第14話 桜色、再び。
季節はいつの間にか春になっていた。早咲きの桜が濃いピンク色の花をつけている。
卒業式、元生徒会長は相変わらず忙しかった。壇上で記念品の贈答を行い、卒業生代表の答辞を述べ(送辞は庄司菫が務めた)、式が終わってからも教師や来賓と挨拶が絶えない。ようやく解放されて外に出たと思えば、今度は生徒会やら空手部やらの後輩たちに取り囲まれている。
今日は戸田とは話せそうにないな、と、悠は遠くからその様子を見守っていたが、戸田は悠の姿を見つけると人の群れを抜けてこちらへ駆けてきた。
「卒業おめでとうございます」
「ありがとう。月原にはだいぶ世話になっちゃったね」
「こちらこそ、色々と便宜図ってもらいまして」
戸田には、クルスのバイク通学の許可を取る際に、口利きしてもらっていた。
「それでさ、月原。君、どこ狙ってるの?大学」
「大学……ですか」
思いがけない質問に、悠は返答に困った。
「まあ、君なら大抵の大学は余裕だろうけど」
「……まさか」
悠は曖昧に笑った。大学進学。当然、考えたことがないわけではない。だが。
(――それまで僕は、生きていられない……)
だがその話題は今日この晴れの日には相応しくない。今日は卒業式だ。
「もし同じ大学なら嬉しいなと思ったんだが。ま、君の人生だ」
そう言って、戸田は一枚の名刺を出した。
「まだ準備中なんだけど、今度会社立ち上げるんだ。そのうち連絡して。こっちからも頼みたいことができそうだし」
「起業……ですか。受験勉強しながら準備していたんですか?」
「うん。まあ学業のかたわらだから、半分お遊びみたいなもんだけどね。大学に行ったら色々やってみたいと思っていたんだ」
「すごいな……」
悠は受け取った名刺をまじまじと見た。戸田は都内の超難関校と言われる大学に合格したはずだ。入試ぎりぎりまで生徒会にも顔を出していた。一体この人はいつ眠っているのだろう、と不思議になる。
「別に大したことじゃない。まあ、そういうことだから、よろしく。じゃ、また」
戸田は軽く手を上げて、また人の群れに戻っていった。
じゃあ、また。そのうち。
それはいつか実現するのだろうか。それとも。
(僕が死ぬほうが早いのかな……)
もう二度と会えない人が、どれくらいいるのだろう。
「悠」
ぽん、と肩に手を置かれて、悠は我に返った。振り向くとクルスがいた。
「もう今日はおしまいだろ?帰ろうぜ」
クルスとは、例のキスからこっち、あまり会話をしていなかった。バイクの送迎もやめていたし、悠も通院などで学校を休みがちだった。そうこうしている間に学年末考査があったりと、短い三学期はあっという間に過ぎてしまった。
「バイクで来たの?」
「ああ。気温上がるの待ってた」
クルスのバイクは駐輪場の一番奥が定位置だ。監視カメラの真下。戸田が、「高い乗り物なんだから盗難されない場所に置いてくれ。トラブルは御免だからね」と、わざわざ指定した場所だ。
久しぶりのエンジンの音に、どこか安心感を覚えている自分がいる。ヘルメットをかぶり、クルスにつかまると、バイクは滑らかに走り出した。
柔らかい春風の中を、バイクは走っていく。
この時間だけでいいな、と悠は思った。バイクに乗っていれば、否応なしに二人きりだ。誰の目も気にしなくていいし、不安な未来のことも考えずに済む。クルスに対するもやもやと名状しがたい感情も、背中越しの体温を感じているだけで不思議と落ち着いた。
「悠、あのさ」
悠の家にだいぶ近づいたところのとある信号待ちで、クルスが切り出した。
「何?」
「セーラは、夜中に街ン中うろついてたから泊めてやっただけで、何もねえから」
「ふうん……」
そこで信号が変わり、会話が途切れた。再び信号待ちになった時、今度は悠から話しかける。
「セーラさんって、クルスの恋人?」
「元カノだよ」
「なんか、すごいこと言ってたけど」
悠もあまり覚えていなかったが(というより、早く忘れたかった)、三人で、とか、童貞、とか、割と散々なことを口走っていた。
「ああ……」
クルスも思い出したのだろう、声が少し暗くなる。
「あいつも色々あるんだろ」
信号が変わり、しばらく走ると、悠の家に着いた。
「ありがと」
悠は礼を言って、ヘルメットを脱いだ。
「悠」
ふわりと頭の後ろにクルスの手が触れ、柔らかく引き寄せられる。
「なんで……?」
唇を離したクルスに、悠は訊いた。
「したかったから」
「でも、僕は……っ」
「したくなかった?」
「…………」
したくないわけがない。といって、素直に嬉しいとも言えず、悠はクルスに背を向けて無言で家に駆け込んだ。
ドアを閉めるなり、胸を押さえる。鼓動が速い。
「心臓に、悪いんだよ……っ」
どんどんクルスに惹き寄せられていく。同時に、クルスが自分を求めてくるのが心地いい。でも――。
(僕は死んでしまうのに)
言えない後ろめたさが、胸の底に沈殿している。
「おかえり」
突然リビングから声がして、悠は飛び上がった。誰もいないと思っていたのだ。
「母さん!帰ってたの?」
「うん、今日、早番でね」
リビングのソファでは悠の母親が郵便物やチラシの整理をしていた。うっすら漂う香りは、マグカップの中のカフェオレだろう。
「悠は、彼が好きなの?」
母親は、手を止めて悠を見た。
「……見てた……の?」
リビングの窓の外は、ちょうどクルスがバイクを停める位置が丸見えだ。
悠はごまかすようにハハッと笑った。
「ってか、引くでしょ、普通に。男同士とか。あれね、冗談だから。気にしないでよ?」
「そうなの?」
母親は立ち上がってキッチンに回った。
「カフェオレ、飲む?」
母親は返事を待たずにカフェオレを作って、悠にマグカップを手渡した。悠は小さい頃からこのカフェオレが好きで、断ったことがないのを、母親はよく分かっている。
「悠、私はもし二人が本気でも、引いたりしないわよ?」
「……」
悠はカフェオレをひと口飲んだ。香ばしい熱がゆっくりと身体の中を降りていく。
「悠、あなたが何歳まで生きられるか、わからないけど……どんな人でもね、恋愛って必ずしなければいけないものでもないし、生涯で一人しか愛さない人だっているわ。性別以前に、もしかしたら生涯でたった一人の出会いかもしれない。もし悠が、人生でかけがえのない人だと思うなら、全力で大切にしたほうがいい。私は悠に、後悔しないように生きてほしいから」
ゆっくりと一言一言紡ぎ出される母親の言葉が、不安と迷いでこんがらがった頭に染み込み、ほぐしていく。
「私は、あなたのお父さんが、これまでの生涯で唯一の恋人だったわよ」
鼻の奥がじんとして、母さんはずるい、と悠は思った。小さな頃から飲みつけていたカフェオレの香りに、幼い頃の記憶しかない父親を持ち出されたら、否応なく感情が揺さぶられてしまう。無防備にされた心が、抑え込んでいた本心をさらけ出してしまう。
「もし本当に好きなら、手を離しちゃだめよ。好きな人に出会えるなんて、奇跡みたいなことなんだから」
奇跡――悠は心の中で反芻した。目に浮かんだクルスの笑顔は、その言葉にとても相応しい。
(でも僕は、もうすぐ死んでしまうのに……クルスを傷つけるだけかもしれないのに)
だが、悠にはそれを口に出す勇気はなかった。悠の死を一番悲しむのは、他でもない母なのだ。
母親のまっすぐな視線を見つめているとなぜか泣きたくなったので、悠は手元のマグカップに視線を落とした。
その手を一番最初に掴んだのは、クルスだった。あの桜の降る坂道で。
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