第17話 夏、告白、レモンイエロー。

(病院なんて嫌いだ)と、大岡川中央病院の病棟に立ったクルスは思った。

 以前この病院に来た時は真冬だった。発作を起こして救急車で運ばれた悠に付き添って来た。

(あの時は最悪だったな)

 楽しいはずのクリスマス・イブに、降って湧いた元カノの暴言。からの、救急搬送。悠が好きで一緒にいたくても、実際はデートひとつうまくいかない。

 そして今日は、生き別れた母親との対面だ。

「クッソ……鬼門かよ、この病院は」

 受付で教わった病室の前で、クルスはつぶやいた。

 仲村が金を出したのだろうか、部屋は贅沢にも個室だった。

 中に入ると、病人は眠っていた。

 見覚えがないのに、確かにこの人なのだとわかる。ベッドの上の「仲村百合子」という名札を確認するまでもない。毎日見慣れた自分の顔の面影を、嫌でもそこに見つけてしまう。それが無性に腹立たしい。

 そしてそれ以上に、クルスはその女の痩せ細った姿に衝撃を受けていた。

(こんなふうに……なるのか?死が近くなると)

 背筋をぞわりと恐怖が這い、胃がむかむかと不快感を訴えた。直視しているのが辛いのに、目を逸らすのは罪悪な気がしてできない。

 ――吐き気がするほど怖いのは、実は目の前の女に対してではなかった。この痩せた女の向こう側に、悠を重ねてしまうからだ。

 そこへ、仲村が入ってきた。

「おう、来てたのか」

「……あんた、毎日ここ来てんの?」

「まさか。今日たまたま時間が空いたから寄っただけだ」

 仲村は空いている椅子を引き寄せて、ベッドを挟んでクルスの向かい側に座った。

「すげえ部屋だな。あんたが金出したの?」

「ああ。こいつずっとネカフェだの、店の寮の三人部屋だのにいたからな。最期くらい静かに過ごしてもバチは当たらねぇだろ。……おい、ユリ、ユリ」

「バカ、起こさなくていいよ」

 クルスが慌てて止めたが、女はうっすらと落ち窪んだ眼を開けた。

「ユリ、未来が来たぞ」

 クルスをまじまじと見つめて、それから仲村を見る。

「お前の息子だろ」

 仲村に言われて、女はまたクルスを見た。声もなく、大きな目に涙が溢れ、女のこめかみを濡らした。まだ三十代半ばのはずなのに、老婆よりも老いさらばえていた。

「……ごめんね……」

 喉を引き攣らせるようにして、女はひと言だけ言った。それはほとんど声になっていなくて、口の形でそれと分かった。

 薄い掛ふとんの下から、骨の形がきれいにわかる手が伸びてきて、おどおどとクルスに触れた。それが哀れなほど遠慮がちだったので、クルスは仕方なくその手を両手で包んでやった。女は、やはり声を出さずに、うっすらと笑みを浮かべた。

 頭蓋骨の形が分かるほど痩せた女の、骨の手を握りながら、クルスは一瞬、死に魅入られたような気がした。


 結局、一学期に悠が登校できたのは数えるほどだった。

 中間考査は出席したが、初めて瀬古にトップの座を譲り渡し、悠は三位だった。

 長引く梅雨の間に、悠はまた入院した。

 期末考査を前にして、悠の母親の恵が橘高校を訪れた。応接室に通された恵を、校長と担任が応対した。

「入院したために期末考査を受けられない、というお話でしたが」

 担任が切り出した。「はい」と恵が頷く。担任は手元のファイルをめくった。

「月原くんは入学以来、ずっとトップを維持してますし、まあ前回は落としましたが、二学期の頑張り次第では十分に特待生の資格はあるというふうに、学年会議では話しております」

「……そのことなのですが、実は……二学期以降、これまでの成績を維持できないのではないかと、私は考えていまして……」

 恵は言いにくそうに切り出した。

「と、いいますと?」

「悠は心臓に疾患があるのですが、主治医の先生の見立てでは、あと一年もつかどうか、と」

 校長と担任は顔を見合わせた。今度は校長が口を開いた。

「一年、というのは……」

「ですから、余命が」

「それは……治癒の可能性がない、ということでしょうか?」

「全く無いわけでは……いえ、ほぼない、と思っていただければ」

「ご病気は、心臓疾患、でしたよね?先天性の」

「はい」

「どういうことですか、校長?」

 担任が尋ねた。

「私も詳しくはないのですが……つまり、臓器移植ができれば、可能性がある……違いますか?」

 校長が言った。

「おっしゃるとおりです。一応移植希望者の登録はしているのですが、移植を待つ患者の数に対してドナーの数が圧倒的に足りていないのが現状で……よほど運が良くないと」

「こればかりは難しいですね……」

「今回の入院もどれだけ長引くか予測がつかないので、二学期に勉強に取り組めるかどうかも……親としては、こういう状態で無理もさせたくないですし、進学も一旦忘れようかと思っているんです。まあ、本人次第ではありますが。それで、こういう状況ですので、特待生の解除や、場合によっては退学ということも致し方ないかな、と思いまして、ご相談に上がったのですが」

「月原くん本人は、退学を希望してはいないのですよね?」

 校長は穏やかな調子を崩さずに訊いた。

「はい。ありがたいことにお友達もできて、本人はできるだけ通いたいと言っています」

「でしたら、本校では退学を勧告する理由はありません。うちは大学受験しない生徒もたくさんおりますからね。特待生待遇についても、今は現状のまま保留という形で結構です。費用面も含めて、どうぞ月原くんの治療に専念されてください」

「……ありがとうございます」

 恵は深々と頭を下げた。

「月原さん。私はね、奇跡を信じますよ」

 初老の校長は柔和な顔に微笑みを浮かべた。


 悠が目を覚ますと、病室の硬い椅子に座り、窓際に寄りかかって、クルスが眠っていた。

 窓の外は梅雨明けの夏空が広がっている。

 そんなところで寝ていたら暑いだろうに、と思うが、寝顔を眺めていたくて声を掛けられない。ふと枕元を見ると、クルスが持ってきてくれたのだろう、小説が数冊置いてあった。勿論クルスの本ではない。瀬古の本を見舞いのついでに届けてくれたのだ。悠はその一冊を手に取って読み始めた。

 瀬古や高橋たちも見舞いに来るが、悠の入院している医大は橘高校からはかなり遠い。瀬古は二年になって予備校にも通い始め、あまり自由な時間が取れないらしい。高橋は生徒会に入ったといい、こちらも何かと忙しそうだ。

「……あっつ」

 しばらくして、クルスが目を覚ました。

「あれ、悠、起きてたの?」

「うん、ちょっと前に」

「なんだよ、起こせよ。ってか俺、めっちゃ汗かいてんだけど」

「そんなとこで寝るから」

 悠はクスクスと笑った。

「それよりクルス、学校は?」

 時計を見ると、まだ昼前だ。

「あー……暑いからさあ……」

「なんだそれ」

「期末テストは受けた」

「どうだったの」

「聞くなよ」

「追試受からないと、進級できないだろ」

「うるせえなあ」

「出た。クルスの口癖」

 そこへ、看護師が入り口から声を掛けた。

「お昼お持ちしますねー」

 病室は四人部屋で、空きベッドがひとつあった。三人の患者に順に昼食のトレイが配られる。

 育ち盛りの高校生にはどう見ても物足りない量の昼食だったが、悠はそれにほとんど箸をつけなかった。

「食わねぇの?」

「食欲なくて」

「でも、お前すげえ、その」

「痩せた?」

 悠は骨が浮き出た手首を撫でた。

「これね、なんでかどんどん減ってくんだよね。むしろ太ると心臓に負担がかかるらしいから、太るよりはマシかなって思うんだけど……ほんと、食べる気が起きなくてさ」

 クルスは悠の手首を見て、ぞっとした。

「……なあ、お前、なんでそんなに落ち着いてるんだよ……?」

 ぴく、と悠の顔が強張った。そして、周囲の患者の様子を伺うように、小声で言った。

「ちょっと付き合って」

 二人は病室を出て、エレベーターに乗った。悠が最上階のボタンを押す。

「クルスさあ……知ってるんでしょ?」

「……何をだよ」

「僕がもうすぐ死ぬこと」

「……っ、なんで、そんなに淡々としてんだよ……」

 エレベーターが停まり、ドアが開く。

「ごめん」

「謝るなよ……俺がガキみたいじゃねえか」

 エレベーターを降りると、屋上庭園へ続く階段があり、その横に自動販売機があった。そこで悠は飲み物を買って、階段を登った。クルスは悠の後に続いた。

「なんでお前はそんなに冷静なんだよ?自分が死ぬとか……受け入れるなよ、そんな簡単に」

「ごめん」

 屋上は太陽が照りつけて暑く、二人の他には誰もいなかった。植え込みの間を石畳の歩道が敷いてある。「あっちぃな」と言いながら、クルスはTシャツの袖を肩までまくりあげた。

「俺はさ、親に捨てられて、ケンカばっかして、中学んときからバイク乗って、正直、いつ死んでもいいと思ってた。なのに、悠が死ぬって聞いたら……すごく怖くなって。……お前が死んだ後のことなんて、想像もできなくて」

「飲む?」

 悠は、一口だけ飲んだペットボトルをクルスに差し出した。

「いいの?」

「どうせ飲みきれないから」

 クルスはペットボトルを受け取って、透明なレモンイエローの液体を喉に流し込んだ。ひと息でボトルの半分くらい飲み干すクルスを、悠は眩しそうに見つめた。

 屋上の高いフェンスの向こうには、悠が生まれ育った街が広がっていた。

「あのね。この病気って、二十歳まで生きられるのが10パーセントとかなんだって。僕はずーっと前に、それこそ小学生くらいでそれを知ってさ。学校の友だちとかと話してても『お前は大人になれていいよな』みたいな気持ちになって、すぐ不機嫌になってた。ははっ、そりゃあ友だちできないよね。生きる意味もわからなくて、どうせいつか死ぬなら今生きてる意味なくない?入院して薬飲んで、そういうのぜんぶ無駄じゃない?って思ってた」

「無駄なんかじゃねえだろ。そんなこと言ったら、生きてるやつみんないつか死ぬんだから、みんな無意味じゃんか。お前が生きてるのが無駄だったら、俺なんかよほど死んだほうがマシだわ。地球の酸素の無駄」

 あはは、と悠は笑った。

「とにかくね、僕はわかってたんだ。だって90パーセントは二十歳までに死ぬんだよ?むしろ、十七まで生きられてラッキー、くらい」

「うそだ」

 ガシャン、とクルスは悠ごしにフェンスを掴んだ。

「なにがラッキーだよ。全然ラッキーじゃねえよ。バカかよ」

「クルスにバカっていわれると……」

「うるせえよ」

 クルスは悠の背中をフェンスに押し付けて、唇を重ねた。

「……クルス、」

 かすかにレモン味のキスの合間から、悠は言った。

「好きだよ」

 クルスは唇を離した。息がかかるほどそばにある悠の顔が、クルスを見上げてくる。

「何、言って――」

「聞いて。クルス。君が好きだ。背が高くて、健康で、かっこいい君が好きだ。ケンカが強くて、いつも自由で、誰に何を言われても揺るがない君が好きだ。君が僕にくれる優しさが好きだ。意外とやわらかい金髪が好きだ。きれいな筋肉が好きだ。夜に会った後の別れ際の、少し寂しそうな眼が好きだ。晴れた日に旧校舎のテラスで寝てる君が」

 今も、太陽の光を受けてきらきらと発光しているかのような君が。

「好きだ」

「……ばっ……そんなこと、よく恥ずかしげもなく……」

 クルスはすっかり赤面して、顔を伏せた。

「僕、ずっとね、みんなになんて思われてるか怖かったんだ。ゲイだとか、男同士で気持ち悪いだとか言われたら、クルスも僕をそう思っているんじゃないかって」

「んなわけないだろ!?バカ!」

「でも、自分がもうすぐ死ぬって分かって、一番怖かったのは、クルスとすれ違ったまま死ぬことだって」

 悠はクルスに背を向けて、フェンスにしがみついた。その白いうなじが、クルスの片手に収まりそうなほど、細い。

「死ぬのなんて平気だったはずなのに……今は、怖いんだ。……どうしてかなあ……っ?」

 悠の絞り出すような声が、クルスの胸をえぐる。

「クルスに、もう二度と会えなくなるのが、つらい。僕のいない世界にいるクルスを想像するのが、すごくすごく、つらい」

「悠」

 気がつくと、クルスは悠を抱きしめていた。その胸に、悠が爪を立ててしがみついた。

「怖いよぉ……っ……」

「悠……死ぬなよ」

 クルスは悠の細い身体を掻き抱いて、存在を確かめるようにきつく抱きしめた。握りしめた悠の細い手は、真夏だというのにひんやりと冷たい。

「死ぬなよ、頼むから」

「クルス……っ」

「90パーセントが死ぬなら、残りの10パーセントになればいいじゃねえか」

「う、うぅ――っ……」

 クルスのうっすら汗ばんだ胸に、悠の涙が吸い込まれていく。

「死ぬなよ。悠。生きろ」

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