第19話 破滅のピンク。

 繁華街の片隅に、かつてプールバーだった場所を改装した、そこそこの広さを持つ店がある。女性は無料で飲み放題というシステムで、主に出会い目的の単独客を入れるバーだ。が、その片隅にある半個室のボックス席には、明らかに胡乱な風体の男たちが常時居座っていた。客は不穏な空気を察知してそちらには近付かないようにしていたし、店員も特に関わろうとしない。なぜならボックス席に集う彼らこそが、この店を仕切っていたからである。

 その中心に座っているのが、佐野原レオだ。派手なジャケットにサングラスをかけ、ごつごつしたシルバーをいくつも身につけて、傍らに腰掛けた女の肩に片腕を回している。

「佐野原さん、今月の売上っす」

 オーバーサイズの黒っぽい服にキャップを被った15〜6歳くらいの少年が、佐野原に封筒を渡した。

「あー?」

 佐野原は封筒をひったくるようにして中身を確かめ、封筒をテーブルに叩きつけた。

「足りねえんだよォ、これじゃあよォー」

 独特の間延びした口調で佐野原は少年を威圧した。

「すいません!」

「ったくよォ、どいつもこいつも」

 佐野原はサングラスを少しずらして店内を一瞥すると、唇のピアスをひと舐めした。

「おいセーラ、お前、ちょっとあの客ひっかけて来いよ」

 佐野原は、肩を抱いていた女に言った。

「えー?」

 佐野原が指さした先には、三十代くらいのサラリーマンがカウンターに座ってジントニックを飲んでいた。真面目そうで、いい靴を履いている。

「いくら?」

「適当に飲んで誘って、いつものホテル出たとこで十万巻き上げんぞ。うまく撮れよ」

 そう言って、佐野原は小型カメラの仕込まれた小さなバッグをセーラに渡した。

「……わかった」

 セーラは立ち上がって、カウンターの方へ歩いていった。

「あのう、すいません佐野原さん」

 佐野原に声を掛けたのは、斉藤慶太だ。

「ああ?なんだ、ケータ」

「名簿って、売れるって言ってましたよね?」

「ああー」

「そのことなんすけど……やっぱちょっと職員室からは盗めねぇっつーか……」

 ケータが後ろにいた男に目配せすると、後ろの男が続きを引き継いだ。

「それでボク、ちょっとアイディアがあるんすよねー」

 スマホゲームをやりながら、その男は言った。ライトグレーのパーカーのフードを目深まぶかにかぶっていて、顔が見えない。

「クルスっていたじゃないすか。佐野原さん、昔モメたっていう」

「あア゛!?クルスがどうしたんだよ?」

「そいつ、潰したいって言ってましたよね、佐野原さん」

「ああ、あいつだきゃあ許さねェー」

「クルスがつるんでる奴が、たぶん使えるんですよ。うちのガッコの個人情報引っこ抜くのもだけど、ワンチャン他校のデータとかも、いけるんじゃないかなぁ、あいつなら」

「そいつを仲間にすんのか?」

「そんな面倒なことしないで、拉致ってーこと聞かすんすよ。クルスへの脅しにも使えるし、一石二鳥じゃないっすか?」

 ゲームクリアの音が鳴った。男はスマホから目を上げ、薄笑いを浮かべた。


 その年の秋を通して、悠の体調は安定していた。悠の母親もクルスも、このまま発作が起きなければ、あるいは……と期待するほど、悠はほぼ毎日学校に通い、定期考査に加えて全国模試まで受けた。

 十月には矢口が生徒会長に、高橋が生徒会役員に選ばれた。悠は二学期の中間考査ではトップの座を取り戻したが、体調不良を理由に生徒会役員の推薦は辞退した。矢口は去年の一件以来、悠と目を合わせていない。

 十二月、悠とクルスは図書館にいた。

 席ごとに衝立で仕切られた自習コーナーに隣り合わせに座り、さっきからひそひそと話している。

「だから、クルスは生物より物理の方が合ってるよ。どうせ授業出てないなら、今からでも選択授業、物理に変えたら?」

「えー、やだよめんどくせぇ」

「だって全然用語覚えてないじゃん。物理なら計算方法だけ覚えれば解けるし」

「俺のことはいいから、自分の勉強しろよ……」

 クルスは悠に付き合うつもりで図書館に着いてきたのだが、悠の目的はクルスの追試対策だった。

「それはこっちのセリフだろ。クルスはちゃんとやればそれなりにできるじゃん。僕なんかどうせいくらやったって……」

「ストップ」

 クルスに遮られて、悠ははっとした顔をした。

「……ごめん」

「そういうこと言うなって約束しただろ」

「……」

「バツ。こっち向け」

「……ここで?……んっ」

 衝立の陰に隠れて、クルスが悠の唇をついばんだ。

 悠はしばらくクルスのやわらかな唇の感触を味わっていたが、やがて手にした参考書をぼすっとクルスの金髪に落とした。

「……ってえ」

「はい、やって。電磁誘導の復習問題」

「はいはい……」

 クルスはしぶしぶ悠から参考書を受け取った。

「うわ、お前、手ぇ冷たすぎんだけど」

 軽く触れた指先が氷のようで、クルスは思わず悠の手を掴んだ。その手が熱くて、悠は思わず自分の手を引っ込めた。

「……っ、いつもこんなもんだろ。早くやれよ、閉館しちゃう」

 衝立の陰に隠れるようにして、悠は動揺を隠した。

(ヤバい……なんか、キスとか普通にしてると、歯止めが……)

 夏の終わりに、旧校舎で裸で抱き合ってからだ。クルスに触れるのが気持ちいい。でも、その先に踏み出すのはさすがに勇気がいる。

(落ち着け……ここは図書館……ここは図書館……)

 と、突然首筋に柔らかいものが当たった。

「ひゃ……!」

「しっ!」

 クルスが首のうしろにキスしたのだ。

「……何するんだよっ!」

 悠はクルスを睨みつけ、小声で抗議した。

「だって、首まで真っ赤になってたから、つい」

「〜〜〜〜〜っ、もう知らないっ!」

 悠は首元を両手で隠して机に突っ伏した。

 その右手を、クルスの左手がやんわりと掴んで下におろした。机の下で悠の冷たい手を温めながら、クルスは問題集を解いた。

 午後五時。図書館を出ると、そう遅くもない時間帯だというのに、外は真っ暗だった。

「……すっかり日が短くなったな」

「明日は雪らしいぜ」

「どうりで、寒いと思った」

 星もなく黒いばかりの夜空に、吐息が白く浮かんで消える。

「送ってかなくて、ほんとに大丈夫かよ?」

 駅に着くと、クルスが念を押した。

「うん。今日は母さんが駅に迎えに来てくれるから」

「そっか。じゃあな」

「バイバイ」

 改札を通ってホームへ消えていった悠を見送って、クルスもまた帰路についた。

 駅の反対側に出るとちょっとした繁華街があった。自宅のマンションへはそこを抜けていく。

 クリスマス直前、賑やかにデコレーションされた店を、横目で眺めながら歩いていたクルスは、ふと思いついて立ち止まった。

「そういや去年、もらいっぱなしだったな……」

 悠からもらったスノードームは、クルスの部屋に大切に飾られている。

「指輪……は重いか?」

 クルスは目についたシルバーアクセサリーの店を流し見た。

「あいつ、ピアスとかしねぇしな……」

 店を出て、なんとなく他の店もぶらつく。

「プレゼントって案外難しいもんだな……」

 そんなことを独りごちながら、ようやく買ったプレゼントを包装してもらい、クルスは満足して店を出た。

 マンションの近くまで来たところで、川沿いの遊歩道の方から何やら争う声が聞こえた。

「このクソアマ!ようやく見つけたぜ!金返しやがれ!」

「きゃあ……っ!」

 クルスは揉め事には関わるまいと通り過ぎかけたが、聞き覚えのある声にはっとして振り向いた。

「セーラ……?」

 激昂した二人組の男に髪を捕まれてもがいているのは、紛れもないセーラだ。

 クルスは植え込みを一足飛びに飛び越えて、遊歩道に降り立った。

「セーラ!」

「クルスぅ……っ」

 男たちがクルスに気付いて身構える。ラフな格好をしているが、筋肉の厚みは肉体労働者のそれだった。

「てめえ、あのクソガキどもの仲間か!?」

 手前の男がクルスに怒鳴った。

「そいつを放せよ。事情は知らねえけどよ、女に乱暴すんなよ」

「関係ねえならすっこんでろぁ!こっちは歯ァ折られてんだよ!あんときの十万プラス治療費、このナメた小娘に払ってもらわねぇと収まらねぇんだよ!」

 今度は少し後ろでセーラを捕まえている方の男が言った。

「うっせえよ!あんたら二人、相手してやったじゃんよ!文句言うな!」

 セーラがわめいた。

「んだと……?」

 セーラを掴んでいた男が、セーラを殴りつけた。

「きゃっ!」

 その瞬間、クルスが跳んだ。

 クルスに一発ずつ見舞われて、二人はその場にうずくまった。

「……何やってんだよ、バカ」

 クルスはセーラの手を取って、夜の遊歩道を走った。

 背後から罵倒する声が追いかけてきたが、クルスのマンションに着く前に振り切った。

 二人はマンションのエレベーターに駆け込んだ。

「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」

「お前……何?あいつらにハニトラでもやったの?」

 クルスは肩で息をしているセーラを問い詰めた。

「……っ、あはっ……ちょっと……しくった……」

「しくったじゃねえよ。お前、洒落シャレなんねえぞ?つか、誰か後ろにいんだろ?」

 あのクソガキどもの仲間か、と彼らは言っていた。それがセーラの背後に居る者のことを指しているのだと、クルスは直感していた。

 部屋に入ると、クルスは冷凍庫にあった保冷剤を「冷やしとけよ」とセーラに渡した。セーラの顔は殴られた場所が腫れ上がっていた。

「お前、学校とかちゃんと行ってんの?まあ、俺が言うなって感じだけど」

「……ハッ……あんなとこ……」

 セーラは吐き捨てるように言った。

「親の見栄だけで入れられたクソみたいな子ばっか集まってる、クソみたいな学校だよ」

「だからって、なんで身体売るようなことすんだよ」

「わかってないなあ、クルス」

 セーラは昏い笑みを浮かべた。

「今しか売れないからに決まってるでしょ?若くてきれいなうちに、この身体を使っとかないともったいないじゃん」

 そう言われて、クルスはついセーラを見た。セーラは自分で言う通り、とてもきれいだった。艷やかな髪に整った顔。まだ十代の熟れきっていない身体は、硬質な美しさを象っている。それは、もう数年もすれば確実に失われる儚さと相まって、見る者を扇情する。

「若くてきれいなあたしだから、みんな愛してくれるの。相手が誰だって関係ないのよ。みんなあたしで楽しんでるのに、あたしも楽しんで何が悪いの?」

 だが、そう言うセーラの顔は、赤黒く腫れている。

「……それで傷ついてたら意味ないだろ」

 痛々しくて見ていられない。でも、崖っぷちを走るようなセーラを止める言葉など見つからない。クルスは無力感に嘆息した。

「わかってるよ……」

 セーラはぽつりと言った。

「でも、一人でいると不安なの。寂しいの――ねえクルス、」

 セーラはクルスの背中に抱きついた。

「助けてよ……戻ってきてよ。あたし、クルスがいないと、ダメになっちゃう……お願い」

「セーラ、俺は」

「お願い――一緒に逃げよう?」

「……セーラ?」

 逃げるって何のことだ、と引っかかる。そんなにヤバい状況なのか、と。

 セーラのスマホが鳴った。

 セーラは内容を確認すると、スマホの画面をクルスに向けた。


 瞬間、クルスは呼吸を忘れた。


「ねえ、ほっといて逃げよう。こいつらの目的は、クルス、あなただから」

 青ざめた顔でセーラが言った。

「……どこだ……この場所は」

 怒りで声が震える。視界が赤く明滅しているようだ。

「行っちゃダメ!殺されるわ!あいつ、マジで狂ってるから!」

「言えよ!どこだ!!」

 クルスが怒鳴った。そのあまりの剣幕に、セーラは恐怖で涙を浮かべた。

「……あ、大岡の……駅裏の、『Dock』……」

 それを聞くなり、クルスは物凄い勢いでバイクの鍵を取り、「セーラ、お前はここにいろ、いいな」と言い置いて、家を飛び出していった。


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