第15話 モノトーンの感情。

 セーラを泊めたことを悠になじられたのを気にしたのか、春休みのある日、クルスは悠をマンションに呼んだ。

 タワーマンションの十四階。モノトーンのインテリアで統一されたLDKは、すっきりと片付いているために実際より広く見えた。大きな窓からは街が一望できる。月原親子の住む築四十年の借家に比べ、圧倒的に生活感に乏しかった。

「飯、まだだろ。なんか食う?」

「クルスが作るの?」

「焼き飯とか、簡単なやつな」

 クルスはキッチンに回って冷蔵庫を開け、食材をいくつか取り出した。

「なんか手伝う?」

「いらね。適当に座ってて」

 ダイニングテーブルには椅子が二つあった。悠は言われた通り、そのひとつに腰掛けて参考書を開いた。ややあって、じゅわっと小気味いい音と共に食欲を刺激する香りが漂ってきた。

「いただきます」

 しばらくカチカチと皿とスプーンがぶつかる音だけが響く。醤油で味付けした焼き飯は、見た目も味わいもシンプルだったが美味しかった。

「クルスは、ここに一人で住んでるの?」

 見れば、LDKの他に二部屋ほどあるようだ。高校生の一人暮らしにしては、いささか広いように思える。

「まあ、ほぼ一人だけど。たまにが帰ってくる」

 クルスは焼き飯を頬張りながら答えた。

「持ち主?」

「この部屋の。そっちのドアはそいつの部屋」

 クルスがくい、と顎で指す。

「……えっと、クルス……確か親御さんはいないって」

「ああ」

「じゃあ、親戚……とか?」

「全然。関係ねえおっさん」

 クルスの説明がいまいち断片的なのは、詮索されたくないのだろうか。だが、気になる。

 だがそんな悠の迷いは、すぐに意味のないものになった。

 ガチャリ、と玄関のドアが開く音がして、誰かが家に入ってきた。クルスは「ちっ」と小さく舌打ちをして、それから、なんとも嫌そうな顔をした。

 その人物が、まさに今話していた「関係ねえおっさん」であることは、悠の目にも明白だった。

「いたのか、未来」

 LDKに入ってくるなり、男は言った。年齢は四十代くらいだろうか。確かに、父親というには若い気もする。髪はすっきりと後ろに撫でつけられ、スーツの上にレザーのトレンチを羽織っている。かっちりした恰好なのに、明らかに堅気ではない。それはスーツの下のシャツが黒いせいなのか、悠を睨め回す鋭い眼光のせいなのか、奇妙に艶のある肌のせいなのか、どこか引っ張るような独特の発声のせいなのか、それともそれらすべてなのかはわからないが、とにかく悠はこの男がどういう種類の職業なのかなんとなく察してしまった。

「友だちか?」

「ああ」

 クルスは男と目を合わせずに答えた。

「……同じ高校の、月原です……」

 悠はとりあえず男に頭を下げた。空気が張り詰めている。

「どうも。コイツが世話になってます」

 男は悠に言ってから、クルスの方に向き直った。

「学校行ってんのか?」

「春休みだよ」

 クルスは面倒そうに答える。

「そっか。ここで会えて丁度良かった。言っときたいことがあったんだ。お前、夏に退院てきた佐野原とモメてたよな?あいつ性懲りもなくまたヤバいことしてるらしいからよ、関わんじゃねぇぞ?次は組で後始末なんてできねぇからな」

「知るかよ。一回絡まれただけだし」

「それと、お前の母ちゃんが入院した」

「……えっ?」

 そこでクルスはようやく男の顔を見た。

「中央病院だ。受付で名前言えば部屋教えてくれる」

 男はタバコをくわえて火を付けた。

「……俺には関係ねぇよ。あんたが勝手に世話すりゃいいだろ」

「そう言わねぇで、会いに行ってやれよ。たった一人の母ちゃんだろ」

「あんな母親――っ!」

 ガタン、と椅子を倒して悠が立ち上がった。壁に向かって拳を振り上げかけて思いとどまり、頭を抱える。

「――くそ!客来てんのにタバコ吸ってんなよ!」

 クルスが男に怒鳴った。男は小さく肩をすくめて、ポケットから携帯灰皿を出してタバコを捨てた。

「癌だ。――長くないとよ」

「知らねえよ……勝手に死ねよ。ってかあんな女、死んじまってくれって何度も思ったよ」

「……クルス……そういうこと、言うもんじゃないよ……」

 悠がためらいがちに口を挟んだ。言わずにはいられなかった。

「お前に何が分かんだよ!」

 クルスに怒鳴られて、悠はあからさまに怯えた顔をした。クルスが悠に向かって激昂するなど、初めてのことだった。そもそもクルスは普段あまり大声を出さない。

「……ごめん……僕、帰るね。ゴハンごちそうさま」

 これ以上ここにいてはいけないと思い、悠は出しっぱなしだった参考書をカバンに詰め込んで、クルスの部屋を出た。あの男がクルスの何なのか気にはなったが、家族――少なくとも母親に関する立ち入った話題に同席する権利は、自分にはないと思った。

 だが、エレベーターに乗り込んだ時、思いがけない状況が悠を待っていた。

「悪い、待ってくれ」

 そう言って、先程の男が閉まりかけたドアをこじ開けてエレベーターに入ってきたのだ。

 男は一回のボタンを押して、悠に話しかけてきた。

「君、月原くん、だっけ」

「……はい」

「悪かったね。せっかく遊びに来てくれたのに」

「いえ……あの、僕なら大丈夫なんで、クルスのとこに……」

「ああ、あいつはもう俺の話聞く耳なんてねえから、いいんだ。伝えることは伝えたし」

「お母……さんが……?」

「ああ。発見が遅くて、もう手遅れだそうだ。もって半年だとか」

「半年……」

 否応なく、自分に残された時間と重ねてしまう。

「家はどこ?送ってくよ」

 エレベーターが一階に着いて、男が車のキーを出した。

「いえ、電車で」

 悠は断りかけたが、男は悠の顔をのぞき込んで言った。

「顔色が悪い」

「……大丈夫です……すみません」

「遠慮するなよ。送らせてくれ」

「……すみません」

 結局、悠は男の車で家まで送ってもらうことになった。

 男は仲村なかむら和海かずみと名乗った。

「まあ、あいつがああ言うのも仕方ねえんだよな。あいつは母ちゃんに捨てられたも同然だったからな」

「確か……施設育ちだって」

「ああ。ユリ――あいつの母ちゃんはさ、赤ん坊のあいつ抱えてキャバで働いて、仕事柄もあって酒浸りになってさ。とうとう児相が出てきて、ユリからあいつを取り上げて、あいつは施設に入れられたんだ。そのあとユリは風俗を転々としてたらしいんだが、五、六年前かな、偶然俺が世話してる店で再会してな。それで俺が未来を施設から引き取って、あそこに住んでるんだけど。母ちゃんの方は合わす顔がないって言って聞かねえし、あいつはあいつであんな感じだしなあ……」

「ああ……」と悠は先程の剣幕を思い出した。悠は恐る恐る訊いた。

「あの、クルスのお父さん……は?」

「ああ、俺じゃねぇよ?養護施設から未来を引き取る時に、ユリと籍だきゃあ入れたけどな。ほんとの父親は多分ユリも分かってねえんじゃねえかな」

 ――親すらいねえよ――。

 金色に輝くクリスマスツリーの下で、クルスがくらく冷たい表情で言った理由が、ようやくわかった。


 始業式の日、クルスは学校に来なかった。

 学校帰りに思い立って駅前のラーメン屋をのぞいてみると、案の定、カイとタローがいた。

「あ!月原さん!っす!」

「お久しぶりっす!」

 テーブル席に座っていた二人は、ぴょこんと立ち上がって悠に挨拶した。

「あれ、制服が――」

 二人は揃って黒い学ランを着ていた。だが悠が前に見かけた時は、ブレザーだった記憶がある。

「あ!俺ら今日入学式だったんすよ!」

黒沢工業クロコーっす!」

「そうなんだ、おめでとう。ところでさ、最近クルスと会った?」

 悠が尋ねると、二人は顔を見合わせた。その後ろから、声がした。

「クルスが、どうしたって?」

 テーブル席の奥には、同じ黒沢工業の制服の生徒が座っていた。真っ赤な髪を後ろで縛った、クルスより少しばかり小柄な男だ。無意識にクルスと比べてしまったのは、彼らがどことなく同じ空気をまとっていたせいかもしれない。それでなくとも黒沢工業高校はやんちゃな生徒が多くて有名だ。

「アンさん、月原さんはクルスさんの高校のダチっす」

 カイが赤髪に悠を紹介する。

「あー……あんたが『悠』か」

 赤髪は手で空いている席を指した。

「座んなよ。俺は安西京一。アンでいいよ」

 悠は勧められるままに、四人がけのテーブル席の奥、アンの向かい側に座った。

「で?クルスに会いたいの?」

「うん……春休みに一回会ってから、連絡とれてなくて」

 クルスの携帯にメッセージを送ろうかとも思ったが、何と切り出せばいいかわからずに逡巡している間に春休みが終わった。そして昨夜遅く、クルスの方から「明日は迎えに行けない」とだけ送られてきた。

「前に、クルスの家に遊びに行ったんだけど、クルスが家の人とモメちゃって」

「ふうん……月原、だっけ。腹減ってる?」

「えっ?」

「俺、これ食ったら出るけど、お前もなんか食うなら頼んだら?」

 アンは自分の前に並んだラーメンと半チャーハンのセットを指して言った。

「あ……じゃあ、ラーメンにしようかな」

 悠が壁に貼られたメニューを見て言うと、アンがカウンターに向かって大声を上げた。

「モモ!ラーメン一丁追加な!」

「はあい」

 明るい返事が聞こえ、しばらくしてラーメンが出てきた。

「どうぞ。クルスくんの友だちだって?チャーシューおまけしといたよ!」

 ラーメンを運んできたのは、くりんとした目が可愛らしい店員だった。

「あ、ありがとうございます」

 思いがけない接待に、悠は恐縮した。

「こいつはモモ。タローの姉ちゃん」

 アンが店員を悠に紹介する。

「日野桃夏です。よろしくね!」

「あ、こちらこそ……」

 いきなり巻き込まれた交友関係に悠が目を白黒させていると、タローが横から囁いた。

「姉ちゃん、アンさんと付き合ってるんすよ」

「あ、なある……」

 ようやく悠は関係性を理解した。つまり、カイとタローはクルスの中学の後輩で、アンは彼らの高校の先輩かつタローの姉ということだ。そしておそらく、アンとクルスもよく知った仲なのだろう。

「あいつ最近ここ来た?」

 アンがモモに訊いた。

「たまに来るけど、今月入ってからは来てないよー」

「俺らも見てないっすね」

「ふーん」

「安西くんは、クルスと付き合い長いの?」

「クルスとは、赤ん坊の頃からの付き合いだな」

「赤ん坊……ってことは……」

「何、月原、そのへんの話、聞いてんの?」

「……施設にいたっていうのは、聞いてる」

「そうそう。その施設に俺もいたの。だからあいつとは家族だったんだ。小五までだけどな。あいつが仲村のおっさんに引き取られて、学校も別々になっちまったけど、なんだかんだで、腐れ縁、てやつ?」

「中学じゃ、黒沢第一中学クロチューのアンさんと城南のクルスさんで、このへんのツートップでしたもんね!」

 タローが興奮気味に言った。

「ああ、なるほど」と悠は納得する。クルスとアンの雰囲気が似ているのは、そういう理由か、と。

 アンはチャーハンとラーメンを完食し、悠が食べ終わるのを待って、席を立った。

「んじゃ、行くか、月原」

「えっ」

「クルスんとこ」

「どこにいるかわかったの?」

「まあ、だいたいね」

 店を出たアンは、大きな黒いバイクに跨って、悠にヘルメットを渡した。

「後ろ、乗んなよ」

「え、いいの?」

「歩くとちょっと遠いんだよ」

 そう言って、アンはバイクを発進させた。後ろからカイとタローも着いてくる。

「俺もしばらくあいつと会ってねえけど。でもあいつが行きそうなところはなんとなくわかるんだよな」

 十分ほど走ったところで、アンはバイクを停めた。

「ここって……もしかして」

 目の前の建物の門柱には、杉の子学園――と書いてある。

「そ。昔の俺らの家。俺は中学までいたな」

 アンは勝手知ったる様子で庭に入っていき、玄関を素通りして建物をぐるっと回り込んだ。裏庭は家庭菜園になっていて、規則正しく畝が作られ、支柱が立てられている。その隅っこの、大きな柿の木の下のベンチに、見慣れた金髪が寝そべっていた。

「ほれ、いた」

 アンがしたり顔をした。

「すごい……安西くん、なんでわかったの?」

「だってあいつ、仲村のおっさんとモメたんだろ?だったら家に帰んねえだろうし。あいつ群れねぇから、たまり場とかにも顔出さねえしな。そんで学校にも行ってねえなら、どっかバイクで走り回ってるか、ここで燻ってるかのどっちかだからな」

「……うるせえなあ。こそこそ喋ってんなよ、京一」

 クルスが不機嫌な声を上げた。

「なんだ、起きてたのか」

「全部聞こえてんだよ。ったく、余計なことしやがって。誰がこいつ連れてこいって言ったよ」

 クルスは起き上がって、悠をちらりと見た。

「そう言うなら自分で連絡くらい入れてやれよ」

「はあ?入れたし」

「はいはい。そのへんは二人でゆっくり話せよ。俺はシスターに挨拶してくるわ」

 ひらひらと手を振って、アンはカイとタローを連れて建物の中へ消えていった。程なくして、中から子どもたちの歓声が聞こえてきた。

「わあ!アンだアンだ!」

「アン!遊ぼー!」

 カイとタローも混ざって、園内は賑やかな声に包まれた。

「……」

 裏庭の片隅で、クルスは黙ったまま、地面を見つめている。

 悠はひとつ息を吐くと、笑顔で言った。

「――なんか、言いたいこと色々考えてたけど、もういいや」

「え?」

「クルスの顔見たら、どうでもよくなっちゃった。ねえ、僕らも中入ろうよ。案内してよ、クルスの昔の家」

「あ、ああ。いいよ」

 シスターたちは思いがけない卒園生の訪問をとても喜び、日課を変更して夕食まで遊びの時間にした。子どもたちに囲まれて、クルスも悠もアンたちも、みんなが笑っていた。夕食まで出されてもてなされ、すっかり夜になってから、高校生たちは帰路についた。

「いつでも帰ってきていいのよ」

 そう言って、年配のシスターは見えなくなるまでクルスを見送った。

 クルスの後ろの定位置に収まった悠に、クルスが話しかけた。

「悠」

「うん」

「こないだは、みっともないとこ見せて、悪かったよ」

「……うん」

 背中越しのクルスの声は、普段より素直だ。まるで幼い少年のようないとけなさを含んで、思わず抱きしめたくなる。

「あの後さ、あのおっさんから話、聞いたんだろ?ガキ臭いと思ったよな?でも俺、お袋のこと、やっぱ許せないっつーか、絶対ぜってー好きになれないのも本当で」

「わかるよ。僕もごめん、押し付けて。僕が僕の母さんを思う気持ちと、クルスがクルスのお母さんを思う気持ちは、無関係なのに」

 悠も少しだけ、柔らかい気持ちになる。子どもたちの笑顔に心がほぐれたせいかもしれないし、春のぬるい風のせいかもしれない。

「僕はさ……死んじゃったら二度と会えないから、怒ることも……できないから……もし憎むことしかできないとしても、やっぱり会っておいたほうがいいって思うけど……でもそれは、僕の母さんしか知らない僕が思うことであって、クルスにはクルスにしか見えない世界があるんだよね。だからクルスは、クルスの気持ちに正直に行動したらいい。許せないことも、あっていいんだ。きっと」

 話しているうちに眠くなってきて、悠はクルスの背中に頭をあずけた。

「だって、お母さんと引き離されたちっちゃいクルスは、やっぱりかわいそうだし……抱きしめてあげたいって、思う……」

 さっき遊んだ子どもたちの姿に、想像の中の幼いクルスがオーバーラップする。

「……悠、お前」

「んー……?」

「お前、すげーな……やっぱ俺、お前のこと好きだわ……」

 悠は、クルスが何か言ったような気がしたが、それが現実なのか夢なのかわからなかった。

「悠……俺、もう――抑えられないかもしれない……」

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