第18話 夏、約束、アイスグリーン。

 二学期のはじめ、ようやく悠は登校できた。

 夏休みの間に退院してしばらく家で過ごしていたせいか、入院中よりも少し肉がついたようで、そこまで病的には見えない。だが、なんとなくまとう空気が変わった、と感じるのは、クルスの思い過ごしだろうか。

 久しぶりの再会を喜ぶ級友たちの中心で、にこやかに笑い返す悠は、薄い透明の膜に包まれているようだった。それは静謐で不可侵の、絶対的な境界でもって、悠と周りの世界とを隔絶していた。悠は、決して戻れない場所を懐かしむように、境界の外の世界にいる友人たちを眺めていた。小麦色に焼けた生徒たちの中で、一人、悠だけが透き通るように白い。まるで窓から差し込む陽光に溶けてしまいそうだ――とクルスは思った。

「クルス、月原のこと見つめすぎ」

 はぁー、とため息混じりに柚木に指摘されて、クルスははっと我に返った。

「えっ」

「もういいよ、サヤもふられたって言ってたし、騒がず静かに二人を応援することにしたよ」

「あー……まあ、サンキュ」

 礼を言うのが正解なのかわからないまま、クルスは気のない返事をした。

「でもさ、気をつけなよ、クルス」

「え?」

「ほら」

 柚木が目で廊下の方を指した。

「変な目で見つめてんのは、あんただけじゃないってこと。あいつもしつこいねぇ、クラスも別々になったってのに。あいつはあいつで、ぽど月原が好きなんだな。ある意味」

 クルスが柚木の視線の先を追うと、ケータが苛立ちをあらわにした視線をこちらに投げながら、教室の横を通り過ぎていくところだった。

 昼休み、悠はクルスを旧校舎に誘った。

「クラス一緒なんだから、いいんだぜ?教室ここで食っても」

 クルスは言ったが、悠は首を振った。

「久しぶりに行ってみたくなってさ。付き合ってよ」

 その日は残暑が厳しく、外のテラスは見るからに暑そうだったので、二人は中庭が見下ろせる空き教室に入った。長年カーテンを閉め切ったままの教室は、ひんやりと涼しかった。

 一箇所だけ窓を開けると、薄い緑色の、安っぽい生地のカーテンが、ふわりと舞った。

 悠の弁当はサンドイッチだった。

「お前の母ちゃんて、朝から手の混んだ弁当作るよなぁ」

「クルスの分もあるから、遠慮しないでどうぞ」

「お前もちゃんと食えよ」

「食べてるよ。前より太ったでしょ?」

 悠はがぶりとサンドイッチを頬張った。

「そんなの太ったって言わねぇんだよ」

 太っただろう、などと言われると、つい悠の体つきをしげしげと眺めてしまう。クルスは今朝柚木に言われたことを思い出して、慌てて視線を逸らした。

「クルス、お願いがあるんだ」

 サンドイッチを食べ終わった悠が、ぽつりと言った。

「僕を看取って」

「え……っ……?」

 つめたい机に寝そべって頬を冷やしていたクルスが、目を見開いた。

「ほんとは、君に知られないままに死にたいと思ってたんだ。でも、……ダメなんだ。怖くて……でも君がいてくれたら、君が手を握っていてくれたら」

 悠はそう言って、クルスの手を取った。悠の手は、やっぱり冷たい。

「嫌だよ……生きるって言えよ」

 クルスの手が震えている。

「お願い」

「嫌だ!」

「お願いだ――!」

 あの日――あの坂道で握った手。

(君が手を引いてくれたら、きっと苦しくも怖くもない)

「お願い……約束して、クルス――」

 悠は眼を閉じて、クルスの唇にキスをした。その頬をひと筋、涙がこぼれ落ちた。

 やわらかな風が吹き込んできて、薄い緑色のカーテンを揺らした。

「……じゃあお前も約束しろよ」

 クルスは悠の頭を抱き寄せて、耳元で囁いた。

「諦めるなよ。生き残る10パーセントになれよ。そんでもって、じじいになったら看取ってやるよ」

 そう言って、クルスは噛み付くようにキスをした。

「――あっ……?」

 クルスが片手を悠の首に巻きつけたまま、もう片方の手でカーテンを閉めると、カーテンはぶわっと風を含んで舞い上がった。

 クルスは机から乗り出して、悠の乾いた唇に、長い睫毛に、白い頬に、薄い寝間着からはみ出した細い首すじに、キスの雨を降らせた。

「……っあ、あ……」

 悠の身体がクルスの腕の中でびくんと跳ねた。悠の背筋をぞくぞくと快感が這い登り、制御が効かなくなる。

「クルス、ちょっ……と、待っ」

 新校舎で予鈴が鳴るのが聞こえた。

 脱力して椅子から落ちかけた悠を、クルスが抱き止めた。そのままふたつ並べた机の上に押し倒した。

「人が、来――」

 言いかけた唇を塞いで、舌を挿し入れる。

「――――っ……」

 そのまま耳朶に唇を滑らせて、甘噛みしながら囁く。

「……誰も来ねえよ。鍵、閉めたし」

 鼓膜を震わせるハスキーヴォイスに、悠の脳が痺れる。

「悠、聞かせて、心臓の音」

 クルスは悠のシャツのボタンを外した。

「だめだよ……クルス……」

 悠は力なく拒絶したが、クルスは手を止めない。

「嫌?」

「見たら、引くよ……」

「引かねえよ」

 クルスは自分のシャツを脱ぎ捨てた。そして、悠のシャツの前を開き、その白い胸に耳をくっつけた。

「……くすぐったい、クルス」

 長い金髪が風をからませて、悠の白い肌の上でふわふわと踊る。

「……クルス?」

「……生きてる……」

 悠の胸に耳をつけたまま、クルスが呟いた。

「……良かった……生きてる……悠……」

「クルス」

 悠はクルスの金髪をそっと撫でた。

「泣かないでよ……クルス……」

「泣いてねぇよ……」

「……お母さん、亡くなったの……?」

 悠はふと思いついて言った。「もって半年」と仲村に聞いたのは、いつだったか。果たしてクルスは、悠の掌の下で小さく頷いた。

「八月の頭に」

 悠はそっとクルスを抱き締めた。

 初めて触れ合う肌の感触は、さらさらと温かく、泣きたくなるほど心地よかった。

「――死なないよ」

 悠は言った。

「生きるよ、クルス。約束する」

 クルスがもう一度、悠の胸の上で頷いた。

「じゃあ、看取ってやるよ」

「おじいちゃんになったら?」

「ああ」

 二人は抱き合ったまま、くすくすと笑い合った。

「約束、な」

 それが守られないことなど、お互い痛いほどわかっている。

 それでも願わずにはいられない。虚しい希望を口にしながら、自分が逝くその時を、ただ待つしかない。

 できればクルスが悲しまなければいい、と悠は思った。だがその一方で、声を上げて嘆き悲しんでほしいと、思ってしまう。

 身をよじり、声の限りに、――狂わんばかりに。


 窓を閉めると、カーテンは何事もなかったかのように静かに動きを止めた。

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