サイクリストとおうちごはん

湖池ミサゴ

ヒルクライマーのためのロコモコ丼

 河下浩介は、四十を目の前にして、独身であり、一人暮らしをしている。

 以前は、外食中心の食生活だった。そして、仕事帰りの居酒屋での晩酌、休日の外食をもっぱらの楽しみとしていた。

「グルメレヴューサイト」を眺めては、時々、店を開拓する。ガッカリさせられることもあったが、多くは発見があり、自分の生活が豊かなものに感じられていた。地方都市のためか、評価を素直に信じていても、それなりの店にたどり着けた。

 若い頃には、ランチメニューを攻略したい、それだけの理由で、営業職に異動希望を提出したことがあった。その願いは通らなかったが、後で営業職のノルマの厳しさを知り、願いが通らなくて良かったと思う。

 結局、浩介は、経理一筋だった。現在は、経理課の課長補佐という役職をいただき、デスクワークの毎日だ。


 しかし、風邪に似た症状を引き起こすウイルスが、流行り始めて、三年目の春となった。

 外食を控えるどころか、テイクアウトこそすれ、店内で食事することがなくなった浩介は、人生の楽しみの多くを失ってしまったような気がしていた。

 そして、浩介の職場では、奇跡的にも、職員に感染者が出ていなかった。

 子どもが通う学校や保育園などで、感染があり、自宅勤務や休暇を取得する職員はいる。

 しかし、感染した職員はいない。未だに我が職場では、感染者第一号がいないのだ。

 この圧力は大きい。

 誰も最初の罹患者にはなりたくない。

 この一念で、公衆衛生に対する高い意識が職場で保たれているような気がする。

 さらに康介に限っていえば、営業職ではない。経理課だ。

 社外の人間と接触することがほとんどないのに、もしも、この感染症に最初に罹れば、と思うと気が重い。

 独身なのにどこから感染したのかと、浩介の寂しい一人暮らしに対して、さまざま憶測が社内を飛び交う。そんなことを想像するだけで、罹患後、職場復帰できないかもしれない。

 いっそ、自分の職場で大流行してくれればと思ったことも一度や二度ではない。


 そんなこんなで、昨今の社会情勢によって浩介の心の平静を保つため、自炊を始めたのは二年前だ。食事は自分にとって、大事な柱のような気がした。

 最近では、テイクアウトよりも、「レシピサイト」を見て、最低限の食材をスーパーで購入し自炊することの方が増えてきた。

 おかげで、自炊なんてしないからこれで良いと思っていた、1DKの部屋が狭く感じられる。

 なるべく増やさないようにしているにもかかわらず、皿やどんぶりなどの器が増え、フライパンが二種、鍋も三種と増えてしまった。

 さらに炊飯器を低温調理の機能がついたものに買い替えていた。パン焼き機能と低温調理とどちらを選択するか、家電量販店の店先で一時間以上悩んだ。

 そんなこんなで、最近は自炊で、肉料理とスープか、パスタとスープをいただく夕食が増えている。夕食で残ったスープとパンを朝食としていただくので、残り物も少ない。

 こうした食生活を続けていたところ、なんと体重が激減した。


 体重が減ると、人は活動的になるのだろうか。浩介は、屋外倉庫に保管していたロードバイクに再度挑戦することにした。

 三十を超えた頃、ダイエットのために始めたスポーツがサイクリングだった。他人と競うことが苦手だった浩介とサイクリングは相性が良かった。競争するわけでもないし、行きたいところまで走って帰ってくる、ただそれだけのシンプルなスポーツで、休日まで誰かに気を使う必要もないところが良かった。

 浩介の住む地方都市は端的にいってド田舎だ。

 家から出発して、ものの数十分で、古い国道や県道、農道にたどりつく。

 そこまで行けば、交通量もわずかだ。その道をのんびりと登っていく。

 浩介は平坦な道よりも、登り坂が好きだった。スピードよりも、ペダルを踏んだら、踏んだだけ進む。その積み重ねを続けることで、景色が変わっていく、目的地に辿り着く、そのことが好きだった。

 今日は、日本の滝百選にも選ばれている大蛇滝への登山道入り口を目標とした。

 自転車では、滝までは進めないので入り口までだが、その直前には、なかなかの斜度を誇る坂がある。そこを目がけて黙々と自転車を走らせる。


 浩介の自転車の進みが遅いためか、鳥の鳴き声が聞こえる。春になったことを実感させてくれ、なんだか心地よい。平坦な道や下り坂でスピードを出していたら、鳥の鳴き声は風切り音でかき消されてしまうところだ。のんびりで良かったと思う。

 あと少しで、目的地に辿り着くという時、後ろから、自転車が近づく音が聞こえる。

 かなりの斜度になっていると思うが、良いペースで上がってくる人がいるものだと感心し、自転車を気持ち脇に寄せる。

「抜きます。」

 若い女性の声がしたかと思うと、あっという間に追い抜かれる。なかなかの健脚の持ち主だ。いや浩介が貧脚なのか、苦笑いをしながら自分のペースでペダルを踏み続ける。


 しばらくして、浩介は登山道入り口に着いた。

 滝を見に来たのか、山菜採りのついでなのか、乗用車で登山道入り口まできていた観光客は多かった。

 パキン、と音を鳴らしてビンディングを外し、久しぶりの地面に足をつく。

「補佐〜。」

 職場では、役職で呼ばれることの多い浩介であったので、誰か職場の知り合いでも、ここまでドライブに来ていたかと周りを見渡すが特に見当たらない。

 自分ではなかったかと思ったその時、若い女性の声がもう一度聞こえる。

「やっぱり、河下補佐じゃないですか。」

 声の方に目をやると、自動販売機のところに先ほど浩介を追い抜いた女性ライダーがいた。

 しかし、ヘルメットにサングラス、さらにマスクがわりのネックゲイターでは、誰かわからない。首を傾げていると、女性も気付いたのかサングラスを外す。同じ経理課の井田さんだった。

「井田さんじゃないですか。」

 浩介は、自転車からボトルを外し、ボトルを持って自動販売機へ向かう、合わせてネックゲイターを口元まで上げてマスクがわりにする。

 井田さんは、経理課で浩介の部下だった。会社では、おとなしいイメージの彼女だが、サイクルジャージを着こなしていて格好良くみえる。

 サイクルジャージは、体にピッタリと張り付くようにデザインされている。そのため、男性からも、全身タイツだのお猿パンツだのと言われて敬遠されることがある。体のラインがはっきりわかるため、女性用のウェアに至っては、サイクルスカートなるものをジャージの上に着ることもあるくらいだ。

「井田さん、速いですね。経験者なんですか。」

「いえいえ、社会人になってから始めたんですよ。五、六年になりますかね。」

「そうなんですか。私も、それくらい前に始めたんですけど、続かなかったんですよ。また、挑戦しようかなと思って、この春から再開したところなんですよ。」

「それでですか、急に痩せたって、噂になっていますよ。」

「いえ、逆というか。家でご飯を食べるようになって痩せましてね、痩せたら自転車も楽に走れるかなと思って再開したところなんですよ。」

「あら、誰かご飯を作ってくださる方ができたんですか。」

 おっと、なかなか鋭い質問だ。ちゃんと答えないと、休日明けには、社内に変な噂が立ちそうだ。

「外食やテイクアウトをやめて、自炊するようになったんですよ。お酒の量も減って、ちょっとは健康的に見えますかね。」

「本当に痩せられましたものね。」

 そう言うと、井田さんは浩介のジャージ姿を上から下までみる。体脂肪率一桁みたいに自慢できるほど痩せているわけではない。最近やっと標準体重まで戻ったばかりの浩介は恥ずかしくなる。


 浩介は、帰り道の水分補給のために自動販売機でミネラルウォーターを買い、ボトルに注いでいた。

 それを見ていた井田さんから誘いの声がかかる。

「この先の豆腐屋さんにいきませんか。」

 清流を使った豆腐屋『大蛇滝豆腐店』が、この先にはある。確か、豆乳を使ったスイーツが有名だったか。井田さんも女子だな。

「下りなら置いていかれることもないでしょうから、ついていきますよ。」

「では、いきましょう。」

 そう言って、お店まで走る。行きは坂がきつかっただけあって、ペダルを踏む必要もない。お店にはすぐに着いた。

「河下補佐にもおすすめの商品があるんですよ。」

 井田さんはニコニコしながら、お店を案内する。浩介は、社内であまり甘いものを食べていない筈だが、何を勧めてくれるのだろうか。

「ありました、『大蛇滝豆腐ハンバーグ』です。」

「ほう。」

「補佐、痩せられましたけど、ガッツリ系が好きですよね。ここの豆腐ハンバーグは、レトルトパウチになっているので、サイクルジャージのポケットに収めてお家に持って帰れるんです。」

「なんと。それは自転車乗りにもありがたいね。」

「私も、カロリーを抑えなきゃって考えているんです。自転車でここまでくれば、たくさんカロリーを使います。そして、夕飯は高タンパク、低カロリーの豆腐ハンバーグです。疲労回復、筋力も増強できてしまいます。これって、いい組み合わせだと思いませんか。」

「いいね。でも、井田さんは痩せなくっても十分細いじゃないか。」

「そんなことはないんです。見えないところに色々つくんです。」

 そんなピッタリしたジャージを着ていながら、見えないところってどこだよ、と思う。しかし、経理課は女性の多い職場、女性に対する軽口は、死につながる。

「じゃあ、これを買って帰ろう。夕飯まで買い物できて、今日のサイクリングは、最高だ。」

「喜んでもらえて、私も嬉しかったです。でも、私の楽しみにも付き合ってくださいね。」

「もちろん。」

 井田さんは、豆乳ソフトクリームを二つ買って浩介に渡す。

「支払うよ。」

「また、今度でいいですよ。」

 などと話しながら、店外のベンチに二人で腰掛ける。


 ネックゲイターを下ろし、ソフトクリームを食べようとしたが、ふと、井田さんとの距離が気になる。

「この御時世だ。僕から、井田さんに感染したら大変だ。もう少し離れようか。」

 そう言って、別のベンチに移動しようとした。

「補佐、何言っているんですか。お昼ご飯は、経理課みんな同じ部屋でいただいていますよ?それにここなら、外ですから。換気もしなくていいんですよ。」

 そう言って、井田さんは、浩介との間を詰めてくる。浩介は気恥ずかしくなったが、平気なフリをする。

 そんな浩介に井田さんは続けて話す。

「換気といえば、この冬、補佐が社内の換気に気を配っていたじゃないですか。社長が、商工会か何かの経営者同士の集まりで、『換気を十分にして、我が社は感染者ゼロ』って自慢したらしいんですよ。そうしたら、よその社長さんにずいぶん受けが良かったらしくてご機嫌らしいですよ。」

「へえ。」

 寒い日でも、窓を開けて換気をする浩介に対して、「余計なことをするな」と社長は睨んでいたように思ったが、そんな自慢を社外でしているとは思いもよらなかった。

「それで、今年の社長賞を補佐にという噂があることを知っていましたか?」

 経理担当者は、朝から晩まで会社で過ごす。そんな自分が、会社で最初の感染者にならないために保身で始めた換気が、そんな噂になっているなんて思いもよらなかった。

「冗談だろう。そもそも経理課が社長賞なんてあり得ないだろう。」

「それが、不景気で営業部もパッとした成績を残せた人もいないみたいで。あるかもしれませんよ。」

 確かに、営業部は、不景気でそもそも受注が減っているらしいと聞く。受注しても、半導体不足で商品が届かず商機を逃す事もしばしばだとも聞く。

「そうだとしても、本業の経理の仕事が評価されるわけじゃないのは、なんともな。」

 そう言いながら、ソフトクリームを食べる。豆乳なのでさっぱりとしているが、甘い。甘いものをサイクリングの途中に食べると、体力が回復したような気がする。もう一山登れそうな気もするが、無理はよくない。

 今日はこれくらいで家に帰るべきだろう。

 井田さんの方を見ると、ソフトクリームはあまり減っていない。ゆっくり味わって食べているようだ。そんな彼女の姿を可愛らしいと思った。

 彼女がソフトクリームを食べる姿を見ながら、ソフトクリームを食べていると、浩介の視線に気づいた井田さんが笑って、

「どうしたんですか。」

「いや、別に。」

 浩介は、慌てて、ソフトクリームを食べ切る。


 豆腐屋の前に広がる田植え前の田おこしが終わり黒々としている田んぼを見てしばらく過ごす。井田さんの顔は恥ずかしくて見ることができない。

「井田さんは経験者じゃないって言っていたけど、どうして自転車を始めたの。」

「以前は、補佐、サイクリング楽しいよ、ってお昼休みにお話ししていたじゃないですか。しかも、みるみる痩せて、まあ、最近は少しリバウンドされたようですけど。」

 井田さんが悪戯っぽく笑う。浩介も苦笑いをする。

「その頃、私も危機感を持っていたんですよ。」

「危機感?」

「補佐の変化を見て、これだけ効果があるならって思ったんですよね。」

 なるほど、危機感については、具体的に聞いてはいけないようだ。これ以上は、セクハラ、一発解雇もあり得る。

「けっこう、お金かかりました。ウェアも高いし。それで行ってみたんですよ、補佐が話していた峠に。すぐに足をついちゃって嫌になりました。次の日は筋肉痛になるし。」

「まあ、最初はね。」

「でも、たくさんお金かけちゃったので、引き返せないなって思って。仕方がないので、週末は、川沿いのサイクリングロードを走っていました。でも、坂を登れなかったのが恥ずかしくて会社でお話しできなくてですね。みんなに黙っていたんですよ。」

「恥ずかしいことはないと思うんだけどな。」

「でも、ついていけなかったら足手まといというか。迷惑かけちゃいそうで、一人で走っていたんですよ。」

「そう。」

 それはわかる。浩介もそれが理由で、一人で走ることにしている。でも、それが気楽でいいとも感じていた。

「それで、一人で夏、朝早く走っていたら、出会ったんですよ。」

 イケメン登場か?若い子は羨ましいな。

「キジです。しかもオスで派手なんですよね。巣のそばを自転車で通りかかったせいで、威嚇で出てきたみたいで。」

 ある意味、巣とメスを守るイケメンだった。

「野生の動物をあんなに間近に見たことがなかったので、感動したんですよ。」

「確かに、自転車に乗っていると、いろんな動物に出会うね。」

「それで、山のほうが色んな動物いるかなと思って、また峠に挑戦したんです。そうしたら、すんなりと峠まで登れて。補佐が言っていた『ペダルを踏めば踏んだ分進む』ってこういう楽しさなのかなと思ったら、ハマってしまったんですよ。」

「そんな、良い話にまとめてもらうと、恥ずかしいな。」

 浩介は、気恥ずかしいので、また田んぼを見る。

 パリパリというコーンを噛み砕く音が聞こえたところで、伊田さんの方に改めて向き直る。

「そろそろ、帰ろうか。」

「そうですね。」


 帰り道は、無言だった。下りはそれなりにスピードが出るので風切り音で声が聞こえにくくなる。そのせいで、会話がしにくい。出発前に「平地に出れば、井田さんの方が速いだろうから、遅れたらそのまま帰ってくれればいい。」と、浩介は井田さんに告げて追走していた。

 下りの間はついていけたが、平地に出ると井田さんの脚力は素晴らしく、浩介は遅れた。ところが、浩介が遅れる度、井田さんはスピードダウンして、待っていてくれた。

 そういえば、と浩介は思い出す。

 井田さんが新人の時、係長だった浩介が、サポート役だったことを思い出す。仕事ができるまで、目処がつくまで、井田さんを待ちながら一緒に残業したものだった。サイクリングでは、待ってもらうのは、自分の方だと思うとおかしくなる。


 井田さんと別れたのは、市街地に入ってからだった。

 お互いの家に帰るための分かれ道に、コンビニエンスストアがある。コンビニの駐車場で一旦、自転車を停めてお別れを浩介は言う。

「また、月曜日に。」

「はい。お疲れさまでした。」

「お疲れさまでした。」

 短い挨拶をして、二人は別れた。

 浩介はロードバイクの汚れを軽く拭き取り、屋外倉庫にしまう。部屋に戻ってシャワーを浴びた。コーヒーを淹れ、音楽を聴きながらぼんやりする。そのうち、瞼が重くなり、うとうとしてしまった。


 目が覚めると、午後四時過ぎだった。レースのカーテン越しに届く陽の光は、オレンジ色になっている。昼を抜いたので、お腹も空いている。

 さて、今日買った『大蛇滝豆腐ハンバーグ』をさっそくいただこう。

 お昼に井田さんと話をしたダイエットについて少し思いを廻らせ、ローカーボで行こうと決める。

 ガッツリが好きな浩介にとって、低糖質ダイエットは、油分にうるさくないので、やってみようかと思わせる食事制限だ。


 まずは、カットしめじ、ベーコン、人参ともち麦でジンジャースープを作る。

 生姜は疲労回復に効くらしい。浩介は筋肉痛の軽減のために、生姜を摂るようにしていた。効果のほどはわからないが、夏のサイクリング後の生姜をたっぷりのせた冷奴とビールは、正義だ。だから、肌寒い季節は、スープでいただくようにしている。

 次に、夕飯のために買い置きしていた解凍エビを準備し、ガーリックシュリンプを作る。ニンニクとオリーブオイルでできる簡単な料理だ。そして、その見た目のコッテリさに反して、糖質が少ない。

 最後に湯煎した豆腐ハンバーグを千切りキャベツと同じ皿に乗せる。これで出来上がりの予定だったが、ハンバーグにかけるソースが欲しくなる。ただケチャップをかけるだけでは芸がない。

 そこで、ガーリックシュリンプを取り出した小さなフライパンにもう一度、ニンニクとオリーブオイルを入れ、ジンジャースープで余っていたカットしめじを入れた。ケチャップとワインを入れ、きのこソースを作って豆腐ハンバーグにかけた。


 できた。浩介としては、かなり自慢の三品ができてしまった。

 しかも、これに合わせるべきお酒はワインだ。ワインが合いそうな料理ができてしまった。三品を並べ、ワイングラスを置き、赤ワインを注ぐ。

 なかなか絵になる。

 まだ、飲んでもいないのに浩介は俄然盛り上がってきた。スマホで写真を撮る。インスタなどはやっていないので、誰かに見せるわけでもないが記念として残したくなったのだ。

 自炊を始めたと言っても、丼物やカレー、焼いた肉とキャベツのような献立が多かった浩介にとって今日の献立は渾身の出来である。

「いただきます。」

 一人暮らしにもかかわらず、今日に限って挨拶をして食事に臨む。

 ガーリックシュリンプをまずいただく。旨い。これは鉄板でワインと合う。

 次に豆腐ハンバーグだ。豆腐ハンバーグだけなら、さっぱり味だったと思うが、きのこソースで、こってりさが増してこれも良し。

 最後にジンジャースープで温まる。これも旨い。もち麦のプチプチで腹も膨れる。

 ワインがまわったのか、今日のこの夕飯を誰かと共有したいという気持ちに駆られる。伝えるなら、メインディッシュである『大蛇滝豆腐ハンバーグ』を紹介してくれた井田さんだろう。

 浩介はたった一回のサイクリングで彼女の印象がガラリと変わってしまった。サイクルジャージ姿のかっこよさやアイスクリームの食べ方のかわいらしさも素敵だった。

 それよりも、ゆっくり話してみて、自分とよく似た理由でサイクリングを楽しんでいることがわかって嬉しかった。価値観が似ているのかもしれない女性、そんな相手と居心地の良い関係が結びたい。そう願うほどに魅力的だった。

 それに一緒にサイクリングをしていて、彼女からの好意を感じなかったわけではない。そこまで浩介は鈍感ではないつもりだ。

 しかし、ただの同僚としての好意の可能性も捨てきれず、悶々とする。独り身の期間が長すぎたせいか、自分に自信もない。浩介は、彼女からすれば年の離れたおじさんなのだから。

 ワインを飲みながら、ついスマホを取り出す。

「今日は、美味しい豆腐ハンバーグを紹介してくれてありがとう。『ヒルクライマーのためのロカボ飯』です。」

 メッセージアプリで、井田さんに三品とワインの写した写真とメッセージを送る。


 あれ、これってセクハラとかパワハラとかになるのかな。

 浩介は急に不安になる。

 一緒にサイクリングをして舞い上がってしまったが上司と部下である。

 時計を見ると、まだ六時過ぎであり、セクハラではないだろう。いやいや、夜じゃなくても、メッセージはセクハラなのか。メッセージアプリでの返信の強要はパワハラか。

 さっきまでの浮かれようはどこかへ行き、冷や汗をかき始める。

 スマホを見ると既読がついている。もう、取り返しがつかない。

 既読がついて、数分が経つが、返信もない。

 やはり、セクハラなのか、証拠つきのセクハラをやってしまったのか。


 その時、ポロンとスマホのアプリが着信を告げる。

「こちらこそ、お付き合いいただきありがとうございました。エビおいしそうですね。『ヒルクライマーのためのロコモコ丼』です。」

 写真には、どんぶりが写っている。目玉焼きと豆腐ハンバーグがキャベツの上にあり、白いソースがかかっている。

 さっきまでの葛藤はどこかへ行ってしまい、浩介は、白いソースに興味が湧き、すぐ返信する。

「そのソースはなんですか?」

「豆乳のクリームソースですよ?」

「さすが、ヒルクライマーですね。カロリーを考えていて、しかも、おいしそうです。」

「今度、サイクリングの後、一緒にご飯食べますか?」

 あれっと、浩介は考えてから返信する。

「この御時世ですから、外食は難しいですよ。」

「『おうちごはん』ですから、換気すれば大丈夫なんですよ。」


 浩介は、自分の気持ちを伝えるために、井田さんに電話をすることにした。

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