9
パチンと、花火のように音が弾けた。
ワンテンポ遅れて、沈み込んでいた意識がぱっと蘇る。
笹原透花は何度か瞬きをした後、目の前で両手を翳している纏を見た。呆れた顔つきで透花の顔を覗き込んでいる。
「また透花どっか行ってたよ」
「……ごめん」
「別にいいけど。最近ずっと心ここにあらず、って感じだね」
「いやーはは、最近寝不足で。面目ない」
笑って誤魔化してみるものの、聡い纏は納得のいっていない様子で「ふーん」とだけ相槌を打った。これ以上痛くもない腹を探られるのは遠慮したかった透花は、仕切り直すように手元にあるテキストを開き直した。
『アリスの家』は本日は休業である。不定期開催の勉強会がアトリエで行われていた。
透花の向かいの席に座る纏は、問題集とノートに目線を落としたまま、平坦な口調で透花へ質問を投げかけてくる。
「何かあった?」
「へ?」
「急に絵、描かなくなったから」
「……んースランプでね」
「うそ」
纏は滑らかにペンを走らせていた手を止め、顔を上げた。その猫のような瞳に見つめられていると、見えるはずのない透花の心までも見透かしているようだった。
「透花はスランプで描かなくなったりしないじゃん。むしろ一心不乱に描き続けるタイプのくせに」
よく分かっていらっしゃる、と透花は苦笑いを嚙み締めた。長い付き合いなだけある。纏からすれば、透花の一挙手一投足など簡単にお見通しなのだろう。
「僕に言えないこと?」
「言えないかなぁ」
「だろうね。透花がスケッチブックに描いてた下絵と関係あるでしょ」
「……目敏いね、纏くん」
「まあね。いつも見てるから、透花のこと」
「こらこら。年上をからかうんじゃありません」
「ちっとも動揺してないくせに。よく言うよ」
通過儀礼のように軽口の応酬を終わらせると、ほんの少し、気詰まりした間が開く。
「───もう、終わったことだから」
その間を切り裂くように透花は呟いた。
終わったこと、正確に言えば透花が終わらせたことだ。もう彼からメッセージが送られてくることは無いだろう。そして透花もまた、彼の曲を描くことはない。透花はメッセージを送ったあの日から、彼の曲に耳を傾けるいち視聴者のうちのひとりになった。
「久々に描くのが楽しい、とかガラにもなく思っちゃった。でも、もうおしまい。……うん、大丈夫だよ。すぐまた元通りいつものわたしに戻るから」
熱に浮かされたような高揚感は、ほんの一瞬だけ透花の罪を忘れさせてくれた。けれど、ひと時の夢でしかない。夢は夢のまま、所詮現実には追い付けない。
にへらと透花が笑うと、険しい顔で纏は握りしめたペンを机に叩きつけた。透花の肩が小さく跳ねる。本当に怒っているときの纏だ。透花は今まで一度だけ纏が激昂している姿を見たことがある。その時と同じ顔つきだった。
「透花のそういうとこ、本当に大っ嫌いだ」
うん、わたしも。透花は心の内でだけ同意する。
わたしもわたしのこういうところ、大嫌いだ。皮肉な限りだけれど、そういう嫌な部分はよく似ていた。彼に。
「つまんないことばっか考えて、悪い方にばっか自己完結して、嫌になったらもう全部終わりにしちゃおうとか、描き続ける価値は自分にはないとか、そういうとこ全部! あいつが───」
「とーーおーーーかーーーーー!!!」
纏が勢いよく立ち上がった反動で転げた椅子の音と、破り倒さんばかりに開いたドアの音が重なった。押しつぶされるような沈黙が2秒ほど続く。唐突な来訪者は焦ったように顔を傾げて頬を掻いた。
「……え? 何この雰囲気。地獄?」
「佐都子」
来訪者の正体は、真新しい紺のブレザーに身を包んだ透花の親友だった。乱れた前髪の様子から、学校からここまで急ぎ駆けてきたことが伺えた。
「どうしたのよ? 喧嘩?」
「あーはは」
透花は気まずさを隠し切れないまま、横眼で纏を確認するが当の本人は不貞腐れたように顎を逸らすだけだった。これはしばらく口は聞いてもらえなさそうだ。透花は早々にこの話題から離れるため、質問を質問で返すことにした。
「佐都子の方こそどうしたの?」
「私? ああ、そうそう! そうなのよ!!」
「え? な、何? 近、近いよ?」
佐都子は机から身を乗り出して、透花の顔にまで急接近してくる。その様子はさながら不祥事を起こした政治家へマイクを突き付ける記者のようだ。今にも食って掛かる勢いで、緒方記者から質問が飛ぶ。
「透花、いつから雨宮先輩と知り合いになったの!?」
「……誰?」
お互いの顔を見やる。
「え?」
「ん?」
「いやいや、雨宮先輩よ?」
「うん、え? 誰?」
「だーかーら、雨宮先輩だってば! この前電話で言ってた!」
「あっ、あー思い出した! あの、密かに人気ある先輩だっけ?」
その人がなんだというのか、と透花は首を傾げた。残念ながら透花の高校は女子高であり、佐都子とは別の高校である。つまり、その雨宮先輩という人物は透花の知人の検索履歴には一件も引っかからないのだ。
「知り合いなんでしょ?」
「全く存じ上げないですけど……」
「ええ? じゃあ人違い? でもなぁ、『透』って言ってたし」
とおる。その単語に透花は耳を疑わずにはいられなかった。言うまでもなく、透花がSNSで使っているハンドルネームだ。
「透花のイラスト見て、急に態度が変わったからさ」
「……わたしの?」
「うん。私のスマホのロック画面にしてるじゃん? それ見て急に、きみが透ですかって、」
そんなはずはない。しかし、透花の頭にはただひとりだけ当てはまる人物がちらついている。
「その人は」
「ん?」
強い意志が揺さぶられるほど大きな衝動だった。佐都子の言葉を遮って、透花は問う。心臓が痛いほど脈を打っている。
「その人はなんて?」
「このUSBを渡してくれって、頼まれたんだけど」
佐都子はスカートのポケットからUSBを取り出し、透花の前に差し出した。透花は無意識に手を伸ばしていた。手のひらに乗せられたUSBをじっと見て、それを確認するように透花は握り閉める。
確たる証拠は、ない。しかし、透花はどこか確信していた。彼からの最後の悪あがきであると。
「っ、纏くん!」
透花は固く握った手のひらを胸に置いて、振り返る。纏が怪訝な顔で片眉をぴくりとあげた。
「事務所のパソコン貸して!」
「……いいけど、」
纏の言葉は最後まで聞き取れなかった。否、聞く余裕は透花になかった。期待だけが透花の胸を熱くさせていた。それは、あの日、中学の卒業式を終えた透花が電車の中で初めて彼の音楽を聴いた時のように。
駆けだした足はもう、止まらない。
立ち上げたPCにUSBを差し込んだ。
USBに保存されていたのはmp3ファイルとテキストデータのふたつだった。mp3ファイルのタイトルは『消せない春で染めてくれ.mp3』。透花は直感した。彼の新しい曲だ。彼が透花に描いてほしいと言ってくれた、その証明。最後の悪あがき。
そのファイルをクリックする。
数秒のタイムラグの後、機械音の平坦だけれど少し震えるハミング音とまだ青さの残る音が合わさって奏でられていく。
───ああ。
すべてを聴き終えた透花は、静かに息を吐く。いつの間にか、マウスを握る手に力が入っている。大きく穴が開いていたはずの透花の心の隙間は、たった4分にも満たない音楽でいとも簡単に掌握されていた。
「……ずるい」
透花の口から彼への悪態が漏れる。
ずるいよ、こんなの。こんな音楽を聴かされたら、もう、どうしようもない。
あれほど頑なだったはずの透花の決心はすでに絆されていた。
残るデータは、テキストデータのみ。そのデータを開くと、ただ一言『返事を待ってる』とだけ書かれていた。本当に彼はずるい。こんなものを聴かされた透花になお、選択権を委ねているのだから。
ポケットからスマホを取り出して、SNSのアカウントを表示する。
『ごめんなさい、』で終わっていたはずのやり取りの続きを、透花は打ち始めた。
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