第12話 世界は果てしなく白く。

 目覚めると、白い世界の中にいた。

 白い天井から下がった白いカーテン。薄い布団の白いカバー。白いシーツ。ベッドに取り付けられた、白いパイプ。

 それは見慣れた風景。

(今、何時だろう)

 悠はぐるりと見回したが、時計らしきものは見当たらない。周囲の静けさからなんとなく夜なのだろうと思うと、時間を知るためだけにナースコールをするのもはばかられた。

(ええと、僕はいつから入院しているんだっけ……)

 記憶が混乱している。幼い頃から何度も入退院を繰り返してきたので、てっきり今回もそうだと、目覚めた直後は思いこんでいた。

「あれ……でも、……あれ?」

 確か、高校に入ってからは入院していない。

「今、いつだっけ?」

 生徒会室で戸田を手伝って、家に帰った。

 その後――。

「……そうだ、日曜にクルスと映画を観に行ったんだ。それで家に帰って……あれ?夕食はファミレスに行ったんだったっけ……?」

 記憶が混乱している。

 そこへ、からり、と扉を開ける音がした。

「あら、起きたの」

 カーテンを開けて入ってきたのは母親だった。

「母さん、今、何時?」

「もうすぐ朝よ。クルスくんもずっと付き添ってくれてたんだけど、おうち近いって言うし、一旦家に帰ってもらったわ。学校もあるだろうしね」

「学校……」

 あれ、今日は何曜日だっけ、と思って、それでようやく頭がはっきりしてきた。

「……クルスが、いたの?病院ここに?」

「ああ、悠は覚えてないのね。大岡で発作を起こして倒れて、救急車で運ばれたのよ。だからここ、いつもの医大じゃなくて、大岡川中央病院なの。明日……ってもう今日か。医大に連絡して、ベッドが空いてたらそっちに移るって。クルスくん、私が来るまでずっと付き添っててくれたんだけどね。だいぶ遅くなっちゃったし、悠が目を覚ますの、何時になるかわからなかったし」

(そうだ……思い出した)

 どくん、と胸が締め付けられた。

 クルスの知り合いだ、という少女――確か、セーラと言った――が、悠に怒っていた。その話しぶりから、彼女とクルスは過去に深い関係にあったことが想像できた。

『クルスはゲイなんかじゃない!あんたの汚い性癖に、引っ張り込まないでよ!』

 悠はセーラに罵られている間、彼女のピンク色の唇を見つめていた。

 それはまるで花が咲いたように可愛らしくて、「女の子」を象徴しているように見えた。

 そして彼女は言ったのだ。

『この間は家泊めてくれたのに』――。

「……っハァッ……」

 悠は胸を押さえた。心臓が痛い。

「悠、ちょっと、大丈夫?」

 母親が素早くナースコールを押した。

「ッ、ハァ……ッハァッ……」

「悠!」

 看護師が駆けつけてくる。

(クルス……クルス……)

 何やら注射を打たれ、必死で呼吸しているうちに、悠はまた意識が遠ざかっていった。

(クルス……あののこと、家に泊めたんだ……)


 医大のベッドが空くまでの数日間、悠の部屋には面会謝絶の札がかけられた。

 季節柄、市井では風邪が流行していたし、悠の体力はもちろん、免疫機能もかなり落ちていると判断されたからだ。

 クルスは毎日のように見舞いに来て、ナースセンターに見舞いの品を置いていった。それは高橋に託された冬休みの課題だったり、戸田と庄司連名の花束だったり、クルスが買ったらしいお菓子だったり、様々だった。

 顔を合わせない日が続くと、逆にクルスのことばかり考えてしまう。

 あのセーラという少女とは一体どこまでの関係なのか……そんな、知りたくないことまで想像してしまう。そしてその想像の正否はともかくも、彼女を家に泊めたというのは事実なのだ。

(クルスは……普通に女の子が好きなんだ……)

『噂なんて利用したもん勝ち』

 そう、所詮、利用しただけのこと。「友だち」の悠を守るために。

(結局、悩んでるのは僕だけか)

 もやもやと気が晴れないまま、年末に悠は自宅に近い医大に移った。

 クルスとはあの日以来、会っていない。


 医大に移ってすぐ、色々な検査をされた。何時間もかかる検査は疲れるし、薬の副作用が代わる代わる襲ってくる。おかげで余計なことを考える余裕がなくなった。

 ようやく落ち着いた時には、世間は正月休みに入っていた。

 元旦に一時退院するかと聞かれたが、体力がすっかり落ちていたので、母親と相談して病院で過ごすことにした。

 クルスに会えたのは、冬休みの最後の日だった。

 その冬一番の冷え込みとなったその日、クルスは医大まで見舞いに来た。

『中央エスカレーターの吹き抜けの二階にカフェがあるから、そこで待ってて』

 クルスの携帯にそう送り、パジャマの上にカーディガンを羽織る。

「クルス!」

 悠の呼びかけに、クルスは軽く手を上げて応えた。ラウンジの天窓からぼんやりと差し込む冬の光を浴びて、クルスの金髪が輝いている。

「よ。久しぶり」

「うん」

 二人はなんとなく、話題を探す。あの日の気まずい空気が、どことなく後を引いていた。

 先に口を開いたのはクルスだった。

「……なんか、長引いてる?入院」

「ああ、一回お正月に帰っていいって言われたんだけど、やめたんだ。検査とか色々あって疲れてたし」

「そっか。いつ退院できるの?」

「それね、今ちょうどうちの母親が先生と面談してる」

「え、お前、行かなくていいの?」

「どっちでもいいって言われたから、こっち優先させちゃった」

 そして、早口で付け足した。

「……会いたかったし」

「俺もー」

 クルスは間延びした声で言った。

「……ほんと?」

 それだけのことが、悠にはくすぐったいほど嬉しかった。

「初詣とか誘おうと思ってたのに」

「行った?初詣」

「ああ、あのバカたちと」

「バカたちって……カイくんとタローくん?」

「ああ、あとタローの姉ちゃんと……」

 他愛のない会話。穏やかに流れる時間。

(ああ……僕はクルスが好きだ……)

 この時間がいつまでも続けばいいのに、と悠は思った。


 同じ頃。

 相談室、という小部屋で、悠の母親――月原めぐみは主治医と面談をしていた。

「月原さん、率直に申し上げますね」

「はい」

 医師の表情がいつも以上に硬かったので、恵は小さく覚悟を決めた。

「そもそもこの病気は、二十歳まで生きられる患者さんは10%ほどなんです」

「それは知っています」

 悠の心臓に異常が見つかったのは、生後まもない頃だった。それから恵とその夫は必死で病気のことを調べた。治療法も探した。だから病気に関わる一般的な知識はもう頭に入っていた。

「そうですね、失礼しました。で、悠さんなんですが、ちょっと今の状態を見ると、もうあまりもたないかもしれない、というのが我々のチームの見解でして」

 覚悟していたとはいえ、恵はさすがに一瞬、黙り込んだ。深く息を吸って、吐いて、ようやく落ち着きを取り戻し、ゆっくりと口を開く。

「もたないって……具体的には……」

「もって二年、早ければ……あと一年でしょうか」

 恵は瞑目した。それは、想像していたよりも短い未来だった。

「体力さえ戻れば、退院していただいて結構です。ご本人が望むなら、学校生活も続けていただいて差し支えありません。ただ、無理はしないように」

「本人には、このことは……?」

「お母さんからお伝えいただいてもいいですし、お母さんがお望みでしたら、私から彼に直接説明してもいいです。ただ、隠しておくのは、最近はあまりお勧めしていません。十分にご自分で判断できる年頃ですし、彼自身の人生ですから」

 医師はそう言って、深く頭を下げた。

「お力になれず、申し訳ありません。悠さんが一日も長く生活を続けられるよう、全力を尽くします」

 恵もまた、無言で深く頭を下げた。

 言葉は、見つからなかった。


「……なんか、痩せた?お前」

「どうだろ」

 クルスに言われて、悠は袖口をまくってみた。確かに手首の骨が前よりも浮き出しているような気がする。

「あ、そうだ」

 悠は思い出したように、カーディガンのポケットをまさぐった。

「これ」

 ポケットから出した透明のそれを、コン、とテーブルの上に置く。

「……スノードームじゃん」

「うん。クリスマスプレゼント……のつもりだったんだけど、渡しそびれちゃってて」

「そりゃあな。救急車の後、会ってなかったし」

 クルスはスノードームを両手で掲げるようにして、揺らしたり逆さにして振ったりして、小さなガラスの中に雪を降らせている。

「すげえ……嬉しい」

 クルスが眼をキラキラさせてスノードームを眺めているので、悠はとりあえず満足した。

「あ、雪」

 吹き抜けのラウンジは、天井から床までが一面ガラス窓になっている。その窓の外に、はらはらと雪が舞い出した。

「うわ。どうりで寒いと思った」

 クルスはそう言ったが、悠はずっと病院の中にいたので、外の寒さは実感がなかった。

「まるで、ここ全体がスノードームみたいだね」

 降り続ける切片が、世界を白く白く塗りつぶしていく。






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