第五章 呪詛と冤罪➂
ボクは森の、木々の間を縫うように走っていた。大量の腐朽に追われ、捕まったら最期。それだけは確実だった。
ただギリギリで逃げる中、ボクは武器を身に着けた。それは灌木や草などは、枝で大きく弾き飛ばされたように、弾力のあるゴムと同じだ。走る途中で、それを押し曲げ、しならせて放すと、追いかけてきた腐朽へと、まるでムチのような攻撃ができるのだ。
ただ、自分の体が傷むことなど厭わず追ってくるのが、腐朽だ。心臓が動いていても、すでに体は腐敗を始めており、痛みすら感じていない。どれだけ体がボロボロになっても、死に物狂いで追いかけてくる。
そうやって追いかけっこをするうち、ボクは急に足元が消えた、と感じた。それは崖で、ボクは抗うことすらできずに、真っ逆さまに落ちて行った。
「イタタ……」
高いところから落ちても死なないのは、裏世界のいいところだけれど、硬いマットに落ちるのと同じだ。
どうやらそこは滝壺、落差は十メートルぐらいだけれど、そもそも裏世界には水がないので、滝とはなっていない。見上げると、追ってきていた腐朽は、どうやら飛び降りたりはしないようだ。しばらく下を覗きこんでいたけれど、そのうち顔が見えなくなった。
逃げ切れた……。一先ず安堵する。ただますます旅館から遠くなった。迂回しても戻ろうと、歩きだそうとして、ふと不穏な気配を感じる。それはこれまで感じたことのないプレッシャーであり、一緒の空間にいるだけで、たっぷりと冷や汗をかくほどのものだった。
「おやおや。追儺師でもない者が、ここまで……」
滝になると、その裏には水しぶきで窪みができるけれど、その奥まったところに着物をきた女性が、姿勢もよくすわっていた。
ただしそれは人ではない。顔はもうだいぶ腐り落ち、日本髪を結っていたものが、解けてざんばらになっている。左の隻眼であり、それでも爛々と輝かせ、こちらを見すえていた。
「妾はヨシノ。オサベ親王の母である」
鬼魅だ……。しかし、伊瀬がいない状況で、強力な腐朽であるそれと会ったのは初めてであり、対抗手段がない。
「ヨシノ……さん? オサベさんの母……ですか?」
ボクも会話で何とか打開しようと、プレッシャーに負けず、そう尋ねた。
「おやおや。それも知り申さぬか。藤原式家に諮られ、冤罪により幽閉され、弑逆された親子のことを……」
この裏世界は、どうやら律令制ができた頃――。藤原家がでてきたことからも、そのころにおきた出来事だろう。ただ、日本史の授業をサボったつもりはないけれど、『弑逆』とは主君殺しを意味する言葉。そんなことが起こったなんて、残念ながら脳の片隅にすらない。
「冤罪……ですか?」
「それは後に、内裏でもみとめられた。そもそも、我らは呪詛など知らん。それで罪に問われた。これが冤罪でなくして何であろう?」
呪詛、これは厄介だ。讒言されると、された側が圧倒的に不利。何しろ、証拠などなくとも権力側がそう判断すれば、罪に問えるものだ。
深い恨みが、そこには含まれていそうだった。
「その恨みを晴らすため、ここに?」
「勘違いするでない。恨みを晴らさんと、我らがここに留まるわけではない。恨みをもつ者を、ここに閉じこめたのじゃ」
なるほど……。彼女の側からすればそう主張するだろうが、裏世界をつくった何者かが、そうなるよう仕組んだ、ということか……?
「じゃあ、ここに入ってきた者を襲って、腐朽にするのは恨みじゃない?」
「魂の存在である我らが、何かを為さんとすると、体をもつしかない。それは恨みを晴らす手段」
だから八馬女も……。結局、それは自己都合であって、何も関係ない人々を巻きこむ道理ではない。
「さ、もうよいか。ここまで話したのも妾の子、オサベの宿り主とするため」
そう、それは分かっていた。時間稼ぎもここまで、愈々そのときが近づいている、ということだ。
「今、オサベは何者かと戦っているようじゃ。だいぶ肉体も傷んだであろう。新たな体を必要とするだろうから、汝を捕らえようと、腐朽たちに命じてここまで追わせたのじゃ」
崖から落ちたことも、すべてが彼女らの企み――。こうなると、もう泣いても笑っても絶望的……。まさに絶体絶命……否、絶命はするけれど、体は残るので、絶対に絶命の方がよさそうだった。
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