店後まで働いた。花屋の閉店は結構遅い。朝も割と早くから開けている、これを週に五日、一人でこなしていたマリさんは本当にすごい。いつもの公園の前に着く。老師は寝ている。雨すら防げないそのベンチが世界で一番安全な場所に見える。

「おかえり〜」

 閉店後まで働いた日は綾乃さんの方が早く帰宅していることが多い。部屋には美味しそうな匂いが充満している。

「良い匂い」

「今日はね、ホワイトシチュー」

 ちゃんと働くとちゃんとお腹が空く。荷物を置いて、リビングに戻るとテーブルの上にはすでにシチューがセッティングされていた。

「お米食べる?」

「んー、シチューだけで大丈夫。ありがとう」

 えーー、シチューにはお米が一番合うのに、、、とぶつくさ言いながら自分用に米をよそっている、その後ろ姿がとんでも無くかわいくて、つい抱きしめてしまう。

「ホワイトシチューはそのまま食べるかパンでしょ。お米なんて信じられない」

「お米とシチューが合わさった味を知らないなんて、、」

 首を捻ってこちらを向いた唇に軽く口づけをする。くっついて離れる時、私たちはいつもキスをする。いつからそうしているのか分からないけど、二人の間でそれは約束になっていた。

 二人並んで食べるホワイトシチューはトロリとして暖かくて綾乃さんそのものを料理にしたみたいだ。

「明日どこ行こうか」

 テレビから私に視線を移してそう言う。綾乃さんはいつだって私に声をかける時は私のことをしっかりと見る。明日は二人ともお休み。私がバイトを始めてたまになら外出もできる精神状況になってからは、休日にどこかまでデートをしに行くことも増えた。

「うーん、、明日は外出するよりも家でゆっくりしたいかも」

「おっけー。そしたら明日はだらだらデーにしよ。映画でも観ようか」

「うん。くだらなくて笑えるやつがいいな」

 夕ご飯もお風呂も終えて、綾乃さんがハマっているドラマの録画を観ている。この前届いたフカフカのソファー、本当は少し硬めのやつが好きだけど、彼女がとても満足そうに、安らぐぅ〜と言ったから私もそのソファーが好きになった。

 結局、近くに最近オープンしたケーキ屋さんでケーキを買うために、昼間にちょっとだけ家を出た。道中には例の公園があって、老師はただ空を眺めていた。何みてるの?って綾乃さんが私に聞いてきた時、何故だかとても焦って、何でもないよと早口で答えてしまった。不自然だっただろうか。

 モンブランとショートケーキをちびちび食べながら映画を観ている。海外のコメディ映画は吹っ切れていて好き。モンブランは私好みだった。たまに、中にクリがまるまるひとつ入ってるやつがあるけど、それはナンセンスだと思う。だって、フォークが滑って形が崩れるし、そこだけモサモサしてて全体の調和を乱している気がするから。新しくオープンしたケーキ屋さんのモンブランは中はクリームだけ。これこそモンブランだ。クリの要素は周りのクリームで充分なのだ。次はガトーショコラを食べてみたい。

「ショートケーキ、美味しい?」

「うん。美味しいよ〜クリームも軽くて、アタリだねあのお店。また買おうね」

「イチゴ、最後まで残すの?」

「楽しみは最後まで取っておくの」

 モンブランのクリと同じ理由でショートケーキのイチゴも私は要らない。最後に食べると味が全部生のイチゴで上書きされるし、フォークで刺すとケーキが崩れる。だからいつも最初にケーキの形が崩れないように掬って食べて、もともとなかったことにしちゃう。

 そういえば、今日の老師は空を見て何を考えていたんだろう。そもそも、見ていたのは空だったのかな。もしかすると寝ていたのかもしれない。気を抜くと老師とあの公園のことばかり考えてしまう。隣で綾乃さんが爆笑しているけど、完全にそのシーンを見逃してしまった。あの公園で私もぼーっとしてみたい。でも、あそこは老師の聖域、私が足を踏み入れるわけにはいかない。

 何もしない何も起きない休日はすぐに暮れて、ベッドで寝息を聞いている。私は目を瞑って夜の公園を思い浮かべてから眠りにつく。

 歩く、バイトまであと二時間もあるのに家を出た。ここ数日は昼間なら半袖でも寒くないぐらいに気温が高い。何も考えずに早く家を出たのではない、今日は目的があるのだ。老師にとってのあの公園のように、私にとってぼーっと出来る場所を探している。でも、なかなか見つからない。遊具のある公園は子供達がいるし、何もない空き地には先客がいる。地図も見ずに、当てもなく一時間ほど歩いた時、突然その場所は現れた。ミニチュアの森のような場所。目を凝らすと、雑草や木の隙間に獣道が見える。そこを進んでいくとぽっかりと何もない空間があった。畳三枚分ほどの空間は土が剥き出しで、何故かそこだけ草木が生えていない。見つけた。そう確信した。もともと何に使われていたかも、誰の土地かも分からないが、もうそこは私だけの場所になった。雑草の生え具合からして人が出入りしている土地ではないと思う。そもそも普通に暮らしていてこの場所に来る理由もないだろうから、誰かに侵入される心配もない。いや、侵入しているのは私の方か、と自分にツッコミを入れる。

 試しに座ってみる。うん、良い。仰向けに寝転がる。土の匂いがする、花屋で触る土とは違う、生臭い土の匂い、記憶のどこかに隠れていた匂い。身体の熱が地面に吸い込まれていく。ぴったり。私にぴったりの場所。初めて呼吸をしたみたいだ、今までしていたのは呼吸の真似事だったらしい。

 スマホで場所を確認してみる。バイトを始めて少し経ってから安いシムカードを購入して外でもスマホが使えるようになった。携帯代を出すと言い張る綾乃さんを押し切って自分のバイト代から出している、当たり前だけど私にとっては大きな進歩だ。現在地は意外にも家からも花屋からも近かった。ウロウロ歩いて最終的に家の近くに戻ってきていたようだ。これならいつでも来れる。名残惜しいが出勤の時間が近づいているから身体を起こしてその場を後にする。気持ちはとても高揚している。すれ違う人全員にハイタッチしたい気分。老師に、私も見つけたよ!と伝えたい。太陽は真上から光を降らしている。オーケストラの壮大な音楽でも聴きながら道を闊歩したい。歓喜の歌のメロディーが身体から溢れ出す。ちょっと調子に乗りすぎだろうか。でも、オールオッケーだ。死にたいなんていう気持ちはどこかに消えたらしい、と言うか、そんなもの元々知らなかったかのように心と身体が軽い。

 それからの日々、バイトのある日は行きか帰り、もしくはそのどちらもその場所に寄るようになった。バイトのない日も、家事を全て終えたらすぐにそこに向かって寝転んでただ呼吸をしていた。他の誰にもバレないようにその場所に入る前には周りに誰もいないか絶対に確認しているし、綾乃さんが帰ってくる前には絶対に家に着くようにしている。その場所に名前をつけた、底、ソコ、と。名前をつけるともっと好きになった。私だけが知っている名前、私だけが呼んでいる名前、私だけを許す場所、そんな気がする。

 底に通うようになっても、これといって日々に変化はない。むしろ前よりちゃんとしていると思う。底に行きたいから家を出る、だから体調不良以外でバイトを休むこともないし、家事だって早く片付くようになった。

 そして今も底にいる。蝉の大合唱が全身に降り注ぐけれど、暑さは感じない。枝の隙間から光がこぼれている。じいっとその光を見つめていると、段々何を見ているのか何をしているのかが曖昧になってくる。

 うたた寝をして夢をみていた。夢というより、昔の記憶。小学生の頃、毎年夏になると蝉を捕まえては殺していた。地面に叩きつけたり、細い木の枝をお尻の方から刺し込んで串刺しにしたり、捕まえたそのままの手で握りつぶしたり、羽をもいで大きな石ですり潰したり、思いついた殺し方を全て試した。夢に出てきた記憶で私は虫かごがパンパンになるぐらい蝉を詰め込んでいた。一匹ずつ取り出しては気の向くままに殺していく。どんどん減っていく虫かごの中の蝉、最後に残った二匹は交尾をしていた。オス同士で交尾をしていた。引き離そうとして引っ張っても全然離れない。そのことに私はとてつもなくイラついて、力を振り絞って二匹一緒に地面に叩きつけたのだった。鳴き声も発さずに二匹は死んだ、死んでも怒りは治らず靴の裏で地面に擦り付けるように踏み潰した。二匹の蝉がコンクリートのシミになるまで私の怒りは治らなかった。

 あの時の激しい感情は果たして怒りであってたのだろうか、その時の私はまだ燃えるような感情につく名前を、怒り、しか知らなかっただけなんじゃないかって今は思う。妬んでいたのかも知れないし、本当は真逆で嬉しくて嬉しくて訳がわからなくなっていたのかも知れない。今になっては推測するしかない。あの二匹は愛し合ってたのかな、殺した私を恨んでいるのかな、もし恨んでいたら悪いことをしてしまった。でも、私が虫かごがいっぱいになるまで蝉を捕まえなければ彼らは出会ってなかったかも知れない。そう思うと一週間が過ぎる前に彼らを引き合わせた私は救世主なのでは?自分に都合のいい答えが見つかったから、これ以上考えるのをやめにして起きあがって底を後にする。

「パンダってさぁ、真っ白でも可愛いかな?」

 お風呂上がり、頬を火照らせて綾乃さんはちょっとだけ訳の分からないことを言う。

「んーー、可愛いんじゃない?太ったシロクマみたいになりそう」

「たしかに!それは絶対可愛いね」

 とても満足そうに、うん。絶対可愛い。うんうん。と何度も頷く。

「ねえ、綾乃さん、好きだよ」

 キョトンとした顔でこちらを見ている。鳩が豆鉄砲を食ったような顔とはこの事かと、おかしくておかしくて息が乱れるぐらいに笑ってしまう。

「ねえ、なんて言った?私の聞き間違いじゃないよね?ねえ!笑ってないでもう一回言ってよ!」

 私の肩を掴んでグワングワン揺らす。息切れと相まってクラクラする。

「だから、好きだよ」

 笑い過ぎて出てきた涙を拭きながらもう一度そう伝える。

「もう一回」

 さっきの表情とは裏腹に鬼気迫る顔をしている。

「好き。好き好き大好き超愛してるよ」

 ああ、なんだかスッキリした。自分が空っぽになれた気がする。空っぽというか、空気みたいな、重力の影響を受けない何かになった気分。すき、言葉にしたらなんともおバカな響き。だけど、こんなマヌケな言葉が世界を紡いでは壊しては包んでいるのだから人は愛おしい。

「嬉しすぎて死にそう」

 考え事をしている間に綾乃さんの顔は大変なことになっていた。目から鼻から体液がダダ漏れだ。

「死んじゃだめだよ。あー、もう、せっかく保湿したのにぐちゃぐちゃじゃん」

 ティッシュを渡すと勢いよく鼻を噛んで、一呼吸すると声を上げて泣き出す。

「だってー、だって、だってだってだって!」

「だって?」

「だっての続きはない〜」

 苦しいほどに思う。この人が好きだ。身体が爆発しそうなぐらいに感情が溢れかえっている。

「こんないい日なのにケーキも何もないー、買っておけば良かった。今日何月何日?」

「ケーキは明日買お。今日はねー、八月十五日」

「ケーキ欲しい、コンビニでもいいから買いたい。八月十五日、一生忘れない」

「私たち、何かあればすぐケーキだね」

「ね、芸がないね〜」

 涙で滲んだ声だけど、その声は元気だ。良かった。

 一生か、もしも彼女が死ぬまで私がそばに居られるならそれでも良いと思える。でもきっと、私の方が早く死ぬだろうし、私が死ぬよりも早く二人の関係に終わりが来るかもしれない。そうなったら、今日というこの日は彼女の事をずっと縛り続けてしまわないかと不安にもなる。

「じゃあ、泣き止んだらセブン行こうか」

 ティッシュの箱を丸々一つ使ってようやく泣き止んだ後、二人でコンビニに向かった。保湿した直後の肌に夏の夜の空気はまとわりつく。世界はちょうど日付を越えたところ。深夜の底はどうなっているんだろう。私はまだ、みんなが寝ている時の底を知らない。ずっとずっと惹かれているけど、綾乃さんを心配させるのが分かっているから行けない。

 最近のコンビニはカットされたケーキ以外にも大きなケーキも売るようになったのかとびっくりした。ティラミスなどの容器に入ってるタイプのみだったけれど、結構攻めてるなと思う。

「最近のコンビニって、こんな大きなやつ売ってるんだね」

「海音ちゃんあんまりコンビニでケーキ買わない?クリスマスとかはガチのホールケーキとか売ってるんだよ〜」

 さっきまで号泣していたとは思えない笑顔で私にコンビニスイーツを語る。季節ごとの限定商品がびっくりするぐらいのクオリティだとか、サイズ展開も幅広くなっただとか、綾乃さんがこんなにコンビニスイーツが好きだなんて初めて知った。長く一緒に住んでいてもまだまだ彼女に関して知らないことは残されている。職場ではどんな感じで働いているのかとか、私以外の人と会話する時のトーンとか、知らないことが多いのはなんか嬉しい、知りたいと思えるものがなきゃ一緒には居られない気がするから。

「じゃあ今日は綾乃さんのオススメでお願い」

「えーーー、迷うなぁ。どれも美味しいんだよね。もうちょっと経って秋になるとね、カボチャのプリンも発売されるんだけど、それがもう衝撃の美味しさなの!」

「でも、それは今はないでしょう?」

「うん、ない。だから発売されたら一緒に買いに来ようね」

「うん。来る」

 たっぷり悩んで彼女が選んだのは、大きなレアチーズケーキだった。これがね、美味しいんだよ。と両手で抱えている。

「そんなに食べられる?」

「無理かも、だけど今日は大きなやつを二人で分けるってのがしたいの!」

 綾乃さんの言う通り、そのチーズケーキはとても美味しかった。そこら辺のチェーン展開しているカフェなんかよりよっぽど美味しい。ただ、予想通り二人で食べても半分にも到達できずに残りは冷蔵庫に入れられた。

 普段通り並んで歯を磨いて、普段より遅くベッドに転がった。寝る前、彼女はもう一度泣いた、そのあと嬉しそうに笑って、すぐに寝息が聞こえてくる。きっと疲れさせちゃったのだ。明日はいつもよりちょっと早く起きて、ちょっとだけ豪華な朝ごはんにしよう。きっと太陽に向かって咲く黄色い花みたいに彼女は笑う。それを想像するだけで私は幸福だ。

 花屋で働いていると、季節をちゃんと実感できる。もちろん季節を問わず、特に冬はハウスで育てられた花たちも入荷されるが、出来るだけ季節に逆らわないのがマリさんのモットーらしく、季節を通してお店にある植物のラインナップは変わっていく。花言葉も覚えた。でも、忘れてしまった花言葉の方が多い。それは、花言葉は素敵だけれどもそれによって花の純粋な美しさを邪魔することもあるのよねぇ、というマリさんの言葉が影響していると思う。花は、ただただ花として美しくあればそれで良い。それ以外の意味は要らない。人は物や出来事に意味や言葉を付け加えようとしすぎると思う。なんで、そのままを受け止めないのだろう。分からないことも分かろうとしすぎる。分からないまま受け入れても良いのに。

「ねえねえ、今度ウチでもサボテンとか売ろうと思うんだけど、どうかしら?」

「サボテンですか、良いですね。大きなやつ?小さなやつ?」

「そっかー、大きなやつもあるわね、小さなやつしか考えてなかったけれど、大きなやつもカッコよくて良いわねぇ」

 鼻歌を歌いながら身体を揺らして奥に消えていく。水みたいな人、ゆらゆら流れて何にでも馴染むし、時に硬くなり、時に空気みたいに軽くなる。もし、綾乃さんを何かに例えるとしたらなんだろう。ありきたりだけど、太陽がパッと思い浮かぶ。ならば、太陽と水の近くで生きる私は?多分、泥。泥と言っても作物の肥やしになるような立派なものではなく、産業廃棄物のような油とか自然が必要としないものの集合体としての泥。だから、彼女達がそんな私を受け入れてくれるのはどんなに嬉しいことか、彼女達はきっと知らない。でも、私が彼女達を心の奥底に受け入れることは出来ないと思う。だってそんな場所に招いてしまっては、きっとどんなに洗っても取れない汚れを付けてしまうから。

 私が自分の奥底に招けるのは底だけ、場所であり個体ではない底だから、招くと言うよりは奥底を開いて居られるって感じだろうか、とにかく底では自分のどの部分を晒しても大丈夫なのだ。あの場所はそれに混ざることもなく、ただそこに私が存在することを許してくれる。

 この頃、老師の姿を見かけなくなった。どこに行ってしまったのかな、もっといい場所を見つけたのか、もしくは近隣住民の苦情とかで立ち退きさせられたのかもしれない。もしそうだとしたら許されない行為だ。だってあそこは老師の場所だから、誰であれ老師があそこにいることを制限なんてしてはいけない。そう思うとグツグツと怒りが湧いてきた。

「どうしたの?怖い顔して」

 いつのまにか表の方に戻って来ていたマリさんが私の顔を覗き込んでいる。耳にかけられている黒髪がシャランと揺れ落ちる。

「ごめんなさい。考え事してました」

「ごめんなさいだなんて、変よ。どうして考え事してて謝る必要があるの?」

 そっか、無いのか。

「無いですね」

「そう、無いのよ」

 真っ赤な唇をほんの少しだけ動かして笑う。

「そうだ。今度うみねちゃんとあやのちゃんとアタシでお食事でもしましょうよ」

「それ良いですね」

「でしょう?アタシのお家で良ければいらっしゃい。帰ったら聞いてみてくれる?」

 マリさんのお家、そういえば場所も知らない。

「了解です。マリさんってどの辺に住んでるんですか?」

「あら、言ってなかったかしら、ここの向かいにマンションがあるでしょう?そこよ」

 花屋から道を挟んだ向いにはかなり大きなマンションがある。縦に大きいと言うより、横に大きな感じ、ズシン、って感じの建物。外観がレンガ作りっぽくなっていて結構私好みの建物だ。

「あー、あそこなんですね。あの建物どっしりしていて好きです」

「それは嬉しいわ。あれアタシのなのよ」

 あれアタシのなのよ?スッと意味が入ってこない。

「えっと、それはつまり、あれ全部がってことですか?」

「そうよ。そう言ったじゃない」

 また赤い唇を少しだけ動かして笑う。笑うと目が細くなって白目が見えなくなる。どこまでも続いていきそうな暗闇だけがまつ毛の隙間から見える。

 バイトからの帰り道、夕焼けが空を染める時間、老師のいた場所にいる。初めて足を踏み入れてみた。ベンチに、ここで寝ないでください、と張り紙がある。やっぱり、口から独り言が漏れる。やっぱり老師は追い出されてしまったんだ。そりゃそうだ、だって老師が自分からこの場所を去るわけがない。どうして彼のためにあった場所から彼が追い出されなければいけないのだ。意味が分からない。ならどうしてこの場所は存在しているのだ、老師のいないここは意味を失ってしまって痛々しい。彼がいたからここはあったのに、彼を返してくれと叫びが聞こえる気がした。小石を一つ拾ってポケットに大事にしまう。

 今日は出勤前に底に行ったから、帰りはまっすぐ帰るつもりだったけれど、予定を変更して底へと足を進める。長居しなければ家に帰る時間もそんなに遅くはならない。

 底に着いて、めいいっぱい息を吸い込む。そのまま寝転がりたくなったけど、今ここに来た目的は安らぐためではない。いつも私が寝転がるスペースに手で小さな穴を掘る。地面は結構硬くて指先が痛い。十センチほどの窪みを作って、さっき拾った小石をそっと置いてそっと土をかける。持っていたペットボトルから水をかけて地面を固める。うん、これで良い。怒りは落ち着いて心が大丈夫になった。

 早足で帰って綾乃さんにハグをしよう。

 

 少しだけ長い雨が夏を洗い流して、秋が来た。もうアスファルトの上に陽炎を見ることのない季節。三人でご飯を食べるという計画は、綾乃さんの仕事が忙しかったため、先延ばしを繰り返してとうとう今日実現する。綾乃さんは仕事が終わったら花屋に来ることになっている。お店は今日は少し早めに閉めるらしい。綾乃さんは十五分ほど前に家を出た。私もそろそろ家を出ようと思うが、私には今日、食事会以外にやることがある。綾乃さんの小物入れを物色して、ピアスを片方取り出す。彼女が一番大事にしているピアスだ。丸く削られた翡翠が付いている。小指の爪よりも小さなその石だけど、深い海の底みたいな色をしていて中に世界がまるまる一つ入っているかのようだ。それをジーンズのポケットにしまって、漁った形跡をきちんと消し、家を出る。

 また底で私は穴を掘っている。前回の反省から何も学ばず、今回も素手で掘るから指が痛い。満足いく深さまで掘って、綾乃さんのピアスを埋めて水で固める。うん、もっと大丈夫になった。

 楽しい予定が待っている日は時間の進みが遅い。なのに楽しい予定自体はすぐに過ぎてしまう。アタシ、料理はしないのとマリさんは寿司を出前で取ってくれた。私たち二人がお金を出そうとしても、ありがとう、とだけ言って決して受け取ってはくれなかった。三人で寿司を囲んでいる状況はどこか浮世離れしていて、誰か見ていたらちょっと不気味に思えただろう。テーブルの上にはキャンドルが炊いてあったし、寿司の桶は丸いし、黒魔術の儀式みたいだった。

 途中、トイレに行くふりをして何か持ち帰れるものはないかと玄関を物色した。結局玄関では気に入ったものがなくて、トイレの床に落ちていたマリさんの黒い髪の毛を一本持ち帰ることにした。失くしてしまいそうだったから、家に帰ってすぐにフリーザーパックに入れて、翌日の出勤前には底に埋めた。

 もともと底は私にフィットしていたけれど、私の世界を埋めたらもっと良くなった。深夜の底に来てみたいという気持ちは静かに確実に忍び寄るように大きくなって、もう爆発寸前だった。

 食事会から一週間後の夜、名前は知らない秋の虫が窓の外で鳴いている。隣からは綾乃さんの寝息が聞こえる。

「綾乃さん」

 呼びかけても返事はない。熟睡している。金曜日、一週間のうちで綾乃さんが一番疲れているであろう日、きっと寝たら多少の物音なんかでは起きないだろう。なるべくベッドに振動が伝わらないようにゆっくりと降りて、忍び足で玄関まで足を運ぶ。自分が忍び足をする瞬間が人生で来るとは思ってなかった、鍵を閉める時、ガチリと音が鳴って焦ったけれどもうここまで来たら起きてないことを願うしかない。外に出たらもう焦る必要なんてないのに、底まで走って向かった。あった。息切れをしながらそう思う。そりゃ朝にも昼間に夕方にも夜にもあるのだ、深夜にもあるに決まってる。でも、私の知らない深夜の底がちゃんと存在して私を待っていてくれたことに深い安堵を覚えている。

 息を整えてから、中央まで進んでいく。暗くて足元が見えない。でも、どこがどうなっているのか見えなくても隅々まで分かる。いつもの場所に腰を下ろす。静かと表現するのも違う、なんだろう、時間が止まってるわけでもない。そうだ、時間だ、時間がないのかと気がつく。深夜の底には時間という概念が無い。過去も未来も現在さえも無い、空間としてだけ存在している。空のさらに上とか海のさらに下とかはきっとこんな感じなんじゃないかと思った。寝転がると地面に身体が吸い込まれていく、この身体に蓄積した過去が、この身体がこれから体験する未来がサラサラと舞ってどこか遠くへ飛んでいく。ポッカリとしたただの私、そのポッカリは寂しさでも悲しみでもなく喜びでもない。時間を失った身体はもう容れ物ではなくなって完全に私自身と繋がる。このまま、地面に根を張って一本の木になりたいと思った。

 どのくらい寝転がっていたのか、何を考えていたのか分からないけれど、目を開けると空が暗さを失って来ている。残念だけど彼女が起きるまでに戻らなければならない。

 外に戻って来た途端、身体がとても重く感じた。時間ってこんなに重いものだったのだ。そうだ、今日は二人で冬物の服を買いに行って、夜は餃子を包むんだった。楽しみにしていたはずなのに忘れていた。

「やっぱさー、餃子はニンニクたっぷりじゃなきゃね〜明日も仕事ないし今日はどんどん臭くなっちゃお!」

 焼きたての餃子をビールで流し込んで気持ちのいい音を喉から発している。

「綾乃さんが食べてる餃子が世界で一番美味しそう」

「そりゃそうだよ〜海音ちゃんと一緒に包んだ餃子だもの」

 そう言って、二缶目のビールのプルトップを開ける。いつのまに一缶目を飲み干したのかとびっくりする。顔に出ていたのか彼女が私をみて笑う。

「今日は飲むって決めてたの!文句言っちゃダメ」

「文句なんて一言も言ってないじゃん。ただびっくりした、凄いね、マジックで消したみたい」

「大学生の頃はね酒豪で有名だったんだよビールの一杯や二杯、水と同じ」

 また新しい彼女を知った。

「じゃあ私といる時はいつも我慢してた?」

「んーん。飲みすぎて一時期オジサンみたいなお腹になっちゃってから控えるようになったの、、」

 オジサンみたいなお腹の綾乃さんを想像する。ご丁寧に髭まで生えていて笑いを堪えきれない。

「ねーー!笑わないでよ。ちゃんと頑張って痩せたんだから」

「オジサンのお腹に戻ってもいいよ。想像したら可愛すぎたから」

 私を小突く手の甲はとても滑らかできめ細かい。戯れあっていつも通りのキスをする。唇が離れる瞬間、ふわっとニンニクの香りがした。

 二人で五十個ぐらい食べたと思う。でも、調子に乗って包みすぎた餃子は食べた量と同じぐらい残ってしまった。残りは焼かずに粉をまぶして十個ずつラップに包んで冷凍庫に保存しておくことにした。デザートにアイスを買っていたけれど、二人ともそんなキャパは残ってなくて、座ってるのか寝転がっているのか区別のつかない体制でダラダラとテレビ番組を眺めている。

「休日が終わってく〜。海音ちゃん明日はバイトなんだっけ?」

「うん。だけど午前中だけだと思う」

 花屋で土日に定休日を設けている店はほとんどないと思う。土日には平日の十倍ぐらいの客が訪れる。マリさんは綾乃さんが土日休みなのを知っているから、私の休みも極力土日に合わせてくれる。もし出勤になるとしても二人で済ませたい力仕事がある時ぐらいで、その作業が終わったらすぐに退勤させてくれる。多分あの人にとって花屋を経営することも私を雇うことも趣味みたいなものなのだろう。この環境は普通ではありえないぐらいにありがたいものだ。

「じゃあ帰ってきたら映画でも観ようか」

 私たち二人は映画が好き。私自身、以前は映画館にもかなり通っていたけど、今は人の多いところに行くと呼吸が苦しくなっちゃうから行けなくなってしまった。彼女も本当は映画館で観る映画が好きなはずだ。それなのに、私の知る限り一緒に住み始めてから一度も映画館に足を運んでいない。この頃、私は彼女のそんな優しさに遠慮はせずにきちんと甘えることにした。多分それが私にできる一番礼儀正しい行動なのだと気づいたのだ。

「うん。この前サブスクで解禁したばっかのやつにしよ」

「あ、あの映画ね!いいね〜気になってたんだよね」

 餃子を詰め込んだ胃は重たくてゲップをするとニンニクの臭いが鼻から抜ける。二人ともお風呂に入る気力なんてあるわけがなく、そのまま服だけ着替えてくっついて寝た。夜中に一度起きた時、彼女が寝言で何かを言っていたけれど、不明瞭でちゃんと聞き取れなかった。

 

 秋の過ごしやすい気温が嘘だったかのようにあっという間に冬になった。晴れている日でも雨の日でも、私はほぼ毎週金曜の深夜には底で何時間か過ごしている。雨の日に寝転がるとさすがに泥がついて綾乃さんにバレてしまうからただ突っ立っているだけだが、雨の日の底は割とお気に入りだ。

 暖房で暖められた寝室で、私たち二人はお互いを慰め合っている。なんなら夏よりも汗だくになりながら、シーツはどんどん二人のシミで染まっていく。彼女の口から漏れるたっぷり水を含んだ息を浴びると私の性欲はどこまでも加速していく。めちゃめちゃにしてしまいたくなる。気持ちよくなっている顔よりも苦しくて歪められた顔が見たい、喘ぎ声なんかより悲鳴が聞きたい。そんな欲求を必死で抑えながら彼女の身体中に舌を這わす。

「暑いね〜」

 事を終えて、二人とも素っ裸のまま台所で水を身体に流し込む。一気に吸収されて全身に運ばれていくのが分かる。

「だって綾乃さん、あんなに激しく動くんだもん。暑いに決まってる」

「海音ちゃん。その発言スケベすぎ」

 スケベだなんて久しぶりに聞く言葉だ。そんな事をぼーっと考えていると、彼女がこっちを真っ直ぐに見て何か言おうとしていることに気づくまで時間がかかった。

「ん?どうしたの?」

「ねえ、海音ちゃん。今日もあの場所に行くの?」

「あの場所?」

 とぼけたフリをしても自分の声が微かに震えているのが分かる。

「うん。あの、なんかよく分からない森みたいなところ」

 気づかれていたのか。いつから?しかもついてきていたの?いろんなことが瞬時に頭を駆け巡る。

「気づいてたんだ」

「うん。だって毎週ベッドから抜け出してたらそりゃ分かるよ。どうして?なんであそこに行くの?あそこで何をしてるの?なんでワタシに隠すの?」

 矢継ぎ早に質問されるとイライラしてしまう。悪いのは私だって分かっていても気分が悪くなる。

「いっぺんに質問しないでよ。タバコ吸わせて。着替えてベランダで一服してからでいい?」

「換気扇の下で吸っていいから、ここに居て」

 その顔があまりに深刻だったからその言葉に従うことにした。深く深呼吸をするように煙を肺に入れてゆっくり吐き出す。彼女がこちらをずっと見ているのが分かるから、なるべくそっちの方は見ないようにして気分を落ち着ける。空になったペットボトルに吸い殻を入れて、彼女の方に顔を向ける。

「黙っててごめんね。隠しててごめん。でも、あそこは私にとって大切な場所なの行かずにはいられないの私だけの場所なの。あそこでなんか変な事をしてるわけでもなくて、ただあの場所に居るだけだよ。曖昧な説明になっちゃうけど、これ以上の説明は出来ないや」

 彼女は黙っている。きっと言葉を探しているのだろう。私を傷つけないような言葉を。

「そっか。大事な場所か」

 その声は溢れてしまいそうな寂しさを含んでいるように聞こえた。

「なら、行くのは止めない。でも、深夜に行くのはやめて欲しい。だってその道中に何かあったらって考えたらワタシ、生きていけない。それだけはお願い」

 なぜ?どうして私にこんなに優しくできるのか到底理解できない。そんなに優しくされては反抗できるわけがない。

「うん。ありがとう。もう深夜には行かない、約束する」

「本当に?約束だよ?」

「うん。約束」

「キスして。そしてもう一回誓って」

 それは、優しさだけで出来た脅しだ。私は言われた通りに彼女に口づけをしてまっすぐ目を合わせる。

「約束。深夜には行かないよ」

「うん。分かった。ごめんね」

 また、謝る必要のない人に謝らせている。そして私は自分のことを棚にあげて傷ついている。

 

 あの日、私がした約束は二ヶ月しか守られなかった。だって私は知ってしまったのだ。深夜の底を知ってしまった、もう知る前には戻れない。

 今日は約束を破ってから三度目の金曜日、さっきまでは一週間後に控えたクリスマスの予定をご飯を食べながら決めていた。イブは二人で過ごして、当日はマリさんを誘って三人で過ごそうなんて話をしていた。布団から抜け出して彼女の顔を見る。少し開いた唇が愛おしい。音を立てずに玄関まで歩く、もう慣れたものだ。

「行くの?」

「行くよ」

 起きていたのか、後ろを振り返るのが怖い。そのまま歩き出そうとすると手が握られる。反射的にその手を振り払ってしまう。私の爪が彼女の手を引っ掻いた。

「いたっ、、」

 その声につい彼女の方を振り返ってしまった。

「ごめん、でも行かなきゃ」

 彼女を傷つけた爪がむず痒い。

「行かせないよ。きっとそのうち海音ちゃんは帰って来なくなるから」

「どうして決めつけるの?帰ってくるよ」

 彼女の声は確信に満ちていた。ハッキリとした発音で私に浴びせられる。対照的に私の声は震えていて、嘘がバレた子供みたいだ。

「分かるの。行かせない」

 回り込んで玄関を塞いでくる。

「どいて」

「どかない」

「どうして?」

「大切だから。海音ちゃんを失うのが怖いからだよ」

 道を塞ぐ彼女を突き飛ばすと、自分でも驚くほどに力が入ってしまって彼女の身体がドアに打ち付けられる。鈍い音と呻き声が聞こえる。急いで靴を履いて足にしがみつこうとする手を足で振り払って、彼女の身体を跨いで外に出る。

 走って階段を降りる。もうこの家に戻っては来れないだろう。彼女の優しさを私は突き放して捨ててしまった。涙が溢れる。泣く資格なんてないのに止まらない。

「待って!」

 あんなに酷いことをしたのに、彼女はまだ私を追いかけてくる。振り返っちゃダメだと自分に言い聞かせるのに身体は勝手に向きを変える。靴も履かずに裸足のまま彼女は立っている。右手には包丁が握られている。私を見つめる視線には怒りは感じられない。

「そんな物騒なもの持って、どうするつもりなの?」

「このまま行くなら、ワタシ、今死ぬ」

 自分の首に包丁の刃を当てて私を脅す。

「だめ」

 身体が勝手に動く。彼女の方に真っ直ぐ歩いて行って、手から包丁を取り上げる。

「えっ?」

 驚いた顔で彼女は私の顔を見てから自分の胸元に視線を移す。それに釣られて私も彼女の胸元を見る。包丁は深く、柄しか見えないほどに彼女の胸に刺さっている。取り上げた弾みでこんな風に刺さるわけがない。私が刺したのだ。けれど、そんな感触も実感もない、映画のワンシーンを眺めているような気持ちだ。腕は動いて彼女の胸から包丁を引き抜く。そのまま首に刃を当て力いっぱいにスライドさせる。ほっぺたにピシャピシャと水が当たる感触がする。口を開けて何かを言おうとしているけれど、ゴボゴボと血が泡立っているだけで何も聞こえない。

 地面にクタッと倒れたその身体を底まで運ぶ事にした。お姫様抱っこをしようと思ったけれど、重すぎて諦める。腕を持って引きずる。

 ようやくの思いで底についてただの物質になった彼女を寝かせる。パジャマは赤黒く染まっていて元の色が分からない、目は開いたままで空を見つめている。腕を引っ張って運んできたからバンザイの姿勢をとっている。彼女の横に腰を下ろしてタバコに火をつける。吸い込むとパチパチと葉っぱが燃えていく音が聞こえる。私も寝転がりたくなって彼女の横で仰向けになる。どこまでが煙なのかどこからが息なのか、白い空気は真っ直ぐに上がってすぐに消える。続け様に三本タバコを吸ってから目を閉じる。

 私という存在が薄くなって消えていく気がする。今までの苦しさも悲しみも優しさも愛も恋も憎しみも底に溶けて一緒になっていく。大きなあくびをして息をやめる。誰もが何処からか来て何処かへ向かう。でもここは違う。ただ、私が、私じゃないものが、私だったものが、在る。それだけ。たったそれだけで、それだけが全てだ。

 やめていた息をゆっくりと吐き切る。

 

 あぁ、大丈夫になった。ぜんぶぜんぶ大丈夫になった。

 

                             了 

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とてもよいところ 園田汐 @shiosonoda

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