8
3日ぶりの学校はうんざりするほど変っていなかった。
雨宮律は息苦しくなって、顔を覆うマスクを指でつまんで呼吸をする。治りかけの喉に春の乾燥した空気を送り込まれる。グラウンドから聞こえてくる野球部の声援をBGMに律は校庭の花壇に水撒きをしていた。4月から委員会をバイトを理由で休んでいた分と風邪をひいて休んだ分を合わせると、当面は律の当番になるだろう。
あれほど掻き立てられていた創作意欲はどこへ行ってしまったのか、無気力が頭を支配していた。むしろ今は音楽から遠ざかりたかった。花に無心で水をかけているほうが何も考えなくて済む。
『ごめんなさい、』
……ああもう、ほら、気が抜けるとすぐ思い出す。
ため息をついて律は大きく頭を左右に振った。そのまま視線を下に向けると、いつの間にかホースから水がぽたぽたしたり落ちるほど、勢いがなくなっていることに気が付いた。どこかでホースがねじれたか、蛇口からホースが外れてしまったのだろう。律はもう一度ため息をついて、手洗い場に向かう。
手洗い場には人影がひとりいた。蛇口を何度も捻りながら「もーなんで出ないんよ……やばいやばいバイト遅れる」とつぶやいている。手にじょうろを持っているところを見ると、律と同じ委員会の当番の最中のようだった。
「水でないの?」
「あーそうなん、で……ぎゃっ!! あ、あまみやせんぱい……」
後ろから唐突に声をかけたせいか、振り返った茶髪の女子は悲鳴を上げると律からすぐさま距離をとった。若干顔が赤い。
「水やり当番の子?」
「ひゃっ、は、はい」
「あーほんとだ。水出ないね」
試しに律も蛇口をひねるが水は出ない。
「先生に言いに行かないとダメか」
「……ですよね」
「俺があとやっとくから、帰ってもいいよ」
「えっ、それはさすがに……」
茶髪の女子は目を見開いて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「バイトあるんでしょ? 俺、この後も暇だから残りの仕事もやっとく」
「き、聞いてたんですか」
「結構でかい独り言だった」
「……」
「じゃ、バイト頑張れ」
「……あ、あのっ、本当にすいません。ありがとうございます!」
茶髪の女子は律に頭を下げると踵を返した。手を拭くためか、スカートのポケットに手を入れてハンカチを取り出した時、一緒に何かが滑り落ちて地面に落ちる。
スマホだ。落とした本人はまだ気が付いていない。律は「ちょっと待って」と彼女を呼び留め、そのスマホを拾い上げて───固まった。
律のところへ小走りでかけてきた彼女は手を伸ばした。
「す、すいません───ひゃ!?」
そして、スマホを受け取ろうと伸ばした手を唐突に掴まれ、引き寄せられた。目を白黒させて混乱する彼女を他所に、律はそのスマホを食い入るように見たまま動かない。
「雨宮……先輩?」
「……これ」
そう言って律はスマホの画面を彼女の眼前に持っていく。そこに映し出されたのは、スマホのロック画面だ。律が何度も目にした、薄花色と月光のイラストが画面の中にあった。
掴んだ腕をさらに強く握り、律はどうかそうあってくれ、と縋るような気持ちで目の前の少女に問いかけた。
「───きみが『透』?」
「……とおるって?」
現実は創作のようにはいかなかった。
見つめ返してくる無垢な瞳が律の淡い期待を無残にへし折る。燃えた灰のような期待だけ、空しく律の心に残留したまま。
「ごめん。人違いだった」
自分自身を嘲笑うように薄く笑い、律は掴んだその腕を離す。そしてスマホを彼女の手に握らせた。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「勝手に掴んでごめんね。痛くなかった?」
「大丈夫です、よ? 雨宮先輩の方こそ調子悪そうですけど、大丈夫ですか?」
「そっか、ならよかった。俺は平気だから気にしないで」
律の顔色が悪いことを心配した少女が手を伸ばす。それを逃げるようにかわして、律は校舎に向かって一歩踏み出した時、
「あの!」
今度は逆に彼女が律の腕を掴んで引き留めた。無気力に振り返ると、目が合う。彼女は肩を跳ね上げて、掴んだ手を離した。そしてしばらく視線を泳がせた後、意を決したように口を開いた。
「雨宮先輩、このイラストの作者探してるんですか?」
心臓が口から出るのかというほど大きく脈を打っている。
「……知ってるの?」
燃え尽きた期待が、途端に膨れ上がっていく。
「私の友人です。名前は透花って言うんですけど───」
「本当に!?」
「きゃっ、」
律は思わず少女の両肩を掴んで目を見開いた。顔を真っ赤に染めた目の前の少女のことなど、気に掛ける暇もなかった。
「『透』を知ってるの!?」
「顔近っ、え、とあ、あの、『透』は透花のSNSのハンネなんですぅ……!」
「じゃあ、」
今からでも会って……、会って……何を言うんだ?
すんでのところで出しかけた言葉が喉の奥に引っ込んだ。
すでに断られたにも関わらず往生際悪く、なお言葉を重ねて『透』に何を言う?
律の身勝手な理由を『透』に押し付けてしまえば、もう律の曲を聴いてくれることも無くなるかもしれない。それは、それだけは嫌だった。
「……先輩?」
深く息を吐いて、律は『透』の友人の肩から両手を離した。血が上り切った頭に酸素を送り込み、いくらか冷静さを取り戻した。急いていた気持ちが先行しないようぐっと堪えながら、律は『透』の友人に問いかけた。
「名前、教えてくれる?」
「私ですか? 佐都子です。緒方佐都子」
「緒方さん。明日、緒方さんに渡したいものがあるんだ」
「渡したいものですか?」
「そう。それを『透』に渡してほしい」
「まあ渡すだけなら……分かりました」
「ごめん、ありがとう」
律はその日、『Midnight blue』で久々にPCを立ち上げた。まだ歌詞すらのせていない未完成の曲をUSBに取り込む。
ファイル名は『消せない春で染めてくれ.mp3』。
そして、音声データとともに、メッセージを残した。『返事を待ってる』───と。
次の日、律はそのUSBを佐都子に手渡した。
みっともないと笑われても可笑しくないほど、最後の悪あがきだった。
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