第23話 雪――紅。

 その日、県内は一日中、雪の予報だった。

 音もなく降り続ける雪の中を、真っ赤なバイクが疾走していく。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 矢口翔馬は、荒い呼吸と共にスタンガンを握りしめていた。

「矢口……てめぇ……」

 一度は床に転がったケータだったが、よろよろと立ち上がろうとしている。

「うわあああっ!」

 矢口は恐怖の叫びを上げて、再びスタンガンをケータに押し付けた。

「ぎゃあ!」

 ケータは再び床に倒れると、次は起き上がらなかった。

 矢口はぐったりと横たわった悠に駆け寄った。

「月原……月原、ごめん」

 震える手で、矢口は悠に服を着せようとした。なんとかズボンまで履かせたところで、廊下を誰かが駆けてくる音が聞こえた。

 朝一番の電車で地元に帰った戸田雅也は、まっすぐに母校へ向かった。元生徒会長は、校内のことは旧校舎の隅々まで知り尽くしていた。だが理科準備室のドアを開けた時、想像以上の惨状に、さすがの戸田も一瞬(もっと早く来るべきだった)と後悔した。

「笠井!笠井っ!」

「う……」

 戸田の呼びかけに、笠井は呻いた。腹にはナイフが刺さったままだ。

「生きてたか。動くなよ。今、救急車呼ぶから」

「きゃ……!」

 遅れて駆けつけた庄司が、笠井を見て小さな悲鳴を上げた。

「庄司、救急車呼んで」

「はい!」

 部屋の奥では、悠とケータが横たわり、すぐそばに座り込んだ矢口ががたがたと震えている。

「あ……戸田さん……月原が、月原が……」

「それ使ったの?」

 戸田は矢口が手にしたスタンガンを指して訊いた。落ちていたコートを拾い上げ、手早く悠に着せかける。

「ケータが、月原を、……っ、スタンガンそれで動けなくして、なんか、服、脱がせてて……だから、俺」

「斉藤に使ったわけか」

 矢口はこくんと頷いた。

「やばい……戸田さん、月原、息、してない」

 矢口が悠の異変に気付いた。が、悠はすぐに呼吸を再開した。しかし、またしばらくすると呼吸が止まる。

「危険だな」

 戸田は深刻な顔で呟いた。

 間もなく救急車が到着し、悠と笠井を乗せて病院へと向かった。付き添いには戸田がついた。

「月原に用がある。受け入れ病院が決まったら連絡する」

「わかりました」

 残った庄司は、ちょうど救急車と入れ違いで登校してきた当直の教師に、これまでの状況を説明し、警察を呼んでケータを引き渡した。

 ノートパソコンは、戸田の指示で矢口が密かに生徒会室に戻した。その際、戸田は「余計な揉め事は避けてくれ」と矢口に囁いていった。

 間もなく庄司も病院へ向かってしまったので、警察の事情聴取には矢口が対応する羽目になった。戸田の言う「余計な揉め事」がノートパソコンに象徴されるのであれば、昨夜悠が作っていた「何か」には触れるべきではない――と、矢口は口を噤んだ。結果、ケータと笠井、月原の仲違いの末の暴行、という形に一応は収まった。

 救急車の中で、悠は意識を取り戻した。

「戸田さん……来てくれたんだ……」

 悠は浅い呼吸の下から言った。

 戸田はにっこりと微笑むと、悠の耳元に口を寄せて囁いた。

「安心しろ。君のアタックは、止めたよ。被害は起きない」

「さすが……どうやったんですか?」

「以前、生徒会のシステム組んだ時に、ついでに学校の端末全部に裏口バックドアつけといたんだよ。そこから学校のPCに侵入して起動させて、プログラムが動作する前にウィルスメールごと消しといた。おかげで徹夜だ」

「……自分のシステムに自分で穴あけるなんて、どういう神経ですか……」

「俺は基本的に誰のことも信用してないからね。他人に全て委ねてしまうのが怖いだけさ。実際、今回は役に立ったじゃないか」

「でも……だったら僕のプログラムも、作ってる時点で妨害できましたよね?」

「うん。でも君が作ってるって分かってたから、何か事情があるんだろうと思って。何より、君の作品を見てみたかったんだよね」

「……戸田さん……変態、ですね……」

 悠は弱々しい笑みを浮かべた。

「褒め言葉として受け取っておこうかな」

 患者に無理をさせないように、と救急隊員が言った。

「戸田さ……クル……スは……?」

「あっちにも警察が行ってる。大丈夫だ」

 目を開けているのに視界が暗くなっていって、悠は昨日から何度目かの死を意識した。

「クルス……クルスに……」

 もう自分が何を言っているのかわからなかった。

 悠がひたすらクルス、クルスと繰り返すので、戸田はつい、

「大丈夫、彼もこっちに向かってるよ」

と言ってしまった。聞こえたのか聞こえなかったのか、悠はそのまま眠りに落ちた。

 悠と笠井は日赤病院に運び込まれた。奇しくも佐野原らにリンチを受けたタローが入院している病院と同じだった。

 笠井はすぐに手術室に運ばれ、悠は集中治療室に運び込まれた。

 戸田は病院からクルスに電話をかけたが、繋がらなかったので、カイにかけた。

『今、警察です。アンさんも一緒です』

「クルスは?」

『クルスさん、月原さん助けに学校に向かったって、アンさんが言ってましたけど……会いませんでした?』

「いや、会ってない」

 戸田は電話を切って考え込んだ。

「すれ違った……?」

 だが、だとしたらなぜクルスは電話に出ないのだろうか。


 警察の事情聴取の合間に、アンはモモに短いメッセージを送った。「佐野原たちが警察に連行されて、全部終わったよ」それから、「タローのところへ行ってやって。俺もこっちが片付いたら、すぐ向かう」というものだ。

 モモとセーラは病院へ向かった。

 雪はまだ降り続いていた。


 戸田から連絡を受けた月原恵が病院に着いた時、ちょうど救急車がサイレンを鳴らして入ってきたところだった。

 院内に入り、総合案内で聞いた通りに救急病棟へ向かうと、廊下の向こうからストレッチャーが運ばれてきた。恵は一瞬どきっとしたが、「バイク事故です、全身打撲、両腕骨折、頭部損傷、右大腿部裂傷……」という声が聞こえて(違う、悠じゃない)と、廊下を曲がった。視界の端に、ちらりと金色が見えた気がした。


 悠がうっすらと眼を開けると、白い天井が見えた。

 幼い頃から見慣れた、白い風景。馴染み深い病院の匂い。顔には酸素吸入のマスクが取り付けられているらしい。身体が信じられないほど重く、指先ひとつ動かせない。

(そうか……僕、そろそろ死ぬのかな)

 ぼんやりと思う。

 視界の端を医師や看護師のような人々が行き来するのが見える。

 知っている人は、誰もいないのだろうか。母親はどうしているだろう。

 そもそも昨日、携帯を笠井に奪われたままだった。笠井は母親に何か言ったのだろうか。

 そこまで考えて、悠は思い出した。そういえば笠井はナイフで刺されていた。

(そういえば僕も、ナイフで切られたんだった……浅かったけど)

 記憶が入り混じり、時系列が混乱している。

 悠!というクルスの声が蘇った。

「クルス……」

 そうだ。

 クルスはどこだろう。

 あの店から無事に逃げられたのだろうか。

 だとしたら、きっと来てくれる。

 悠に、逢いに。絶対に。

 クルスは来てくれる。

 そう思うと、心細さが少し和らいだ。

「クルス、遅い……な……」

 酸素マスクの中で、悠は呟いた。

 クルスが来てくれたら、きっとすごく嬉しい。だってほら、あの金髪を思い浮かべるだけで、ちょっと幸せな気持ちになるんだ。

 早く来て。

 そして僕の手を握っていて。何も怖くないように。

「看取ってくれるって……約束……したのに……な……」

 早く来てくれないと、また眠くなってしまう。


 *


 雪道の運転は何度か経験があったし、たとえミスっても怪我をするような下手な転び方なんてしない。

 クルスは店のスクリーンに映されていた映像の場所――あの背景に見えた安っぽい薄緑のカーテンは、旧校舎のそれだ――へとバイクを走らせた。

「あいつ……許さねぇ……!」

 ケータへの怒りが沸騰する。

 悠に触れるな。俺の悠をその汚い眼で見るな。

 俺の大事な大事な悠を、傷つけるな。

「悠……無事でいろよ――!」

 その時、ひときわ強い風が雪を巻き上げて顔面に吹き付けてきた。反射的に細めた眼を開いた時、目の前を何かが横切った。

(母……さん……?)

 なぜそう思ったのか分からなかった。だがひらりと前を横切って消えた姿に、見覚えがあるような気がした。それも、病室で見た痩せた女ではない、幼い頃の記憶の中の母親。

 はっと気付くと、目の前にガードレールが迫っていた。咄嗟にハンドルを切った。

「――――!!」

 一瞬のことだった。

 バイクは雪の下で凍った路面でスリップし、横転した。

 横倒しのまま更に十数メートル回転していくバイクから、クルスの身体が勢いよく放り出された。

 クルスは仰臥して空を見ていた。

 ヘルメットの透明なシールドに、雪がひらひらと落ちてくる。

(スノードームみたいだな……)

 クルスはぼんやりと思った。

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