第16話 ミッドナイトブルーの静寂。

「おい、悠、悠!起きろって!」

 クルスにしがみついて眠ってしまった悠に声をかけていると、家の中から悠の母親が出てきた。

「あらまあ……バイクって寝れるのね」

 母親ののんきな驚きに、クルスは平謝りする。

「いや、危ないんすよ、ほんとは。すいません……まさか寝ちゃうと思わなくて」

 目覚めない悠を母親に支えてもらって、ようやくクルスはバイクを降りた。

「俺、中に運びますよ」

「ありがとう、助かるわ」

 母親がドアを開けに行き、クルスは悠のヘルメットを脱がせた。悠を抱き上げて家へ入る。

「こっちよ」

 母親に案内されて、二階の悠の部屋のベッドに寝かせる。そこで初めて、クルスは悠の異変に気付いた。

「……熱い……」

 頬が紅潮し、吐く息まで熱っぽい。

「あの、すいません、悠が……!」

 クルスは階下に降りかけた母親を呼んだ。母親はすぐに駆けつけて、悠の熱を測った。

「これくらいなら、今晩は様子見かな……クルスくん、悪いんだけど、ちょっと手伝ってくれる?」

 母親はクルスに手伝わせて、意識が朦朧とした悠を着替えさせた。上半身をクルスが抱きかかえるようにして起こし、服を脱がせる。

ほっそ……」

 火照った皮膚の下は、肋骨が浮き出している。母親が寝間着を広げている間、クルスは悠の熱い身体を抱きしめながら、背中に突き出した肩甲骨を眺めていた。

「痩せてるでしょう。びっくりするわよね」

 悠の骨ばった腕に寝間着の袖を通しながら、母親は言った。

「……いえ……」

 上半身を着せ終えて、ベッドに寝かせる。それから母親は悠のベルトを外し、「よいしょ」と掛け声をかけて腰を持ち上げ、ズボンを脱がせた。

「……っ!」

 下着から伸びた白い脚が目に飛び込んできて、クルスは思わず顔を背けた。

「あら、失礼。男の子同士だから平気かと思ったんだけど」

 さばさばとした口調でそこまで言ってから、母親は「あ」と口元を押さえた。

「そっか。あなたたち……そうだったわ。ごめんなさい」

「いやっ……その……俺、部屋の外、出てますね」

 すっかり赤面したクルスは、逃げるように廊下に飛び出した。

「……ってか、なんで母ちゃん、知ってんだよ……?」

 自分が春休み前に家の前でキスしていた張本人であることは、すっかり忘れているクルスだった。

 着替えを終えた母親は、廊下で所在なさげにしていたクルスに声を掛けた。

「ありがとう。もし時間が平気なら、お茶でも飲んでいって」

「あ、すいません……いただきます」

「緑茶がいい?それともコーヒー、カフェオレ、紅茶……」

 ダイニングにクルスを通して、母親はポットのスイッチを入れた。

「あ、じゃあコーヒーで」

 母親はふたつのマグカップに温かいコーヒーを注ぎ、テーブルに置いた。

「それで、クルスくんと悠は、付き合ってるの?」

「ぶっ……」

 クルスは思わずコーヒーを吹きそうになった。

「付き合って……っていうか……その」

 クルスは口ごもった。

「……すみません、よくわかんないです」

「そっか。そうよね。デリケートなことだわね」

「いや、そんなことは」

 デリケートなのかどうかすら、クルスにはよくわからなかった。そもそも悠に対する感情が恋愛なのかすら、自信がない。

『好きとも付き合おうとも言わないじゃないか』と、いつだったか悠に言われたことがある。その時は、なぜか腹が立った。好きだとか付き合おうとかいった類いのことを言わなくても、一緒に過ごしていられれば、楽しければ、それでいいと思っていた。それに、言葉にしないほうが、何か特別な関係になれる気もした。そして、悠も自分と同じように思っていると勝手に思い込んでいたのだ。

「でも、ありがとう。私、クルスくんには感謝しているの」

 母親もコーヒーをゆっくりと飲んで、しみじみと言った。

「あの子、病気であんまり学校行けていなくてね。中学では友だちを作りそびれちゃって、苦労したみたいだけど。高校ではクルスくんが友だちになってくれて、ほんとに良かったと思ってるの」

「いえ……そんな、俺なんて全然。あいつは頭がいいから、クラスにもたくさん友だちいるみたいだし」

「そうなの?でも私に話してくれるのは、クルスくんのことが一番多いわ」

 思いがけない言葉に、クルスは赤面してうつむいた。

「……そう……っすか」

「友情でも恋愛でもいいの、あの子の人生で、かけがえのない存在を見つけられたことが、親として嬉しいの」

「いや、人生、ってそんな、大げさな」

 クルスは笑いかけて、ふと、さっき抱きしめた悠の身体が頭をよぎった。細い、病的に白い、今にも折れそうな――。

「悠……、えっ……?」

 どす黒い、何か予感のものが湧き上がる。クルスは母親の顔を見た。

 彼女は、笑ってはいなかった。痛いほどまっすぐに、クルスの眼を見つめている。

「……え?いや、まさか」

「あの子から、聞いてないのね?」

「だから、何を……?」

 クルスは息苦しさを覚えた。一瞬の静寂が、耳鳴りするほど重い。

 聞いてはいけないことを、知ってしまったら世界が変わってしまうことを、今自分は聞こうとしているのだ。

「年末に入院した時に宣告を受けたの。あの子の心臓が動いていられるのは、あといちね……」

 そこで母親が声を詰まらせた。洟をすすり上げ、目頭を拭い、大きく息を吸って、続ける。

「一年か……、もって、二年、だって」

 クルスは胸を殴られたような衝撃を受けた。居ても立ってもいられず、階段を駆け上がって悠の部屋のドアを開けた。

「……嘘、だろ……?」

 悠の勉強机には、教科書や参考書が綺麗に整理されて並んでいた。ハンガーには見慣れたコートと紺色の学ランが掛けられている。ベッドには悠が、さっきと同じ、静かな顔で眠っている。

 クルスには信じられなかった。このベッドも机も参考書も制服も、この部屋のすべてのものが悠のために存在しているのに、悠がいなくなるなんて。

「嘘だ……悠、ごめん」

 クルスはベッドの横に、折れるように膝をついた。

「ごめん……俺、全然知らなくて……俺のこと、アンまで巻き込んで探させて、こんな遅くまで連れ回して……っ」

 戸田から悠の病気のことは聞いていたのに。だが、それがどれだけ凶悪に悠の身体を蝕んでいたのか、想像もしなかった。自分のことで頭が一杯で、悠がわかってくれないのがもどかしくて、拗ねて、逃げた。まるで子どもだ。

「私もね、何が正解かわからないの。限りある時間の中で、できるだけいろんなことをさせてあげたいし、でも無理をさせたくもないの。クルスくん、分かってくれるかなぁ……っ」

 悠の母親は、ドアに寄りかかったまま、声を詰まらせた。

 二人はしばらく無言で悠の寝顔を眺めていた。もうすぐいなくなる悠のものがいっぱいに詰まった小さな部屋で、静寂に押しつぶされそうになりながら。


「月原、また休みー?」

 クルスが一人で登校してきたのを見て、柚木が言った。

 二年のクラス替えで、クルスと悠は同じクラスになった。柚木と高橋も一緒だ。瀬古は特進クラスに行った。

 クルスはつかつかと高橋の席に歩み寄り「ちょっと顔貸せ」と言って教室から連れ出した。

 人のあまり来ない旧校舎の廊下まで来て、クルスは口を開いた。

「高橋、お前――知ってたんだな?」

「……月原くんの病気のこと?」

「なんで……黙ってたんだよ」

「だってクルスくんとはクラス違うし接点ないし」

 そこに他学年の生徒が通りかかったので、高橋は一旦言葉を切った。

「というより、彼、クルスくんにだけは知られたくないって言ってたわ。でも、話したのね」

「あいつの母ちゃんから聞いたんだよ」

「私は、月原くんに……好きって告白したら、ごめん、自分はもうすぐ死ぬから、付き合えない、って」

「……畜生!」

 クルスは壁を殴りかけて、拳を止め、自分の頭にぶつけた。

「どうにも……なんないのかよ……っ」

 壁に背を預けてずるずるとしゃがみ込み、二度、三度と自分の頭を殴りつける。高橋がたまりかねてその手を掴んだ。

「クルスくん」

「どうしたら……なあ、どうしたらいい……?」

 今にも泣きそうな顔で、クルスは高橋を見上げた。

「クルスくん……っ」

 高橋の涙が、クルスの金髪にはらはらと落ちる。

「私、誰にも話せなくて、つらくて……」

「……俺、いやだよ……どうして、あいつなんだよ……」

「月原くん……あんなに成績も良くて、絶対すごい大学行けるのに……大人になって、たくさん活躍できる人のはずなのに」

「……あいつに比べたら、俺のほうが千倍、生きてる価値ねぇよ……」

「違うよ、クルスくんがいたから、月原くん学校来れてたんだよ?みんなわかってるよ。クルスくん、月原くんのこと一番近くで支えてるじゃない。同じクラスの誰も、月原くんを守れなかった時に、クルスくんだけが月原くんを守ってくれたじゃない」

「……クソッ……そんなの、死んだら意味ねぇじゃんよ……」

「……そんなこと、言わないでよ……っ」

 やがて始業のベルが鳴った。

 用務員が閉め忘れたのだろうか。旧校舎の廊下の、ひとつだけ開いた窓から、ひらひらと名残の桜の花びらが数枚、舞い込んできていた。

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