第25話 虹色の鼓動。
市営のスポーツセンターの広い体育館に、熱気が充満している。
「うわ、すごい人だあ!」
ギャラリー席からコートを見下ろして、なつこはあんぐりと口を開けた。
「えっと、
柚木が指差した方へ進んでいくと、先に来ていた高橋が「こっちこっち」と手招いた。
「お!矢口、ベンチ入りしてんじゃん」
「今回スタメンらしいよ」
「やるねぇ、元生徒会長」
六月、インターハイ予選大会が行われていた。
矢口は年末の暴力事件に関わったことで、春の生徒会選挙は辞退した。代わりに、何かを忘れたいかのように黙々と部活に励んだ。
「瀬古も来れるの?」
「あいつは今日模試だよ。終わったら来るってさ」
瀬古が試験会場を出ると、雨上がりの空に虹がかかっていた。
「よっ。どうだった?」
唐突に背中を叩かれて振り向くと、笠井がいた。
「B判定はいけるかなぁ。笠井くんは?」
「俺はCかなー。あ、言っとくけど、お前とは志望校のレベルが
「そっか、医学部……」
瀬古は、笠井の家が代々続く医者家系だったことを思い出した。
「俺みたいなクズを医者にしようなんて、うちの親も大概狂ってるよな」
「僕、絶対笠井くんの病院には行かない……」
「はっはっは!そうしとけ!」
笠井はバンバンと瀬古の背中を叩いた。
ケータは傷害事件の後、学校を去った。ケータに刺された笠井は、退院後しばらく誰とも口を利かなかった。ケータがいなくなってしまうと、特に親しい友人も残らなかった。笠井の方でも、ケータの後ろを追いかけていたような輩には特段興味がなかった。
三年になったある日、笠井は突然瀬古に声を掛けた。「なっ、なんで僕……?」と、始めは警戒していた瀬古だったが、勉強や受験などの何気ない会話をしているうちに、なんとなく打ち解けるようになった。それでもやはり瀬古にはなぜ笠井が自分に話しかけてくるのか謎だったし、笠井に対するぎこちない態度もいつまでも変わらないのだった。
「この後どーすんの?帰んの?」
笠井は大して興味もなさそうに訊いた。
「スポーツセンターにバスケ見に行く約束してるんだ」
「ああ、矢口が出てんだっけー?」
「そうなんだ。一緒に行く?」
「ハハッ!誰が行くかよ」
そう言って笠井は、瀬古を追い越して雑踏に消えていった。
「Hey, 何観てるの?ユウ」
「ああ、友だちが動画送ってきたんだ。今、試合中らしい」
「バスケットボールね。ユウの友だちが出てるの?」
「うん、11番の彼。高校のクラスメイトなんだ」
「いい動きしてるわね。……あら、ユウ。手袋なんてして、冬でもないのに」
「冷え性なんだよ、僕」
「ユウはもっと肉を食べなきゃダメ。いつも言ってるでしょ?」
「はいはい」
「じゃあ、あたしは先に寝るわね。ユウも早めに寝るのよ?夜ふかしは美容に悪いわ」
「はいはい」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
悠は携帯を持ってベランダに出た。乾いた夜の空気の中、スマートフォンの画面だけが煌々と光っている。その小さな四角い画面から、むせかえるような湿度と熱気が溢れ出してくる。
「あれから半年……か」
悠はそっと胸に手を当てた。
あの日、長い眠りから目覚めた悠は、ベッドの横の椅子に誰かが座っているのを見た。
つい、クルス、と声を掛けそうになって、別人であることに気付く。
「悠」
「母さん……」
窓から差し込む冬の日差しの中で悠を見守っていたのは、母親だった。
「母さん……ごめん、連絡しなくて……僕」
そこまで言って、悠は母親が泣いていることに気付いた。
「母さん……?」
悠は周りを見回した。大仰な医療機器がベッドを囲んでいる。
病室には高橋もいた。
「月原くん」
「高橋さん、どうして」
制服姿の高橋は、泣き腫らした顔をしていた。
悠は、はっと思い出した。
「ねえ、クルスは?無事だったの?」
高橋は無言で首を振った。
「怪我でもしてるの?」
「月原くん……」
「まさか、クルスも入院――」
「クルスくん、今日――火葬だったの」
「えっ……?」
高橋の言った言葉の意味がわからず、悠は聞き返した。
「火葬……?って、誰の……」
「クルスくん、バイクの事故で、亡くなったの」
悠は、世界中の一切の音が消えた気がした。
「……うそだ……」
そう言いながらも、高橋がそんな冗談を言うわけがない、と思っている自分がいる。
「うそだ……なんの冗談だよ」
クルスが死んだなんて。
もう逢えないなんて。
「火葬……だって?」
悠は起き上がろうとした。
「痛っ――!」
「起き上がっちゃだめよ!まだ手術したばかりなんだから!」
母親が悠に抱きついて止めた。が、そんなことをするまでもなく、悠は激痛で起き上がることなどできなかった。
「うそだ、クルス、うそだよ、そんなの……そんなの信じられるかよ!クルスに会わせてよ!」
叫ぶたび、胸を強烈な痛みが襲う。それが一層、悠を興奮させた。
「月原くん、無理なの。今日が火葬だったのよ。朝の十時半から」
「なんで、焼いたんだよ?僕はまだクルスに会ってないのに!」
看護師が駆けつけてきた。機器の数値を確認し、悠の腕に繋がった点滴に何かを注入する。
「……死んだって……?」
悠は呆然と病室を見回し、ようやく時計を見つけた。四時十二分。
高橋がぼろぼろと泣いている。
「…………焼いたって…………?」
あの金髪も瞳もやわらかい唇も、しっとりとあたたかい肌も、きれいな筋肉のついた背中も骨ばった大きな手も。
もうこの世界のどこにも存在しないなんて。
すべて灰になってしまったなんて。
「そんな……僕はクルスを見ても、触ってもいないのに……!」
悠は両手を顔の前に掲げた。
この手を。
「……繋いでいてくれるんじゃなかったのか……クルス……」
それからまた悠は眠りに落ち、その後数日、ぼんやりした目覚めと眠りを行き来した。抜け殻のような思考の中で、(うそだ……うそだ……)と繰り返していた。
何日が経っただろう。
繋がれていたチューブがひとつずつ減っていき、悠は一般病棟に移された。悠はようやく、少しだけ頭がすっきりしているのを感じた。
その日、悠の病室を仲村が見舞った。
心臓移植の話を聞いたのは、その時だった。
「……クルスの心臓が、僕に……?」
「そう。あいつが生前、ドナーカードに書いてたんだ。もしもん時は君に心臓提供するってな。おかげで、病院には色々無理を通してもらったが」
「……バカだな……提供先を指名なんて、できないのに」
「ああ、あいつは大バカだよ。バイクで事故って死ぬなんざ、素人のやることだ」
「……言ってることがおかしいです、仲村さん」
「あ、そうだ。これ」
仲村が思い出したように、小ぶりの紙袋を出して悠に渡した。取っ手には小さなリボンがついている。
「え?」
「家に置いてあった。クリスマスプレゼントのつもりだったのかな」
カードにはたった一言。
『悠へ』
「……バカ……クリスマスなんて、もうとっくに過ぎてるよ……」
――うるせえよ。去年のお前のプレゼントも、とっくに過ぎてたじゃねえか。
そう、聞こえた気がした。
*
時差十六時間。試合は深夜0時半――日本時間の午後四時半に終了した。
『やった!勝ったよ!準決勝!』
『明日が決勝だって!』
画面の向こうから興奮した声が届く。
「やったね。僕はもう寝るけど」
『月原くん、そっちはどう?』
「梅雨がなくて快適。勉強も楽しいよ。何かっていうといちいちディスカッション始めるから、めんどくさいけど」
『めんどくさがってる月原が目に浮かぶわー』
私立橘高等学校には、交換留学制度がある。留学先で優秀な成績を収めると、州立大学への入試受験資格を得られる。
留学先で、悠は充実した日々を送っていた。様々な人種、様々な信仰、様々なセクシャリティ……多様性の見本市のような社会では、自分がどう思われているかなど気にしている暇などない。事あるごとに「What do you think?」と聞かれ、自分なりの考えを求められる。それが相手の意見と違っていても、否定されることもないし、まして孤立することなどない。そういう関係性は、悠にとって新鮮な驚きで、魅力も感じていた。
『夏休みは帰ってくるんでしょ?』
『聞いてよ〜!悠くんいないから、なつこのテストがボロボロなんだよ〜』
「ははは。わかったわかった」
悠は通話を切った。
「夏休み……か。初めて海に行ったのは、二年前だったな……」
十七年間、どこにも出かけられなかった悠に、クルスが海を見せてくれた。学校へ連れて行ってくれた。
悠は、クルスにもらった手袋をはめた手を、星空にかざした。
「君にもらった心臓と一緒に、僕はどこまででも行くよ。今まで行きたかったところ、全部行ってやる。だから、おじいちゃんになるまで僕を守ってよね」
あまねく生命の輝きに彩られたこの世界で。
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