番外編

番外編1 〜斉藤慶太について〜

 振り上げられる拳を見るのと同時に、頬に受ける痛みをあらかじめ予想してしまう。

 そんな子供時代だった。


「ほらほら、こぼすんじゃねぇぞー?」

 ぎゃはははは、と下卑た嘲笑が周囲を取り囲む。

 先程尻に突っ込まれた浣腸のせいで、慶太は強烈な便意と戦っていた。内臓のよじれるような痛みに、顔じゅうに脂汗が吹き出してくる。

「斉トンくんのダイエットチャンネル第28回、宿便解消〜」

 体育館の横の古いトイレで、斉藤は四つん這いになっていた。屋内にバリアフリーの新しいトイレが新設されたため、こちらが利用されることは滅多にない。運動会などの、たまのイベントに使われるだけだ。一部の無慈悲な生徒たちが哀れな被虐者をいたぶるには、格好の場所だった。

「うお!出た出た!」

「やっべぇ、きったねえーーー!!」

 盛大な排泄音と共に、慶太は痛みから解放された。泣いているせいで鼻がつまり、鼻水が喉に降りてきて、慶太はげろげろとむせた。

くっせえ!」

「いらんねーわ、マジで」

「ちゃんと掃除しとけよ、ブタ」

 笑い声が遠ざかっていく。一人残された慶太は、しばらく床にうずくまっていたが、やがてのろのろと起き上がって後始末を始めた。

 その頃、慶太は肥っていた。それが理由かどうかは不明だが、とにかく小学生の頃からよくいじられていた。慶太には、それを逆手に取っておどけてみせる才覚もなければ、真っ向から抗議する気概もなかった。終始、卑屈な笑いを浮かべてやりすごしていた。

 中学に入るとそれはエスカレートした。知恵と道具ツールを手に入れた加虐者たちは、携帯カメラと暴力を使って慶太を追い込んでいった。「ダイエット動画」と称して、夜の河川敷を自転車に縛り付けて走らせたり、ボクササイズとは名ばかりで一方的に殴りつけたりした。それは授業中にも及び、体育の時間などはボールを投げつけられながら走り回らされた。担任の新任教師は見て見ぬ振りをしたし、まして親など最初からあてにはならなかった。

 慶太はトイレの床を水で流し、すっかり暗くなってから家に帰った。明かりがついていないことにほっとして中に入る。

 母親は大抵、恋人の男と一緒にいる。仕事に出たまま飲み歩き、男の家に行って帰ってこないこともある。たまに帰宅するときは男も一緒で、そいつはいつも気まぐれに慶太を殴った。タバコがない、コップが汚い、酒がない、うるさい、目障りだ――反論する余地などない。黙ってうずくまり、嵐が過ぎるのを待つ。家を飛び出したところで、金も行くあてもないのだ。十三歳の少年には、帰る家が必要だった。

 暗い部屋で、大量に買い置きしてある菓子パンやスナック菓子をかじりながら、慶太はひたすら動画を漁った。自分の動画が上げられていないかチェックして、それから自分よりひどい目に遭っている人や動物の動画を探す。そういう動画はいくらでも見ていられた。いくら食べても満腹にならない、ジャンクな味付けのスナック菓子と同じだった。食べ慣れてしまえば、もっと濃い味を求める――。

 転機は唐突に訪れた。

「ねえ、うるさいんだけど」

 いつものように慶太の席を囲んで冷やかす生徒たちに向かってそう言い放ったのは、後ろの席の笠井だった。

 二年のクラス替えで一緒のクラスになった笠井は、暇さえあれば携帯ゲームをしていた。

「なんだよ笠井、文句あんのか?」

「静かにしてよ。今、自習でしょ?」

 笠井は携帯画面から目を上げずに言った。

「そういうてめーはゲームしてんじゃね―か」

「俺は誰にも迷惑かけてないし」

「てめえ、そんな口きいていいのか?」

「あんたこそいいの?やりあって後悔するのはそっちだと思うけど」

 笠井はようやく携帯の画面から目を上げ、意味ありげに笑った。

 どういう切り札カードを持っていたのか、確かに笠井に手を出す者はいなかった。

「面白そうじゃん、その動画」

 ある日、笠井が慶太に話しかけてきた。慶太が見ていた動画に興味を持ったらしい。

「これ、シリーズ物でさ、こっちも面白いんだ」

 慶太は得意になって説明を始めた。笠井は「へえー」とか「ウケる」とか言って、慶太の紹介する動画を楽しんでいた。

 趣味の合う友だちができると、こんなにも毎日が楽しいのかと、慶太は感動した。そして、笠井と一緒にいると、不思議といじめがやんだ。

 ある日、いつものように慶太が新しく見つけた動画を笠井に見せていると、笠井がぽつりと言った。

「ねえ慶太、動画はもういいや」

「……え?」

「俺さあ、ちょっと見つけちゃったんだよね、コレ」

「えっ、何……?」

 笠井が見せてきた動画に、慶太は凍りついた。

「これ、慶太でしょ」

「……っ」

「こんなんされてさあ、平気なの?」

「……平気なわけないだろ……でも、どうしようもないだろ」

「ふーん」

「じゃあどうしろって言うんだよ!?」

 慶太は苛立って言った。金持ちの家に生まれ、成績もよく、いじめられたことなんてない人間に、反撃しないほうが悪いなどと簡単に言われたくなかった。だが笠井は、今まで聞いたこともないような冷たい声で呟いた。

「俺ならこいつら全員、地獄に落としてやるけどなぁ……」

「え……?」

 慶太は笠井の言葉の意図が分からずに聞き返した。

「なあ慶太。動画見てるよりさあ、もっと楽しいこと、しようぜ」

 そして笠井はまた、あの意味ありげな笑みを浮かべた。


 *


 それは本当に、ただの気まぐれだった。

「月原ちゃーん、お前だよ!お前、男同士で手つなぐ趣味とかあるんだ?」

 いや、実は心の底では計算もあった。

 高校の入学式。ここでナメられたらヤバい。誰が強者で誰が弱者か、はっきりさせておく必要があるのだ。

「なになに?もしかして、あれ?LGナントカってやつ?」

 笠井が乗ってきた。それで慶太は勢いづいた。

「カマっぽい顔してんもんなあ、月原ちゃーん」

 その見るからにひ弱そうな月原という生徒は、反論することもなくうつむき、黙って帰り支度を始めた。

 あ、いける。と慶太は思った。

(こいつはあの頃の俺だ)

 からかわれて抗議することも、笑い飛ばすこともできない、「弱者」。怯えて眼を合わせようともしないその態度は、見ているだけで苛々した。

 あの頃の俺と同じ目に遭わせてやる。

 絶望と屈辱で、立っていることすら苦しい場所に、落としてやる。

 そして予想通り、ひと気のない神社に呼び出した月原は、面白いほど非力だった。逃げ惑う月原を追い詰めるのは、ウサギ小屋のウサギを捕まえるよりも容易だった。

「やめろ!いやだってば!!」

 全力で暴れる月原を押さえつけ、動画を撮って脅す。

 月原をいたぶればいたぶるほど、慶太の苛立ちは募った。反撃できずに涙を浮かべている月原は、あの頃の自分そのものだ。

(そんな眼で見たって、何も変わらねえんだよ)

 心の中であの頃の自分自身に毒づく。「追う側」になって初めて気付く真実。

(俺は強くなったんだよ。俺は変わったんだ――)


 中学で、笠井は慶太を「改造」した。

 慶太は笠井の勧める動画を見ながら筋トレをし、ケンカの仕方を覚えた。夜の繁華街をうろついて、絡まれたらやり返すことを繰り返し、実戦経験を積んだ。元々、母親の恋人からの暴力に慣れていた慶太は、恐ろしく打たれ強かった。最初は負けてばかりだったが、相手を一発殴ってからはすべてが変わった。暴力の使い方を覚えた頃には、慶太の身体は成長期を終え、身長が伸びて脂肪は筋肉に置き換わっていた。

(俺は変わったんだよ)

 強くなるために努力した。そして力を手に入れた。もうあの頃の情けない自分とは違う――。

 なのに。

(なんで月原こいつは、許されるんだ?弱いままで、強くなる努力もしないで)

 簡単に体育を休ませる教師。月原をちやほやするクラスメイト。そして――来栖未来。

(なんでそんな奴を守る?)

 成績がいいからか。身体が弱いからか。

 ――なぜ自分は、誰にも守ってもらえなかったのか。


「月原……めちゃくちゃに壊してやりてぇ――」

 慶太の奥深くで内臓が疼く。

 あの日刻みつけられた屈辱を、お前も味わえばいい――。

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