第21話 落下するクリムゾン。

 ポーン、とインターホンが鳴ったので、セーラは恐る恐るモニターをのぞいた。マンションのエントランスには、セーラが思いもかけない人物が立っていた。

「あー、茅野かやの?あたし、城南中学で一緒だった日野桃夏だけど。クルスに言われて来たんだけど、開けてくれる?」

 玄関のドアを開けたモモは、にかっと笑って、「よっ」と敬礼した。

「久しぶり。覚えてる?」

「……うん」

 そう答えたものの、実際セーラとモモは当時あまり接点はなかった。モモは野球部のマネージャーで真っ黒に日焼けして走り回っていたし、セーラは吹奏楽部でフルートを吹いていた。性格も正反対で、クラスも一緒になったことがない。ただ一点、セーラの彼氏のクルスと、モモの彼氏のアンが幼馴染だったので、二、三度顔を合わせたことがある程度だ。

「おじゃましまーす!って、クルスは留守か」

 モモは靴を脱いで部屋に上がると、リビングのソファにどさっとリュックを下ろした。

「茅野、ゴハン食べたー?」

 モモはリュックを開けながら言った。

「……ううん」

「マジ!?あたしもー!めっちゃおなか空いてんだけど!うちの店の残り物、いっぱい持ってきちゃった!一緒に食べよう?」

 モモのリュックの中からは、餃子や焼売や炒飯のパックが次々と出てくる。

「うわ、店長、煮玉子も入れてくれたんだー!てか煮玉子10個とか、フードファイトかっつの!まあ冷蔵庫入れとけば、クルス帰ってきたら食べるよね」

 そんなことをまくし立てながら、モモは台所に立って、餃子を温めたり煮玉子を冷蔵庫に入れたりしている。セーラはそんなモモを呆気にとられて眺めていた。

「ほい、できた。食べよ!」

 あっという間に、テーブルの上に食事が並んだ。モモの勢いに押されて、セーラものろのろと席についた。

「いただきまーす!」

「……いただきます……」

「ん!んまーい!あ、茅野さ、駅前のめんめん知ってる?あたし、高校、定時制行っててさ。昼間はあそこでバイトしてんだよー。だからこれ、全部めんめんのだからさ。味は保証するよ!」

「……そうなんだ」

 そう言って、セーラは炒飯をひと口食べた。

「どうよ!?」

「……おいしい……」

 温かい炒飯の味が口いっぱいに広がって、咀嚼して飲み込むと胃がふわっと温かくなる。

「……っ」

 セーラの瞳から、涙が零れ落ちた。

 モモはその涙について言及せず、ただ手を伸ばして、テーブル越しにセーラの頭をぽんぽんと撫でた。

 しばらくしてセーラの涙も落ち着き、テーブルの上の食事もあらかた片付くと、モモがセーラをしみじみと眺めて言った。

「てかさあ茅野、すごいかわいくなったね。中学んときもかわいかったけどさあ。なんか手とかもめっちゃキレーじゃん」

「……そうかな?」

「見てよ、あたしの手なんか真っ黒でガッサガサだよ」

 モモは洗剤で荒れた自分の手を、セーラの細くて白い手の横に置いた。

「うわ、もはや違う人種みたい」

「……あたしなんて、全然きれいなんかじゃないよ……」

 セーラは手を引っ込めた。

「……クルスから、聞いてるんでしょ?」

「いや?なんか茅野が男に絡まれてるのをたまたま助けて、今マンションにいるから、ついててやってくれないかって言われただけ」

「そう……なんだ」

「あんま落ち込むなって。茅野はかわいいから苦労も多いだろうけどさ」

「そんなこと、ないよ……」

 セーラは屈託のないモモの笑顔を眩しく眺めた。

(今からでも、やり直せるのかな……)

 佐野原たちと縁を切って、後ろ暗いことなどなく、誰かに怯えることもなく、日の当たる場所を歩けるようになれるのだろうか。

「あたしも……バイト、しようかな」

「マジ?うち来るなら店長に紹介するよ!」

「考えとく」

 セーラはようやく少しだけ笑顔になった。

 その時、モモの携帯が鳴った。

「あれ、カイだ。……もしもしー?」

『モモさん!大変だ……!タローがケガした!』

「……えっ……?」

 モモの顔色が変わった。

『今、救急で病院来たとこで。駅のそばの日赤にっせきっす』

「なんで……事故?」

 驚きと心配で声が震える。

『いや、それが……なんか大人数で一方的にボコられたみたいで。意識はあるんすけど、骨折とかしてて……今モモさんどこっすか?』

「クルスんちだよ。あたしもすぐそっちに――」

『いや、モモさんはそこ動かないほうがいいかも。実は……』

 カイが電話の向こうで一瞬、ためらった。

「何よ!?」

『あの……実はタローが、アンさんが拉致られたって言ってて』

「え!?京ちゃんが!?」

『タローと一緒にいたわけじゃないらしいんす……その、タローをボコりながら、遠隔でアンさんを脅したっぽくて。じゃなきゃアンさんが簡単に連れてかれるワケないっすよ』

「そんな……」

『タローめっちゃそのこと気にしてて。「アンさんすいません」って、そればっか言ってて……んで、アンさんの彼女のモモさんも狙われてるかも、って。クルスさん、今そこにいます?さっきから連絡してんすけど、出てくんなくて』

「クルスはここにはいないけど……」

 そこまで言って、モモははっとしてセーラを見た。

「茅野……クルスは……?」

 セーラは青い顔でモモを見つめていた。

 モモは直感した。(この娘、何か知ってる……)

「クルスは?クルスはどこにいんの!?茅野ぉ!!」


 そこは旧校舎の中でも、理科か何かの準備室のようだった。教室よりも狭く、壁際に並んだ棚には様々な教材が押し込まれている。

「よぉ、月原。なかなかそそ格好カッコしてんじゃん」

 部屋に入ってきたケータは、椅子に拘束されている悠を舐め回すように見た。ケータの後ろには矢口もいる。矢口は、悠の方を見ない。

「撮ってるか?」

 ケータが笠井に訊く。

「ああ」

「おいクルス、見てるかあ!?」

 ケータはノートパソコンのモニターをのぞき込んだ。画面の向こうで、クルスが呻いた。

『悠……』

「クルス!」

 思わず悠は叫んだ。が、途端にケータに頬を殴られた。

『悠!』

「勝手に喋ってんじゃねぇよ。お前はただのオモチャなんだからよぉ」

 ケータは悠の前にしゃがみ込んで、ナイフを取り出した。

「さぁて、と。クルス、なんて彫ってほしい?」

 ケータはちろりと唇の端を舐め、ナイフの先で悠の破れたシャツをめくった。むき出しの胸から腹にかけて、つうっとナイフの刃を滑らせる。

「――っ……」

 悠は恐怖と嫌悪感で身を強張らせた。

『ケータ!やめろ!クソ!』

 ぷつ、と冷たいナイフの先端が白い皮膚を破った。

「……っく!」

 殴られるのともスタンガンのそれとも違う、金属に抉られる感触に、悠は思わず声を上げた。ケータが耳障りな声で愉しそうに嗤った。そのままぎりぎりとナイフの刃を横に引く。

「い――――……っ」

 切られたのは皮膚一枚で、それもほんの数センチだったが、気付くと悠は涙を浮かべ、びっしょりと汗をかいていた。

「ひゃーっはっはっは!いい表情かおじゃーん!」

『この……ゲスが……!』

 クルスは怒りと無力感に震えた。

『は!すっげぇ。あいつ、変態だなァ』

 佐野原が言った。

『で?クルスよォー。そろそろ詫び、入れる気になった?』

 佐野原はクルスの金髪を掴み上げて言った。クルスは佐野原を睨み返した。

『……ケータあいつをどーにかしろよ。詫び入れたところで、どうせてめえは俺を許す気なんかねぇんだろ?これ以上悠を痛めつけたって、何も変わんねえだろが』

『あ゛ー?まあ、その通りだけどもよォ――」

 どかっ、と佐野原はクルスの腹を蹴り上げた。

『ぐっ……は!』

『てめーが泣き喚くとこが見てえんだよ、俺はよォー。立場わかれや、クソがァ!』

 佐野原が何度もクルスを蹴り上げ、踏みつける。

「やめろよ!」

 悠が叫んだ。

「あんた、僕にやってほしいことがあるんだろ?やってやるよ。ただし、クルスを開放してくれるならだ」

『てめぇ、自分が誰に向かってモノ言ってっか、わかってんのか?お坊ちゃんよォ!』

 画面越しに佐野原が凄んだ。

 悠は、彼が画面の向こうにいてくれるのは救いかもしれない、と思った。クルスも身長は高い方なのに、それよりも更に上背も厚みもあるこの男に目の前で凄まれたら、自分は何も言い返せなかっただろう。

「わかってるよ」

 悠は努めて冷静に言った。

「僕とクルスはお互いを人質に取られて、抵抗できない。でもあんたは、クルスのことは憎いだろうけど、僕には金になるデータ盗ませたいんだろ?あんたがクルスを開放してくれたら、僕はあんたのために働いてやるよ。それ以外では何をされても、僕は絶対に動かない」

 悠はここまでのやり取りでようやく状況を把握していた。これ以上は消耗するだけだ。悠とクルスが決定的なダメージを負う前に、この佐野原という男に気付かせなければならない。お互いにとって何がメリットで、事態をどこへ向かわせるべきなのかを。

「そしたらあんたは、僕らを痛めつける以外に何も得られない。それでいいの?」

『てめェー……俺を脅す気かァ?』

「脅しじゃない。取引だ」

『……こいつら開放すんのはなしだ』

 悠は内心、やった、と思った。

 交渉のテーブルにつかせてしまえば、立場は対等になる。

「じゃあせめて、危害を加えるな」

『よし、乗った。そん代わり、仕事はきっちりしろよォ?もしナメた真似しやがったら、ソッコーこいつら沈めっからなァ!』

「……わかったよ」

『悠……?何する気だ?』

 クルスには状況がわからない。だが、悠が何か彼らの犯罪に関わろうとしているのは分かった。

『てめぇ!喋んなよ!』

 佐野原がクルスに向かって拳を振り上げた。

「やめろって!」

 すかさず悠が止めた。

「画面はこのままつないでおいてくれ。二人が見えるように。一発でも手を出したら、この話は終わりだ」

『……クソッ。勝手にしろ』

 佐野原は吐き捨てて、画面の奥へと消えていった。

『悠……ケガは……?』

 クルスはスクリーンに向かって言った。血に濡れた悠の姿に、胸が潰れそうだった。

「クルス、僕はとりあえず平気だよ。だからこっちのことは気にしないで」

『悠……ごめん』

 クルスは悔しさに歯噛みした。悠を守ると言ったのに、佐野原の罠にまんまと引っ掛かり、何も手が出ない。

「謝るなよ、クルス」

 悠は画面に向かって小さな笑みを作った。

「手、外してよ」

 悠が笠井に言うと、笠井は「ふん」と言って悠の後ろに回って拘束を解いた。

った……」

 悠は自らを抱きしめるようにして腕をさすった。ずっと縛られていた両腕は、すっかり痺れて強張っていた。

「けっ。やってらんねえぜ」

 ケータは興醒めしたように言って、部屋を出ていった。

「パソコンはこれ使って」

 笠井がそう言って、矢口が持ってきたパソコンを悠の前に置いた。

「生徒会のPCか……」

「そ。なんかあったら矢口コイツの責任。な、

 笠井が矢口の肩に腕を回した。矢口は強張った表情のまま、やはり悠から視線を逸した。

「言っとくけど、逃げようと思っても無駄だぜ?こっちには君が詐欺に加担したって証拠がある。成績優秀、将来有望な月原くん、まさか足がつくようなヘマ、しないよねぇ?」

「……逃げるなら同時じゃないと、どちらかが危険になる。でもそれは不可能だ。僕にはクルスの居場所がわからない。だから助けも呼べない。よく考えたよね、完全に膠着状態だ。逃げる方法があるなら聞きたいよ」

 笠井にはそう言ったが、実は悠には切り札があった。

(僕はもうすぐ死ぬ。詐欺罪に問われて困る未来なんて、初めから無い――)

「……ふふっ……」

 悠は薄く微笑った。

「何が可笑しい?」

 笠井が訊いた。悠は胸元から流れて固まりかけている血液を掌でぬぐい、破れたシャツで拭いた。

「別に。クリスマスイブだなぁって」

(――罪を犯すことくらい、なんてことない。僕がクルスからもらったものに比べたら)

 笠井は壁の時計を見上げた。丁度午前零時を回ったところだった。

 窓の外では、雨が雪に変わっていた。


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