第四章 衣食足りて、住を失う➁
「じゃあ、裏世界って昔からあったんですか?」
ボクが勢いこんでそう尋ねると、伊瀬は鼻で笑った。
「昔……と言うと語弊もあるけど、アニミズムを信奉する世界では自然の驚異、そのものを信仰の対象とする。人間同士の争いなんて、些細なこと。
でも社会が複雑化すると、人間同士の争いの方がより重要となり、それで仕方なくつくったのよ」
「仕方なくって……。誰が造ったんですか?」
「それまで、この国の首都は宮、つまり宮殿がその役目を負っていた。大規模な古墳の造営さえ記紀にも描かれ、一大事業だったのにね。都の建設は、それよりずっと後なのよ。
そして都をつくり、人々が集団で暮らし始めると、社会が複雑化され、さらに法ができると、より人々の活動が制約され、仕方なくつくった。アナタでも知るような、超有名人がね」
「超有名人……? 都? 平城京、平安京……安倍晴明!」
「ぶ、ぶー。外れ。時代が少しちがうし、何より『せいめい』と呼称されるけれど、それが史実かどうかも怪しいわね。むしろ仏僧以外、訓読みが一般的だから、これは『はらき』と読む方がすっきりする。
古代に『はらき』や『ひらき』と呼ばれるのは、広く新たな土地を手に入れたか、創始者である、という名乗り。つまり葛の葉伝説などの、安倍晴明の怪しげな出自を信じなければ、これは『成り上がり』者で、安倍家を自分が立ち上げたぞ、というための名前なのよ」
「安倍氏……、昔からありますよね?」
「同音異字の多い名前よね。安倍姓とはいえ、古代からつづく安倍氏かどうか。後世において、神格化する際、神である人物が出自の怪しい、低い身分の出、ということに不都合があった。
さらに陰陽道として伝わるのは天文、暦の二つ。もし鬼を操ったり、敵を吹き飛ばしたりする能力を身に着けたのに、子孫にさえそれを伝えなかったとしたら、どんな性格の悪さよ」
「安倍晴明……嫌いなんですね」
「嫌いじゃないわ。でも、晴明は公的機関である陰陽寮の所属。いわば公務員みたいなものよ。公的な記録、つまり歴史に残りやすい、評価されるのはそういった公務員の側、というのは分かるでしょう。
彼への礼賛、賛美というのは国家の統治体制にもかかわった。民間の陰陽師だった芦屋道満を悪とするのも、国家の威光を傷つけないためで、その対極に、安倍晴明はいるのよ。
暦道、天文道により、先々が見えるように感じても、それは占いと同じ。偶々よく当たったから、評価されたに過ぎない。ということよ」
やっぱり、安倍晴明のことは嫌いらしい。もっともそれが、国の庇護をうける者への妬み、やっかみという面もあるのかもしれなかった。
「伊瀬さんは陰陽師じゃないんですか?」
「ちがうわよ」
「追儺師って、陰陽師じゃないんですか?」
「追儺とは、鬼を追いやらう行事。いわゆる節分のこと。裏世界にいる腐朽を相手にするのが役目……といったところで、特別な力をもつわけじゃない。私は偶々、頼豪を操ることができるだけ。
追儺師はあくまで自称であって、豆を撒く職業がないように、自覚した者が勝手に名乗るものよ」
しかし古代から裏世界がある、というのだから、その追儺師を名乗る者も古代からいたはずだ。
「でも、あの実は高く売れるんですよね?」
「追儺師の間では高く取引されるけれど、一般にはまったく必要ないものよ」
「食用にはできないんですか?」
「食べられる……とは思うけれど、一個で数十万円、貴族様のお戯れよ」
「さっきの霧吹きの中身、残っていますか?」
腐朽を撃退した、カムヅミのジュースである。それを受けとると、八馬女に与えてみることにした。単なる思い付きだけれど、ここまで八馬女は何も口にしておらず、裏世界にあるものなら、食べるかと思ったからだ。
「飲んだ!」
霧吹きの蓋を外すと、直接ごくごく飲んだ。伊瀬もそれをみて、半分残しておいた実を切って差しだすと、八馬女は自ら口に運ぶ。どうやらおいしかったようで、忽ち平らげてしまった。
「ふ~ん……。試した価値はあったわね。どうせ大して日持ちしないし、使うだけの結果がでたわ」
「これって、腐朽の侵攻を止めるんですよね? もしかしたら本能的に……」
「今はそこまで考えずとも、食べ物がみつかった、で十分よ。しかもそれが、腐朽が嫌がるものだった。これで本当に、腐朽の侵攻を食い止められるなら、それは画期的な発見。だけど……」
伊瀬は眉を顰めた。
「それが目ん玉が飛びだすほど高くて、採取も大変なものだったのが、残念よね」
そう、それが重たい課題だった。
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